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【4】

 聖堂の中に、大司教レニエの朗々とした声が響く。

「……そこでフローラは苦悩した。今すぐ教会を出れば、司祭の出立に間に合う。だがそれでは、教会を頼り集ってきたこの人々を見捨てることになる。悩むフローラの心に浮かんだのは、司祭に教えられた神の御言葉だった……」

 大司教は、この聖堂の特性をよく理解しているのだろう。聖堂の円天井に声を響き渡らせながらも聞き取りやすい絶妙な速度と声音で、神書の一節を滔々と読み上げていた。

 書見台に片手を預けて立つレニエは、端正な顔立ちと落ち着いた話し方の青年だ。長い金茶色の髪が、僧服の大司教を表す深紅の縁取りにかかっている。カフォラたちの事前調査では、レニエは四十歳に近いはずだが、見た目はもっと若々しい。

(聖女フローラが愛した司祭をこの大司教サマの姿で想像するのも、わからないでもないかな)

 若い女性の参拝客の中には、彼と説話の中の司祭を重ねて、彼のファンになっている者も少なくないという。

 他に物音のない聖堂で、ただ彼の説話だけを聞いていると、聖女フローラと司祭の伝説に特段の憧れがなかったカフォラですら、うっすらとレニエの姿に別の何かを重ねそうになる。

 サン・フローラ教会に来て二日目の朝。朝食後に案内されたのは、教会の最奥にあたる聖堂部分だった。

 教会の身廊部分は一般の参拝客も自由に出入りできるようになっているが、この奥の聖堂は許可された者しか入れない。その特別な場所で、大司教の説話を直々に聞けるということで、カフォラは興奮したフリで聖堂にやってきた。

 聖堂内も、教会の他の場所と同じく繊細な装飾で溢れている。広さはそれほどでもないが、ドーム状の高い円天井で実際よりも大きな空間に感じる。

 天井のところどころに開いた窓から、光が筋になって射し込んでいる。その光が交差するあたりに、天井から吊り下げられた宝珠があり、陽光を反射して輝いていた。

 日差しのおかげか、あるいはいくつもある暖炉で惜しげもなく火が焚かれているからか、聖堂内はとても暖かい。

 正面の祭壇前に設けられている説話台にレニエが立ち、それを囲むように置かれた木製の長椅子に夫婦ごとに座って話を聞く。

 レニエは聖女フローラの特別な祝福については触れず、ただ「選ばれたあなた方のために」と説話を始めたのだった。

 説話は半刻ほど続いただろうか。

 もともと神書にもフローラの伝説にもそこまで興味はなく。さらに昨夜の寝不足も重なって、カフォラはしだいに意識がぼんやりしてくる。

(……だめよ! 任務中でしょう!)

 気を紛らわすためにそっと周囲を見回した。

 マリアンヌ夫妻もジュリエッタ夫妻も、レニエの説話に聞き入っているようで、身動ぎせずにじっとレニエを見上げていた。

 次に、隣に座るユージーンに視線を移す。

 ユージーンは昨夜のことなど何とも思っていない素振りで(それがまたカフォラの気に障るのだが)、今日も朝から甘ったるい演技を続けていた。

 今も、内心が読み取れない穏やかな顔で、静かに説話を聞いている。

 そのユージーンが、ふいにカフォラに青紫の瞳を向けた。

(気付かれた!?)

 カフォラは慌てて視線を逸らす。

(べ、別にユージーン・ド・シオンを見てたわけじゃないのよ! たまたま視線を向けたタイミングだっただけで……っ!)

