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【5】

「大司教がこの件の中心人物だということは確認できたけど、何のためにこんなことをしているのかは結局よくわからないままだったわね」

「候補者たちからの寄付が欲しいのか、人脈や各国の情勢を掴んで何か仕掛けたいのか、どうとでもとれる態度だったね。とはいえ、師団長が最初に指摘していたように、家督を継ぐ前の若夫婦に提供できるものには限りがある。大司教のひとつの教会にいる任期はたいてい数年だから、その間にどれだけのことができるかな……」

「他に気になるのは、お茶会のときの他の候補者たちの態度だわ。ジュリエッタはともかくとして、マリアンヌまであんなに競い合うだなんて……談話室の中も暑かったし、聖堂内と同じように何か……そういえば、お茶には口を付けなかったわよね? あなたは」

 なので、カフォラもお茶は一口も飲んでいない。

「それはもうちょっとちゃんとわかってから話すよ。さて、次はどうやって切り込むかな」

(……また、そうやって話を逸らすのね)

 またまたユージーンに対する不満を積み重ねつつも、カフォラは話を引き取った。

「次に大司教と顔を合わせるのは、明日の夜のパーティね。それまでに切り込める材料を見つけたいところね」

「それに、そろそろナダル・ド・バルビエールにも接触したいな。まだ過去の選抜者の中に顔を見かけていない」

 小声でそんなことを交わしながら、カフォラとユージーンは教会の廊下を進んでいた。

 もちろん、ユージーンがかいがいしくカフォラの手を取って導いている。周囲からは仲の良い夫婦がたわいもない会話をしていると見えるはずだ。

 大司教レニエとのお茶会はあれ以上の進展はなかった。

 カフォラたちだけが長く大司教と話し込むことを警戒したのか、ジュリエッタ夫妻が再び戻ってきて、カフォラたちを追いやる。そのまま会の最後まで、深い会話をする機会は巡ってこなかった。

 お茶会が終わると、もうこの日は自由時間となる。ようやく教会内を探索する時間がとれるのだ。

 カフォラたちは、教会をのんびり見学しているように見せかけて、慎重に調べ始めていた。

 ときおり、司祭や過去の選抜者たちとすれ違う。そのたびににこやかに挨拶し、見学なら教会のあそこに行け、あそこも素晴らしい、とアドバイスされる。

 そのなかで思いがけない情報をもたらしてくれたのは、昨日、教会入り口の案内所にいた若い司祭だった。

「誰にでも勧められるところではありませんが、聖堂の円屋根の上はなかなか素晴らしいですよ。外側の通路からは、このサン・フルーラ教会の敷地や、周囲の街並みがまるっと見下ろせて、なかなかの眺めです。それに窓から内側を覗けば、壁面の彫刻や天井画も間近で見られます」

(……説話のときに見つけた通路ね……!)

 忍び込まなくても、屋根の上に登れるということか。

 カフォラは司祭に続きを促す。

「円屋根の上に登れるのですか?」

「ええ。正面入口の左手、案内所の反対側に階段の扉があります。鍵はかかってないですし、禁止もされてませんから、たまに参拝のついでに登られる方もいますよ」

 その言葉に、カフォラはそっとユージーンに目配せした。ユージーンは瞳にわずかに苦笑の色を滲ませたものの、小さく頷く。

 同意を得たので、カフォラは司祭に向かって瞳を輝かせてみせた。

「それはきっと素晴らしい景色でしょうね! わたしもぜひ見てみたいです! わたしたちも登らせていただけませんか?」

「……いや、しかし、ご婦人には恐らくきつい階段ですよ」

「大丈夫です。わたし、小さい頃はお転婆だったんです」

「よく庭の樹に登ったりしては父上に怒られていたものね……たぶん彼女なら大丈夫です。観光客でも登れる場所なのでしょう?」

「ええ、まあ、男性の方でしたら、わりと挑戦される方はいらっしゃいますが……」

「僕が見ていて無茶はさせませんから。せっかくだから、そんな素晴らしい景色をカフォラに見させてあげたいのです」

「どうかお願いします」

 カフォラは両手を胸の前で握り、じっと司祭を見つめた。その視線に耐えかねたのか、司祭は目を細めて彷徨わせ、やがて大きく息を吐き出す。

「……わかりました。そこまでおっしゃるなら、ご案内しましょう。でもくれぐれも無理はなさらないでくださいね」

「はい! ありがとうございます!」

 はしゃいだ声を上げながら、カフォラは内心でにんまりと拳を握った。

(よし! 教会全体が見られるなんて、構造を把握する良い機会だもの。無駄にはできないわ!)

