小さな旅記
この旅記は私の証である。
当たり前の日常の中にはいなかった、そんな私が存在したという証である。
遠い東の空が明るくなり始めている。
鼻から呼吸すると冷たく澄んだ空気が肺を満たして、段々と目が覚めてくるのを感じる。
春は近いがまだ夜は寒く、その寒さを凌ぐ為にも早く目の前の駅から出発する列車に飛び乗りたいが、始発にはまだ時間もあり駅員すら見当たらず、もうしばらくこの寒空の下でじっと辛抱するしかないらしい。振り返って駅前の町に目をやれば、町は夜明け前の群青から少しずつそれぞれの色を取り戻し始めている。
そんな光景を綺麗だと思いながらぼうっと眺めていると、いつの間にか隣に来ていた相棒がおはようと呟く。同じようにおはようと返しながら始発までの時間を伝える。どうやらもう既に確認していたらしく、大きな伸びをしながら知っていると言った。
することも特にないので駅前のベンチに二人で座り、今日の予定を話を始める。と言っても私達の旅はいつも単純で、目的地が決まれば後はひたすらその方角へと向かう路線、または移動手段をとるだけだった。変更があるとすれば天候か、はたまた私の気紛れか。
私達が今いるところは、東から西へと延びるとある山脈の南側の麓にある町で、目的地はその山脈を北に抜けた先の町である。
乗る予定の列車が走る路線は山脈へと向かい、その隙間を縫うように走っている。今いる場所からはただ大きな山脈がずらりと並び、その先にどのような光景が待っているのかは想像もつかない。
私はこの時間が好きだ。町はまだ寝静まり、自分達以外の誰も存在せず、これから向かう先は想像できず、遥か遠くの景色に思いを馳せれば、体に自然と活力が湧いてくる。
隣の相棒がそんな私を見て、少し呆れた顔をする。私が無茶をするのを好む性格なのに対して、彼は安全、安定を好む性格である。彼からしてみれば先の見えない私の旅は、いつも不安や不満が付き物なのだろう。それでも毎回、こうして呆れながらもいつも付いてきてくれる彼も私は好きだ。
感謝の気持ちを表すために足元のカバンの中からラップでくるまれすっかり硬くなったパンを半分にちぎり、少し悩んだフリをしてから小さな方を彼に渡す。大きい方を渡せと不満を垂らし、それを受け流しながら二人で笑いながら硬くなったパンを頬張る。
これがいつもの私達のリズムだ。
背後で駅員の足音が聞こえ、駅全体が少しずつ活気づき始める。それに合わせて私達も無言で立ち上がり、鞄を背負う。もう一度地図を広げ、赤い丸のついた町と、そこへと至る路線と駅を確認する。駅員に切符を発券して貰い、駅の構内へと足早に進む。
見渡せば一両だけが到着していて、中は暖かい明かりが点っている。目的の列車であることを確認し、列車へと向かって歩きながらもう一度、東の空を眺める。
もう顔を出し始めた太陽が空を照らし、群青色の夜を西の空へと追いやっている。町も照らされ、そこで暮らす人達も目を覚まし始めていることを少しずつ煙突から立ち上り始めた煙で感じる。
また来るかもしれないし、もう二度と来れないかもしれない。
眩しい朝日の中、その光景を忘れないように目に焼き付けながら歩く。後ろの相棒も同じようにじっと町を見つめている。きっと同じような気持ちなのだと信じたい。
列車の扉の前に立つ。世界の、この町の今日一日が始まる。当たり前の日常がまた始まる。そして、今日の私達の旅がまた始まる。
この旅記の続きを私は書けるのだろうか。
明日がどうなるかも分からない日々、笑って今日をそして明日を迎えられるように祈りながら
今日も私は列車に揺られる。