 そんな風に誰にともなく言い訳をしながら、大司教の説話に意識を戻す。

 けれどもすぐにまた、頭の中がぼんやりと重くなってくる。

(どうして……今まで、ちょっとくらい寝不足だからってこんなことはなかったのに……)

 唇を噛みしめても、握った手のひらの中で爪を立ててみても、意識ははっきりしない。

いままでなかった失態に、自分自身への不甲斐なさが沸きかけてきたとき。

「……カフォラ」

 彼女にだけ聞こえるくらいの小さな声がかかる。

 続いて、ユージーンの手が肩に触れる。

「君は、こっちの方がかわいいよ」

「……え?」

 唐突に告げられた内容を理解するよりも先に、ユージーンの手がカフォラの羽織っていたケープを取り去っていた。

 しっかりした布地に細かく刺繍が施されたケープは、上流階級の女性たちが朝のうちの公の場で身に着けるものだ。カフォラはその例に倣って羽織っていたのだが、他の女性たちは、着ている者と着ていない者が半々くらいだったので、必須ではなかったのだろう。

 カフォラのドレスは丸襟なので、急に肩を覆うケープがなくなって、アップにした髪の下の首筋が空気に触れて涼しくなる。

 思わず首に手をやると、ユージーンがその手を引き寄せた。

「何するのよ……っ」

「君の首筋は綺麗だから、隠さない方がいい」

「だからっていきなり……!」

「ああ、でも、他の人にあまりじろじろと見られるのは嫌だな。これを被っててもらおうか」

 ユージーンは例によってカフォラの話など聞く素振りなく、甘い台詞を呟きながら、カフォラが膝に掛けていた薄いレースのショールを頭の上からふわりと被せてきた。

 カフォラの視界がうっすら遮られて、ショールにまぶされていた微かな香水の匂いに包まれる。

 ショールの上から軽く肩を抱き寄せられて、耳元で囁かれた。

「これで、影響を減らせるはずだ。もうしばらくだから耐えて」

「え?」

 それ以上の説明はしてもらえなかった。

 レース越しにユージーンを見ると、何事もなかったかのように大司教の方に向き直っている。説話を聞きながら考え込んでいるように、口元に手を当てている。たっぷりとした袖口の布が口と鼻の回りを隠していた。

(口許……匂い?)

 ユージーンが何を意図してカフォラにベールをかぶせてきたのかはわからない。けれども、ユージーンのすることだから、何らかの理由はあるはずだ。

 そう思って、カフォラは大人しくされるままにベールをかぶったまま、頭を垂れていた。

 いつの間にか、頭の中の靄はずいぶんと薄まっていた。

 ユージーンの行動に驚いたからか、理由を考え始めたからか。

 とにかく、残りの大司教の説話は、いつものカフォラらしく周囲に気を配りながら聞いていることができたのだった。

 そうして、一刻ほどで大司教の説話は終わった。

「……これで本日の神の御言葉はおしまいです。神と聖女に感謝の祈りを」

 分厚い神書を閉じて、レニエ大司教は両手を祈りの形に組む。

 カフォラたちも、他の夫婦たちも、それに倣って手を組んだ。

「では、皆さん。後ほどまた」

 レニエは軽く微笑んで、数人の司祭を従えながら聖堂から出ていった。

 “また”というのは、この後に大司教を交えた茶会が予定されているためだ。

 司祭たちがいなくなったのを見計らって、カフォラは隣のユージーンに小声で話しかける。

「このベールはなんなの?」

「ああ、それは、聖堂内が暑かっただろう? それに香の匂いが強かったからね」

「香……?」

 確かに、ユージーンは鼻を抑えていた。カフォラはベールを外して鼻を動かしてみるが、匂いの違いはわからない。

 説話中に焚かれていた香は、すでに司祭が持ち帰っていて確認できなかった。

 もう一つ、聖堂内の気温については、ベールを外してみて改めて暖かさに気付いた。暖炉を勢いよく焚きすぎているからか、ケープを脱いでも暑いくらいになっていた。

「暑さと香がなんだっていうの?」

「君が辛そうだったから。ベールを被ってからはすっきりしたよね?」

「べ、別に、そんなの関係ないわよ!」

「そう? でも……」

 そこでユージーンは言葉を切った。周囲に座っていた他の夫婦たちが立ち上がり始めたのだ。

 ユージーンもカフォラの手を取って立ち上がらせる。

「さすが大司教様の説話だ。素晴らしかったね、奥さん」

「……ええ。大司教様から直接お話を伺えて、とても感動したわ! やっぱりフローラのお話は素敵ね!」

(結局、答えをはぐらかしたわね)