 隣に立つユージーンをちらりと見ると、同じことを考えていたのだろう。にこりと笑った顔が返ってきた。今度はカフォラが頷き返す。

 そして二人は、壁際の登り口に向かって歩きだした若い司祭の後に続いた。




 剥き出しの煉瓦に挟み込まれるように狭い通路は、人が一人ようやく通れるほどの幅しかない。足元も不規則に斜めになったり段差があったりと不安定だ。

 ところどころにある採光窓のおかげで明るさに不足はないが、それでもうっかり足を踏み外したりしないように、カフォラは常に壁に手を添えていた。

(ちょっと、計算違いだったわ……っ!)

 若い司祭とユージーンの後に続いて通路を進みながら、上がってきた息をごまかすように大きく息を吸う。

 教会入り口の左手にあった質素な扉を潜って、屋根上に向かう通路に入ってからどれくらい時間が過ぎただろう。急な階段を身廊の上あたりまで登り、そこからは聖堂の円蓋の内部に造られた、折り返しの多い斜めの通路を進む。

「大丈夫かい、カフォラ。少し休もうか?」

「いいえ、平気です。お気になさらず!」

「もう円屋根の三分の二は登ってきています。あと少しですよ」

 司祭の言葉に、カフォラはよろめきかけた足に力を入れ直した。

 普段の彼女だったら、これくらいの道はなんの苦もない。だからこそ屋根上に登ろうとしたわけだが、今日はいつもと違う格好をしていることを忘れていた。

 オルテン師団の制服とは比べ物にならないくらい動きにくくて重いドレス。踵の高さは抑えてあるものの、こちらも重くて底の硬い靴。

 見た目は可愛らしいが、身体を動かすにはまったく向いていないものたちだ。それらのせいで、カフォラは余計に消耗を強いられていた。

 だが、そんな様子を、宿敵であるユージーンに悟られるのは、カフォラの挟持が許さない。

 額に浮きかけた汗をハンカチでさっと抑えて、カフォラは何でもない素振りで必死で足を動かしていた。

 息が上がらないように足元を見つめて一歩ずつ進んでいると、不意に目の前に大きな手が差し出された。

 視線をずらすと、前を歩いていたはずのユージーンが立ち止まり、いつもの穏やかな笑顔で、自分に向かって手を伸ばしていた。

 思わず、眉根が寄る。

「何よ。手助けなんていらないわよ」

 先を行く司祭には聞こえないように小声で、だがはっきりとその手を拒否する。

 しかし、ユージーンも耳元で囁くようにして反論してきた。

「ああ、君にはいらないかもしれないけど、可愛い奥さんを助けようとするのは、夫にとっては当然の努めだろう? だから、大人しく助けられてるフリをしてくれなきゃ」

「……っ」

 確かに、ここで“夫”の手を振り払うのは不自然だ。そして、今の状況的には、助けがあった方が楽だ。

 そうはいっても、素直に手を借りるのは悔しい。

 ユージーンは、役柄の理由を付ければカフォラが断れないことを見越して、手を差し出してきたのだろうか。

 しばらく逡巡して、けれど結局カフォラは差し出された手に自分の手を重ねた。

 ユージーンがこちらに向ける青紫の瞳が、本心からカフォラを労っているように見えてしまったからだ。

(勘違いしたらダメよ、カフォラ。ここにいるのは、あのユージーン・ド・シオンよ。あくまでも演技しているだけなんだからっ)

 心の中でそう言い聞かせて、いったん預けた手から力を抜きかける。すると、ぎゅっと強く握り直された。

「ちょ……っ」

「あともう少しみたいだから、無理せずゆっくり行こう。もう少し広い通路なら、僕が抱いていってあげるんだけどね」

 真顔でそんなことを言われて、カフォラは目を丸くする。

「それは、重いから無理よ……っ!」

「君みたいに華奢な身体なら、妖精を抱くようなものだよ」

 演技にしても恥ずかしい台詞に、カフォラの頬が引き攣るが、ユージーンは気にした様子もなく、カフォラの手を握り続ける。そしてちょうどよい具合に力を掛けて、カフォラが前に進む助けとなってくれていた。

