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「久しぶりだね」彼が私のことを見上げながら言った。
「2ヶ月ぶりくらいかもしれないな」と私は椅子に座りながら言った。少なくない時間の推移はマコトに大人の気配をもたらしていた。
「タバコ、吸うんだな」既にテーブルの上に置かれた灰皿の上には数本のタバコが脆弱な形と化して重なっていた。そこから流線形の煙が上がっている。「まあな、オマエは吸うの?タバコ」と彼は言った。
「あんまりさ、吸うと少し頭が痛むからね」と私は言った。
「無理して吸うことないさ。なんか頼めよ、結構上手いぜ。ここのコーヒー」
私は近くにいた店員を呼ぶとホットコーヒーを一つ頼んだ。その間彼は新しいタバコに火をつけた。私は店内をぐるりと見渡した。彼の指定した喫茶店は恵比寿駅から少し歩いた路地裏にある小綺麗な店だった。店内は薄暗い電気に灯されジャズの音楽が控えめそうに店内を漂っていた。この前まで我々を取り巻いていたはずの豊穣な自然が無表情なビル群に変わってしまったのは不思議な感覚だった。それに私も彼も既に大人になりかけようとしていた。
「どう?大学?〇〇美大だろ?流石じゃないか」しばらくタバコを吸った後に煙をはきながら彼はそう言った。私は風景に溶けていく煙を見ていた。
「まだ、よく分からないな。講義もまだこれといって受けてない」
「キャンパスはどこにあるんだ?」
「上野さ」
「上野はいいところだろう」と彼は言った。
「上野はいいところだよ」と私は言った。
「大学の連中はどうだ?」と彼は言った。
私は首をかしげた。彼も首をかしげた。
「まだなんとも言えないな。ただ、」私がそう言いかけたところで先ほど頼んだコーヒーが運ばれてきた。ソーサーが木目調のテーブルにぶつかるコツンという音がいやに大きく響いた。私はコーヒーにミルクを一つ入れるとマドラーでかき混ぜた。コーヒーの香りが私の鼻孔をうった。
「ただ?」彼が私のことを見ながら言った。私は彼のマグカップに残されているコーヒーを見た。彼のホット・コーヒーは綺麗なブラックだった。
「ただね、やっぱりキミは優秀だよ」と私は言った。彼は何も言わなかった。おかげで私は一瞬何か可笑しなことを言ってしまったように感じた。そしばらくすると彼は笑いながら「急にどうしたんだよ。俺はそんなに優秀じゃないさ」と言った。
「キミは優秀さ。××大にだって簡単に合格したじゃないか」と私も笑いながら言った。今年からマコトは日本で一番難関である××大学の法学部に進学していた。例年私達の高校の進学実績は最高でも地方国立大学だっただけに彼の頭の良さは校内でも頭一つ抜けていた。
「あんなところ、少しだけ努力すればだれだって行けるさ」と彼は言った。私は何も言えなかった。
「××大はどうだ?オマエみたいなやつがたくさんいるのか?」少し考え込んだ後に私は彼に聞いた。
「そんなこと無い。うちの大学に来る奴のほとんどは馬鹿さ。もしくは変質者だ」と彼は言った。
「キミはどちらでもない」
「一緒さ。みんな馬鹿さ。周りが騒ぐと自分がさも偉くなったように勘違いするんだ」と彼は笑いながら言った。私は何も言わずにまだ少し熱いコーヒーを飲んだ。美味いだろ。それ。と彼は言った。ああ。と私は言った。しばらく私はぼんやりと彼のいる風景を眺めた。彼はその風景の中で美味そうにタバコを吸っていた。この前まで身近にいた男は少し遠い存在のように感じられた。
「最近アオイとどうなんだ?」と私は彼に聞いた。
「いつも通りだよ。何も変わらない。上手くいってるよ。オマエは?卒業してからアオイには会った?」
「まさか。キミ抜きじゃアオイには会えない」と私は笑いながら言った。
「何も気を遣わなくていいんだぜ。高校の頃からよく3人で一緒にいたじゃないか」と彼は嬉しそうに言った。
「ああ、高校の頃は楽しかった」と私はマグカップの中をぼんやりと眺めながら言った。
「高校の頃は良かった」と彼も言った。彼の言い方は少し哀しかった。
「これから楽しくなるさ」と彼は言った。
「東京は僕には少し大きすぎる」と私は言った。
「キミだってそのうち大きくなる」そう彼が言うと私達の間にひとしきりの沈黙が流れた。その沈黙をビルエヴァンスのピアノの音だけがひっそりと漂っていた。耳覚えのある曲だった。しばらくするとビルエヴァンスだね。と彼が言った。私はああ。と言った。このレコード、貸したこと覚えてる?と彼は言った。覚えてるさ、もちろん。と私は言った。良い曲だね。と彼は言った。良い店だね。と私は言った。本当に良い店だった。彼は何本目か分からなくなってしまったタバコの火を揉み消すと「オマエは変わらないな」と言った。誰もいない洞窟に向かって囁いているような言い方だった。哀しい言い方だった。
「キミはさらに男前になった」と私は言った。
「老けただけさ」彼は高校の時より少し長くなった髪をかき上げた。彼はさらに男前になった。
「こんど、ドライブに行こう」と彼は何か思い出したように言った。
「いいね」
「そこまで悪くない車だよ」
「タイヤが4つとハンドルがついてて前に走れればいいさ」と私は言った。
「免許は?」
「悪いな。持ってない」
「いいさ。オマエは助手席に座って俺が運転するんだ」彼はタバコの箱に手を掛けたがすでにタバコはなくなってしまっていた。
「ワクワクするね」と私は言った。
「海岸線を思いきり走ろう」
「僕は隣で何をしよう?」
「酒でも飲めばいいさ」と彼は言った。
「良いね」
「良いタッグだ」
「キャプテン・アメリカもアイアンマンもきっと勝てやしない」
「良いタッグだ」と彼は繰り返した。私も彼に賛同した。良いタッグに二票。彼との空間はとても心地良かった。そこにはとびきり綺麗な女も大理石でできたテーブルも必要なかった。
「昔みたいだな」私はポツリと言った。無意識に口から出た言葉だった。
「オマエは変わらない」と彼はもう一度言った。
「みんなは変わった?」
「ユーモアの欠落。みんなは大人になった」と彼は呟いた。
「イマジネーションの欠落」と私は呟いた。彼は2回頷いた。
「みんな似た服を着て同じ場所に行く」
「仕方ないさ。川は上から下にしか流れない」と私は言った。
「源泉に辿りつくには、」彼はコーヒーを飲みながら言い始めた。「源泉に辿りつくには、流れに逆らって泳がなければならない。流れに乗って下っていくのはゴミだけだ」と彼は言った。僕は頷いた。
「ポーランドの詩人の言葉さ」
「是非とも友達になりたいね」と僕は言った。彼も頷いた。ポーランドの詩人と友達になりたいに二票。
「上に向かって泳ごう」と彼は言った。
「ゴミが流れてくるかもしれない」
「オマエはタフだよ」
「キミもタフさ」
良い夜だった。他の客はほとんど姿を消し、周りには緑のざわめきと鳥の囁きが生まれかけていた。この時、私も彼もこの強大な都市の中で完全に自由だった。