 そう思ったものの、今は大人しくするしかない。

 ユージーンに手を預けながら、カフォラは他の夫婦をそっと見回す。

「いいお話でした。まるでフローラと司祭様が目の前にいるようだったわ」

「大司教様のお話はいつまでも聞いていたいわね!」

 穏やかなマリアンヌだけでなく、勝ち気なジュリエッタも、頬を紅潮させてとこか遠くを見るようなぼんやりした瞳で祭壇の方を見つめていた。

 夫であるジョルジュとアランも、同じように高揚した顔だ。

 四人のその陶酔っぷりに、カフォラの中でちりり、と何かが引っ掛かった。

(いくら大司教の説話だからって、そこまで夢中になるほどのモノだった? こんな、まるで何かに操られているみたいな……)

「……!」

 カフォラは自分で思い浮かべたことに、はっと目を見開いた。

(暑すぎる気温、香の匂い……私たちをぼうっとさせて、何かしようとしていた?)

 それならば、意識が朦朧とするのにカフォラが抗えなかったのも説明がつく。

 そして、ユージーンの行動にも納得がいった。

 ケープを脱がせて体温を下げ、ベールを被せることで香の匂いを遮ろうとしたのだろう。

 実際に、ベールの香水の匂いのおかげで聖堂内の香が中和されて、カフォラは意識を保つことができたのだ。

 ユージーンは早い段階で聖堂内の異状に気付いていたのだろう。彼は薬草類の知識が豊富だ。香の匂いにも敏感に違いない。

(もしかして、助けられた? ユージーン・ド・シオンに!)

 自分が危うく罠にかかりそうになっていた悔しさと、宿敵に助けられた屈辱感に、カフォラは頭の中が熱くなる。

「ねえ、さっきの件だけど……」

 真相を確かめたくて、ひそめた声で話しかけようとしたが、またもやユージーンに遮られた。

「さあ行こう、愛しい奥さん。次は大司教様も一緒のお茶の時間だ」

 案内役が促して、皆が移動を始めていた。

 仕方なく、カフォラは口をつぐんでユージーンに従う。

 長椅子の間の細い通路をゆっくりと歩きながら、カフォラは聖堂内を名残惜しそうな顔を作って見回した。

(暖炉と香以外で、何か怪しい物はないかしら?)

 華やかな装飾の壁や祭壇、タイルを埋め込んだ床などには、特におかしいと感じるところはない。

 続いて天井の円蓋を見上げる。天頂に向けて次第にきつくなる勾配には、ところどころに明かり取りの窓がある。その光を受けて輝く宝珠も、どの教会の聖堂内にもある一般的なものだ。

(窓からの光では、何かを操るのは無理そうよね……)