 その絶妙な加減は、ユージーンがカフォラの状態をよく理解してくれている証しのようで、足を進めるうちに、いつの間にか安心して彼の手に縋ってしまっていたことにカフォラが気付いたのは、その手が放されたときだった。

「ほら、着いたよ」

 ユージーンの声と同時に、カフォラの頬を爽やかな風が撫で過ぎていった。

 急に視界が明るくなって、反射的に目を細める。

 それからゆっくり瞳を開いて、飛び込んできた光景に、カフォラは息を詰めた。

「……わぁ」

 喉から漏れたかすかな声は、いささか淑女らしからぬものだったかもしれない。慌てて口を閉じて、だが、目の前に広がっているものからは視線は逸らせなかった。

「お疲れさまでした。ここがサン・フルーラ教会聖堂の円屋根の上です。この景色を見られるのは、ここまで苦労して登ってこられた方だけですから、十分にお楽しみください」

 司祭に言われるまでもなく、カフォラもユージーンも、瞳に映るものをすべて記録するかのようにじっくりと眺めることしかできなかった。

 彼らが立っているのは、円屋根の天頂部分だ。円屋根の中心に高く立てられた宝珠を支える棒の周囲に、十歩四方の露台が設けてある。円蓋内部の階段は、いきなりそこに続いていた。

 露台の四方から、こんどは円蓋の外側に沿って細い階段が下りていて、それが円屋根の窓の外側の足場につながっている。

 カフォラたちの足元には、陽光を弾きながら滑らかな曲線を描く白大理石。その先には真っ直ぐな身廊の屋根と、教会に関連するいくつかの建物の屋根。予想通り、教会の敷地が見渡せて、構造がよくわかった。

 そして教会を囲む塀の外側には、ル・シェネ首都の優美な街並みが続いていた。赤茶や青緑の屋根瓦が、放射線状に伸びる道に沿って並んでいる。隙間から見える壁の色もとりどりだ。祖国オルテンの、茶色い石を切り出しただけの武骨な通りとはまったく異なる。

「とても素晴らしい景色ですね! ここまで来た甲斐がありました。ありがとうございます!」

「気に入っていただけてよかったです」

 興奮した声を上げるカフォラに、若い司祭ははにかんで応える。

 それを見ていたユージーンが、ふっとカフォラと司祭の間に身体を滑り込ませてきた。さらに、整った顔が近付いてくる。

「あなた?」

「そんな嬉しそうな表情を、僕以外の人にあまり振り撒かないでほしいな」

「……え?」

「ここから見える景色はとても素晴らしいけど、それを見ている君の方が僕にとってはもっと素敵だよ」

「あ、あなた!」

 肩に腕を回され、身体を引き寄せられて、カフォラはまた焦った。しかしユージーンは例のごとくそんなカフォラには頓着せず、いっそう腕に力を込めてくる。

 頬がくっつきそうなくらい近づいたところで、ようやくその存在を思い出したかのように、司祭ににっこりと笑いかけた。

「ここまで案内してくれてありがとうございました。おかげで妻も喜んでいるようです」

 ユージーンの口調も顔も穏やかだったが、カフォラを引き寄せたままの態度が、有無を言わせない空気を発していた。

 それ以前に、甘ったるい二人の雰囲気にアテられていたのだろう。司祭は気まずそうに頬をかく。

「い、いえ、たいしたことはしていません。気に入っていただけたようで何よりです。……もう道順はお分かりですよね? 私は先に降りています。仕事もありますし。お二人はお好きなだけゆっくりなさってくださいっ」

「お手数おかけしました」

 さっさと踵を返した司祭の背中が、階段口に消えないうちから、さっそくとばかりにユージーンがカフォラの腰に腕を下ろして、さらに引き寄せられる。身体がいっそう近付いて、額が触れ合うほどに距離が詰まった。

「あなた!」

 じっと瞳を見つめられて、耐えられなくてカフォラは両手を前に上げてユージーンを押し止めようとする。だが、実際に接触する直前で、ユージーンの顔は止まった。

 本当に目と鼻の先にあるユージーンの青紫の瞳は、思いもよらずに真剣な色を湛えていた。

「珍しいね」

「……えっ?」

「君の瞳の色。普段は榛色ヘイゼルなのに、陽の光が当たると薄緑になるんだ」

「え……目、の色?」

 思ってもいなかったことを突然指摘されて、中途半端に上げたまま行き場のなかった両手を、そのまま目許に移動する。

「……言われてみれば、光の具合によって色味は変わったと思うけど、何色になってるかまではいちいち気にしてないわ」

「今は薄い緑だよ。磨いた緑柱石みたいに、透き通って綺麗な色だ」

 容姿や能力を誉められることには慣れている(それどころか、より誉められたい)カフォラだが、特定の部位をこんな風に言われることは初めてで、どう反応したらいいのかわからなかった。

