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 そこには無欲と化した肉体があった。うっすらと筋肉を纏った肉体は私に背中を見せてごろんと転がっている。酒によって肌色の肉体の向こうがうっすらと赤らんでいる。試しに私はその背中の流線を指でなぞってみた。昨夜の欲望にまみれた肉体の背中を。肉体は動かない。私は自分の手をゆっくりとこの人間の首に回した。裸の胸が裸の背中に当たった。私の心は模倣の衝動に駆られていた。その衝動は官能的だった。今、私がこの人間の首を強く絞めれば世界は瞬く間に色彩を、律動を取り戻すだろうと思った。しかしながら私はゆっくりと首から手を離した。この美しい特権を私はまだ手放すわけにはいかなかった。ベッドに沈む裸の背中を見ながら私は昨日殺した犬のことを考えた。


 私は両腕に強い力を込めて犬の首を掴んだ。そのときどこかの骨が折れたような音だけが静かに川岸に響いた。犬は足を小さな足を勢いよくしならせながら激しく抵抗した。その動きは私を少しばかり困らせた。足の爪が私の肌を切りつけそこから赤い血が垂れてきた。私はさらに両腕に力を込めた。犬は声を上げようとしたが出るのはかすれた吃音のような音だけだった。瞳は飛び出してきそうな程見開かれ、その眼球には血脈がうっすらと浮かび上がっていた。そんな中でも瞳は私のことを捉えていた。私の心はそんな犬を見ながら昂ぶっていた。私はそのとき天秤に乗る生と死の重さを自在に操れることが出来ていると思った。


 すると犬の身体が痙攣を起こし始めた。私の腕はさらに強く犬の首を締め付けていた。私の長い爪が首に深く食い込んでいた。しばらくすると犬はぐったりとなってしまった。その光景は美しかった。私の髪は乱れ背中にはうっすらと汗が滲んでいた。全身に鳥肌が立ち、腕には乾きかけた血がついている。私は死んでしまった犬を持ち上げみた。犬の肉体は急速に温かみを失っている。犬の瞳を見てみたが瞳は既に白目を向いてしまっている。私は犬を地面に座らせると頭を撫でてみた。そして私はゆっくりと鼻に口づけをした。


 何故人の、動物の死を悲観しなくてはならないのだろうか。何故、生き物を殺す行為が残酷と見なされなければならないのだろうか。何故生物の内部を見て目を背けなければならないのだろうか。何故、流血や露出した臓器が醜いのだろうか。


 そう思いながら私は鞄からステンレス製のナイフを取り出した。私はナイフを眺めた。これから炎色に染められていくそのナイフを。私は犬の足を大きく広げ腹部がしっかりと見えるような形にして置いた。そしてゆっくりと刃をその腹部の肉体に当てた。小さな抵抗が消滅するとそこから血液が溢れだしてきた。そして刃を優しく前後に動かす。しかしながらある程度動かすとナイフは動かなくなってしまった。これ以上は私の力ではどうしようも出来ないと思った。ナイフを力ずくで取り外すと私は切り口に手首まで腕を入れた。温かい肉の壁を強引に推し進めていくとつるりとした塊に手が触れた。それはおそらく臓器の一つだろうと思った。私は力任せにその臓器を外に取り出してみた。薄い皮の剥がれる感触と共に黒く濁った物体が出てきた。それは水風船のような弾力のある筋肉の塊だった。私は顔を近づき匂いを嗅いだ。残念ながら血液の臭いしかしなかった。手は血で真っ赤に染まってしまった。髪にも血が付着してしまったがそんなことはどうでも良かった。それ以上に私は無力な幸福感に浸されていたのだ。


 私は犬を再び眺めた。その犬は美しかった。たとえ犬は死んでも犬の美しさは死んではいなかった。むしろ死後に残るその無機的な部分はより一層に犬を美しくさえもしているようだった。私は犬を抱きかかえた。切り口からいくつかの小さな肉塊がぼとりと落ちて行った。私はこの犬をいつまでも愛そうと思った。この犬を永遠に抱きかかえることが出来たらどれだけ幸せだろうかと思った。


 風は南から吹き始めていた。微風であったが時に勢いを増した。そしてピタリと止んだりした。その後には不吉な風が私達を包んだ。それはまるで違う世界に吹く違う種類の風のようだった。その風は無言の川面にうねりを生み出した。僅かに顔を出し始めた朝日は低く垂れた雲の向こう側から弱々しく私達を照らそうとしていた。事実、世界は美しくなろうとしていた。



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