 そうは思いつつも、円天井をじっと見回す。幸いにカフォラの視力はかなり良い。聖堂の高い天井を観察するのに、困ることはない。

「……あ、……!」

 ふと、あることに気付いた。

「どうしたの? カフォラ?」

 足を止めたカフォラに、一歩先にいたユージーンも立ち止まった。

 カフォラは、わざと大きく腕を伸ばして、天井の一角を指差す。

「見て、あそこ。天井のあんなところにも、神書の場面が描かれているわ!」

 そう言いながら、ユージーンに目配せする。ユージーンもそれに気付いてくれた。

「どこだい?」

「ほら、あそこの窓の近くの……」

 カフォラの目線に合わせるかのように、ユージーンが膝を曲げて顔を近付けてくる。

 そのユージーンの耳許に、カフォラは小さく囁いた。

「あそこの窓も、他の窓も窓枠の向こうに少し離れて手摺りがあるわ。窓の外側に人が通れる幅がありそう。内側には通路はないから、外から登れるのかしら」

「聖堂の屋根に登る気かい?」

「あそこからなら、聖堂内部の様子がよく見えるから、何か怪しい仕掛けがないかわかるわ。それに聖堂の屋根なら、教会の敷地内も見渡せるはず」

「それはそうだけど……」

 そのとき、案内役がカフォラたちを呼ぶ声がした。

 二人はいったん会話を中断する。

「詳しくは後で話しましょう」

「ああ。それまでは無茶な行動はしないように」

「当然でしょう。私を何だと思っているのよ」

 短くそれだけやり取りして、それ以降は仲睦まじい夫婦のフリに戻った。

 カフォラは、ユージーンに手を引かれるままに、静かに聖堂を後にしたのだった。




 お茶会は昼食も兼ねて食堂で始まった。

 参加者はカフォラたち候補者の夫婦、大司教と幾人かの司祭。軽めの食事を済ませた後に、談話室に移って歓談の時間となる。

 談話室は窓が大きく、更にこちらも暖炉の薪がふんだんに炊かれて、温室のように暖かい。柔らかなソファがゆったりと配置され、低いテーブルには、たっぷりのお茶のポットと何種類もの菓子が並べられている。

 季節の果物やクリームが贅沢に使われて、見た目も華やかなケーキや焼菓子に、女性陣の歓声が上がった。

 カフォラも、つい目を輝かせてしまう。

 だが、ユージーンに耳許で囁かれて、カフォラの榛色の瞳がすっと細まった。

「念のため、僕が口を付けたか、もしくは僕が勧めた物以外は食べないで」

「……わかったわよ」

(どうしてそんなことを同僚のコイツにいちいち言われなきゃいけないの!)

 浮き上がった気持ちに水を差されて、反発心が湧き上がるが、ぐっと飲み込んだ。

 先ほどの聖堂でのことを思い出したのだ。

(お茶やお菓子にも何かあるかもしれない、ってこと……?)

 そう考えると、華美なケーキ類が急に毒々しい色合いに見えてくる。

 暖炉前のソファに大司教が腰掛けたのをきっかけに、各人もそれぞれ座っていった。

 席次や序列が定められているわけではないが、候補者たちの暗黙の力関係から、座る場所は決まってくる。

 大司教のすぐ隣のソファにはアランとジュリエッタ。少し離れてジョルジュとマリアンヌ。カフォラとユージーンはさらに離れて窓に近いところに座る。

 暖炉から離れているぶん、涼しくて助かった、とカフォラは思った。

 お茶のカップが行き渡ったあたりで、さっそくジュリエッタたちが大司教に話しかけ始める。

「先ほどの説話はとても素晴らしいものでしたわ! 一度だけではもったいない。もっとたくさん……」

 良く響く声が、談話室に満ちる。

 カフォラはその様子を静かに見ていた。配られたお茶にユージーンは手を付けていない。なので、カフォラもカップを膝の上で持ったままだ。

 他の参加者は皆、お茶や菓子に口を付けながら、お茶会の会話は進む。時折マリアンヌやカフォラたちにも話が振られはするが、中心になっているのはジュリエッタだ。

「それで、大司教様。祝福を授けていただいたらのお話にはなりますが……」

 ひと通りサン・フルーラ教会の美しさや説話の素晴らしさを称えてから、ジュリエッタがそう切り出す。途端に、その場の空気が牽制、期待、値踏み……と複雑な色を孕んだ。

「わたくしたち夫婦は、サン・フルーラ教会への継続的な支援をお約束しますわ。もちろん、大司教様ご本人への感謝も忘れません。ね、アラン?」

「ええ。単に寄進するだけでなく、教会の領地への融資も優遇させていただきます。他の家ではそういう貢献はできないでしょう」

 アランはカフォラやマリアンヌたちを見て、唇を歪めて笑う。

 ジュリエッタはさらに前のめりになってたたみ掛けた。

「ですから、サン・フルーラ教会のお役に立てるわたくしたち夫婦に、ぜひとも聖女フローラ様の祝福を授けてくださいませ」

 自分たちの優位を疑っていないのだろう。言い切って、ジュリエッタはカフォラたちに勝ち誇った笑顔を向ける。

 それに触発されたのか、ふだんは大人しいマリアンヌも身を乗り出した。

「それでしたら、私たちはお金では買えないものを、大司教様にご用意します」

「我が家の名を出せば、協力的になる家系はたくさんあります。教会に有益な人脈を築くお手伝いをいたします。こういうことは、ただの成り上がりの商売人には難しいでしょう。ル・シェネ(この国)にしっかりと地位を確保している我が家ならではです」