(綺麗、っていうなら、ユージーン・ド・シオンの青紫の瞳の方が宝石みたいよ)

 そんなことを思ったが、口には出せなかった。代わりに出てきたのは、いつも通りの素っ気ない声。

「そ、そんなことはどうでもいいでしょっ。司祭もいなくなったことだし、白々しい演技はいい加減にして、早く調査しなきゃ」

 ユージーンはそんなカフォラにふっと口許を緩めて、すんなりと身を離した。

「まあ、あまりのんびりとはしていられないか」

 直前までの甘い気配をすっかり消した口調に、さっぱりしたような少し寂しいような、なんとも言えない気分になったことに、カフォラは困惑しつつも、任務に専念することにした。

 まずはその場を足早にぐるりと回り、どこから何が見えるのかをざっくりと把握する。

 西側が身廊の正面入り口、東側にカフォラたちがいる聖堂、南北には神職者の宿舎や執務場所と思われる建物と庭が点在していた。それらを取り囲む塀は石造りのしっかりしたものだが、侵入を阻むためというよりは教会の威厳と敷地を示すためのものらしく、乗り越えるのは難しくなさそうだ。

 円屋根の窓へ向かう階段も、ゆっくりと降りてみる。

 こちらは露台と比べると狭いが、手摺りもしっかりしているので、ドレス姿でも行けないことはない。風にあおられるスカートを押さえながら、窓の前に降りた。

 窓はカフォラとユージーンが二人で覗き込める程度の大きさだ。

 礼拝の時間は終わっているから、聖堂内には誰もいない。それを良いことに、そっと窓を開けて内側に身を乗り出す。

 真上から見ると、床面に描かれた繊細で華やかな模様の全体像がよくわかる。壁や天井に描かれた神書の状景と綿密に絡みあっていて、芸術作品としても素晴らしいものだ。

「さすがル・シェネだね」

 ユージーンがこぼした嘆息に、カフォラも頷くしかない。

 それから、聖堂内を細かく観察していく。

 祭壇、暖炉、説話用の書見台、信者用の木製長椅子……聖堂内で見ていたものと変わりはなさそうだ。

 ふと、目に入った場所にカフォラは首を傾げた。

「あれ? あそこにも通路があるのね」

「どこ? ……ああ、下からは気付きにくい場所だね」

 聖堂内の壁と円蓋のつなぎ目にあたる部分にぐるりと一周、細い通路があるのに気付いた。通路の手摺りは柵ではなく壁状になっているため、下から見る限りは、壁面の装飾が出っ張っているだけに見えたのだろう。

「どこから登るのかしら」

「あそこに小さな出入り口があるから、聖堂の裏のどこかに階段があるんじゃないかな。清掃用の通路といったところか」

 その細い通路の隅には、掃除の名残か、ロープの束や細長い棒などが置きっぱなしになっていた。

 それを見ながら何かを考えている風だったユージーンが、カフォラを振り返った。

「ふーん……ちょっと聞きたいんだけど、君の“糸”って、どれくらいの距離まで届くの?」

「え?」

 突然の質問に、カフォラは眉を寄せる。ユージーンを見返すと、彼の視線はカフォラの左手首に向いていた。

 カフォラの手首には、袖のレース飾りに隠れるように、ドレスと共布のリボンが結んである。そのリボンの下に銀色の武骨な腕輪があることを知っているのは、ユージーンだけだ。

「そ、そんなこと、軽々しく教えるとでも思っているの!?」

 武器の性能を明かすことは、自分の限界を晒すことにつながる。師団の同じ部隊のメンバーにだって、どんな武器を使っているかほとんど明かさないというのに、宿敵のユージーンになんて教えられるわけがない。