 ジョルジュもマリアンヌに同調して意気込んでいる。

「成り上がり、とは失礼な!」

「おや、私は別にカタローナ家のことだとは言ってないですよ」

「白々しい! 聞いてれば誰のことかくらいわかるわ! 大司教様、こんな無害そうな顔をしておいて嫌味ったらしい人たちの人脈なんてどんなものかわかりません。やはり役に立てるのは、わたくしたちです。どうぞ、祝福はわたくしたちにお願いいたします!」

 勢い込む二組の夫婦が出す好条件に、居合わせた司祭たちの顔が緩む。それを見て、候補者夫婦がさらに気前良く話を広げていく。

 中心にいるレニエ大司教だけは、特に表情を変えていなかった。だが、にこやかに候補者たちの話を聞いていて、悪い評価はしていなさそうだ。

 やがて、ひととおり話してひと息つきたくなったのか、ジュリエッタたちがそれまで静かにしていたカフォラたちに目を付けた。

「そうそう。山国からわざわざ出てこられたそちらのお二人はどうなの? さっきからわたくしたちの話を聞いているだけじゃない」

「やめておけ、ジュリエッタ。貧しい山奥では、たいした物は寄進できないんだろう」

「あら、そうね。ごめんなさい。荒っぽいことしかできないお国の人に、よけいなことを聞いたわね」

 あまりにもあからさまに馬鹿にした言い草に、カフォラは反論する気が殺がれた。

(こんなとき、ユージーン・ド・シオンならどうする?)

 隣に座る青年をそっと見上げる。

 その動作に付け加えて、眉尻を下げて唇を結び、ユージーンの袖を少し引っ張る。ジュリエッタたちの態度に困惑して夫に助けを求める風情は忘れない。

 そんなカフォラに対して、ユージーンは、彼女の手をそっと握って、柔らかく微笑む。それは、妻を安心させる笑顔として完璧だ。

 それからジュリエッタたちを横目に見つつもレニエ大司教に真摯な顔を向ける。

「とても心苦しいのですが、カタローナご夫妻のおっしゃるとおり、僕たちには他の方々のような貢献はできません。でも、聖女フローラとサン・フルーラ教会を想う心は負けないつもりです。せめてその心を大司教様にお伝えさせてください」

「心ね。それが教会のお役に立てるのかしら?」

 ジュリエッタが肩をすくめる。そして、競争相手にならないとわかって興味を失ったのだろう。ソファを立ち、テーブルに近付いて菓子を選び始める。

「それでしたら、席を替わりましょう。こちらの方が大司教様とお話しやすいわ」

 成り行きを見ていたマリアンヌが控えめに言って席を立つ。ユージーンは軽く頭を下げて、カフォラを促しソファを移った。

 他の司祭たちもこの夫婦には期待していないのだろう。菓子やお茶に気が逸れていく。

 一方のレニエ大司教は、近くに来たカフォラたちを変わらない笑顔で迎える。

「神や聖女フローラの御心に適う心ばえや行動が一番大切なのであって、差し出すものだけで判断されるわけではありませんよ」

「そう言っていただけると、気が安まります。他の方々と比べるとどうしても気後れしてしまいまして……」

 ようやくターゲットのレニエに接触できた。

 当面の会話はユージーンに任せて、カフォラは件の大司教を観察することにする。

 ここまでの様子では、レニエは他の司祭たちほど金や物品に執着していないようだ。それは若くして大司教の地位まで上り詰めたからか。あるいは、もう十分なくらい寄付を集めているからか。