「じゃあ、あの宝球に届く?」

 ユージーンが指差したのは、聖堂の天井から太い棒でまっすぐに吊り下げられている金色の球だった。

 球の位置は天井添いの通路と同じくらいの高さ。今カフォラがいるところからは、人の背丈の数倍は離れている。

「どうしてそんなこと教えなきゃいけないわけ?」

「ああ、あそこまでは届かないなら、いいよ。できないことを聞いて悪かったね」

「っ……! 誰も、できないとは言ってないでしょ!」

「そう? 別に無理しなくてもいいよ。誰にでも限界ってものはあるんだ」

「だから! できないなんて言ってないってば! 見てなさいよ!」

 いいようにユージーンに乗せられているのはわかっていた。だが、自分の能力を低く見積もられるのは許せない。ましてやそれがユージーンだとなれば。

 カフォラは手首のリボンをするりとほどくと、腕を顔の前に掲げた。突起を摘まんで、静かに引き抜く。ぴん、と張った細い糸が、きらりと光を弾いた。

 これは極細の繊維にダイヤモンドの粉を混ぜて縒り合わせた特注の品だ。鋼を糸状に加工したものよりも格段にしなやかで強度も高い。

 すう、と短く息を吸って、止める。

 はっ、と素早く吐き出すのと同時に右腕を大きく動かした。

 糸の先端が宝珠に向かって鋭く突き進む。

 目を細めていたカフォラは、わずかに手首を動かした。

 宝珠に届く、と思われた直前で、糸の先が大きく逸れる。

「あれ?」

 ユージーンの小さな呟きに、けれどカフォラは余裕の表情を崩さなかった。

 糸を持つ指先を絶妙の力加減で動かすことで、遠く離れた糸の先を思い通りに操る。

 糸の先端は、宝珠よりもさらに下方、祭壇に置かれた燭台に向かった。

 燭台に並んだ蝋燭の一番端。その一本の炎を掠めたところで、くるりと先が反転する。

 ふつり、と炎が消えて、白い煙が静かに立ち上る。

 それをユージーンが確認した頃には、煌めく糸は既にカフォラの手元に戻り、銀色の腕輪の中に隠れていた。

 聖堂内は、蝋燭が一本だけ消えている以外はなんの変化もない。何も知らなければ、あの蝋燭は自然に消えただけだと思うだろう。

 腕輪に再びリボンを巻き終えてから、カフォラはユージーンを見上げた。

「見てのとおりよ」

 何でもないことだというように、わざとそっけなく告げる。

 ユージーンは、とても楽しそうな表情になっていた。

「さすが、オルテン第九師団第二分団の才媛だね。お見事だ」

 ユージーンの言葉にはからかう色はなく、純粋に褒められている。

 カフォラも、自分の能力を見せつけるつもりでやった。

 けれども、素直に喜べない。結局また、ユージーンにいいように乗せられただけじゃないか。

「これでいいでしょ。そろそろ戻りましょう。いつまでもここにいたら、誰かに見られるかもしれないわ」

 静かに窓を閉めて、カフォラはさっさと階段に足を向けた。

「ああ、待って。僕が先に行くから、手を貸して」

「今は他に誰もいないんだから、鬱陶しい演技はしなくていいわよ」

 言葉通りにカフォラは軽やかに細い階段を上っていく。

 背後でユージーンが小さく肩をすくめたのには気付かなかった。

 円屋根の天辺の露台に戻ると、カフォラは最後の確認のつもりで、もう一度ぐるりと下を見回した。

 先ほどと変わりない教会内の光景に、異常なし、と判断しようとして、カフォラは動きを止める。

 気になったのは、教会裏手の小さな中庭だ。

(レニエ大司教……?)

 その庭は建物と植木に囲まれていて、地上からは中の様子がわかりにくそうな場所だった。だが、上空からは遮るものもなく、そこに立つ人々がよく見える。

 遠目にもよくわかる深紅の縁取りの僧服。あれを身に着けられるのは、このサン・フルーラ教会内ではただ一人、大司教レニエだけだ。

 その隣には、若い青年。世俗の服装と、斜めにかけた教会紋章入りの襷は、おそらく過去の選抜者のひとりだろう。

 肩にかかる程度の焦げ茶色の巻毛と、顎のしっかりした顔立ちはどこかに見覚えが、と脳内の記憶を探り、カフォラは榛色の瞳をより大きくした。

(ナダル・ド・バルビエール……!)

 オーベルリート師団長の執務室で見せられた似顔絵と特徴が一致する。

 ようやく、今回の任務のもう一人のターゲットを発見できた。

 カフォラの手に力がこもる。

「どうしたの?」

 遅れて戻ってきたユージーンが、カフォラの緊張した雰囲気に気付いたのか、控えめに声を掛けてきた。

「あれを見て」

「……あれは。ナダル・ド・バルビエール?」

「やっぱりそうよね。大司教と二人で、あんなところで何をしているのかしら……?」

 二人とも手摺りの陰に身を潜めつつ、可能な限りで覗き込む。

 さすがにこの距離では、話している声も聞こえないし、唇の動きを読むこともできない。

「また人が来たわ!」

 木立の下から、今度は数人の集団が現れて、カフォラは目を眇める。

 現れたのは、若い男ばかりだった。服装は、神職者でも教会の下働き風でもない。

 地味な色の服装に、革の籠手や脛当て、腰に挿した簡素な剣。街中であればたいして珍しくはない。しかし教会の内部、それも大司教の館で見かけるというのは……

「……傭兵?」

「そうだね。なぜ傭兵がこんなところに……」

 ユージーンも不審に思ったのだろう。カフォラと同じように、鋭く探る視線を地上に向ける。

「格好もばらばらだし、どこかの国や組織に属しているのではない、無所属の傭兵かな」

 先頭を歩く鋼色の髪の男が、格好や雰囲気から、その一団の長らしく見えたが、それ以上のことはわからない。

 先に中庭にいたナダルが、鋼色の髪の男に声を掛けたようだ。そして大司教レニエに向かって何か話す。傭兵たちはそれに従って礼をする。

「ナダルが大司教に傭兵たちを紹介しているように見えるわ。大司教が傭兵に何の用事があるの?」

「教会の警備に、傭兵が携わることがないわけじゃないだろう」

「警備の傭兵にわざわざ大司教が面会する? こんな裏庭で、教会側は大司教が一人きり。しかも、仲介しているのは、教会とは関係ない他国出身者ナダルよ」

「ナダル・ド・バルビエールなら、実家の伝手で傭兵と繋がっていても不思議ではないよ」

「でも、今、彼はオルテンのバルビエール家とはまともな連絡は取れていないはずだわ。特別な祝福の選抜者が、実家に隠れるようにして傭兵を手引きするなんて……レニエ大司教が、絶対に何か良くないことを企んでいるに違いないわ」

「断定はできないけれど、その可能性は高そうだ」

 カフォラたちが身をひそめて話しているうちに、地上の面談は終了したらしい。

 大司教レニエがまず中庭から出て行く。そのまま神職用の館に向かっていった。

 それに続いて、ナダルと傭兵たちも庭を後にする。ナダルたちは庭のすぐ隣の館に消えていった。その館は、教会内では装飾が控えめな、小振りなものだ。

「あの館を調べてみないといけないわね」

「それはもう少し待とう。もっと周囲の情報を集めて、脇を固めてからの方がいい」

「でも……」

「他にも傭兵に関わっている人物がいないとも限らない。特別な祝福の内容や、せめて過去の選抜者たちがどこに何人いるかを明らかにしてからでも遅くない。今の段階であまり先走っても良くないだろう」

 ユージーンは身体を伸ばして、下方を見回した。

「もう彼らの姿も見えなくなったかな。他に見られるものは全部見たし……じゃあ、そろそろ下に戻ろうか、愛しい奥さん? いつまでもここで風にあたっていては、身体にも悪いよ」

 再び甘ったるい雰囲気を纏い直した同僚に、カフォラは渋る気持ちを残しながらも従うしかなかった。

 階段口に向かうユージーンの背後で、カフォラももう一度、地上を見下ろす。

 件の中庭の周囲には、もう人影はない。ユージーンの言う通りこれ以上ここにいても、得るものはなさそうだ。

「……」

 だが、どうにも諦めきれない何かが、カフォラの感覚に訴えていた。

 それに突き動かされて、カフォラは右手を纏めた髪の中に伸ばす。刺さっていた小花の髪飾りのうちの一本を引き抜く。眼下の庭に誰もいないことを確認して、その髪飾りを手首を素早く返して投げつけた。

 小さな髪飾りは銀色の光を弾きながら、カフォラの目指した通りに、中庭の端あたりに落ちていった。

「奥さん?」

「今行くわ!」

 階段口で立ち止まって自分を呼ぶ声に、カフォラは身を翻す。その後は、今しがたの髪飾りのことは何もなかったかのように振り返らず、“夫”の元に小走りで駆け寄っていった。

 

 

 

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