 ユージーンも探りを入れるつもりなのだろう。お得意の穏やかな微笑みを浮かべているが、青紫の瞳の奥には、カフォラにだけわかる程度に鋭い光が見え隠れしていた。

「僕たちが大司教様にご提供できるのは、金品や人脈ではなく、情報程度しかありません。それもどれほどのお役にたてるかどうか」

「信者の方が進んで差し出されるものなら、神にとって価値は同じです。どのような情報をお持ちなのですか?」

「僕たちの国はオルテンです。ご存知のようにち、オルテンには傭兵を求めて各国から問い合わせがかきています。我が家はオルテンの中枢に近い。その各国の状況をお知らせしましょう」

「ほう……」

 レニエはしばし間をおいた。

「それを私に教えてどうしようと?」

「どうもありません。ただ、これくらいしかご提供できるものがないのです。何か大司教様のお役に立てるでしょうか?」

「……さあ、どうでしょう。わかりませんが、貴方がたが差し出したいというのならば、受け取りましょう」

 鷹揚に頷いたレニエを、カフォラは冷めた瞳で見ていた。

(簡単に尻尾は掴ませないか。……でも、気になる言い回しね)

 ユージーンは一貫して“レニエ大司教に捧げる”と言っている。本来であれば、教会や神への供物というべきだ。

 だが、レニエはユージーンの言葉を否定しなかった。

(候補者たちからの寄付は自分のもの、とでも思っているのかしら)

 それはつまり、候補者たちを集めたのも——もっと言えば、“特別な祝福”の仕組みを作ったのも自分だから、ということだろうか。

 それであれば、目的はともかく、黒幕はレニエだとして調査の対象を絞り込める。

(結論を急ぎすぎかな。でも……)

 確かめたい。そう思って、カフォラはユージーンの隣から身を乗り出した。

「あのっ。聖女フローラの祝福を授かることができるかどうかは、大司教様のご判断も大きいと伺いました。それはやはり、大司教様が祝福について一番よく理解されているからでしょうか?」

「そうですね。私はこの教会の神職の筆頭ですから、この教会内の物事には責任があります。また何より、まだ祝福は始まって日の浅いものです。私も責任者として深く関わって、よりよい仕組みにしていきたいのですよ」

 責任者、という単語に、カフォラはユージーンにちらりと視線を投げた。ユージーンも小さく頷く。

「それでは、わたしたちもそれに貢献できるような素晴らしい夫婦になれるよう努力します! ね、あなた」

「ああ。君を想う心は誰にも負けないけれど、気持ち以外のことも精進していくよ」

 ユージーンはにこりと微笑んで、カフォラの額に軽く唇を寄せる。

(……な、な、何するのよー!)

 という叫びは、何とか心の中だけに留められた。

 嫌がっているとは見られないように気を付けながら、カフォラはユージーンの腕から離れる。

 それから、もう一つだけ、とレニエに向き直った。

「それで、大司教様。不勉強でお恥ずかしいのですが、責任者である大司教様にお伺いしたいことがありまして」

「何でしょうか?」

「あの、聖女フローラの特別な祝福とは、具体的にどのようなものなのでしょう? きっととても素晴らしいものだということは、選抜者の先輩方の様子からわかるのですが、詳しい想像ができなくて……」

 お嬢様育ちゆえの無邪気さを装って、小さく首を傾げてみせる。

 そんなカフォラに、レニエは細い目をさらに細めてみせた。

「祝福は目に見えるものではありませんからね。選ばれた夫婦に、聖女フローラがより多くの加護を与えてくださる、というより詳しいことはありません」

 教科書的な返答に、カフォラは内心でため息を漏らす。

(まあ、こういう回答にしかならないわよね)

「そうですか。わかりました」

 出過ぎた質問をしてしまった、と、しょげた表情を作ったカフォラをどう思ったのか。レニエが言葉を続ける。

「ひとつ付け加えるとすると、特別な祝福を授かった夫婦は、心配事がすっかりなくなって、とても明るい気持ちで日々を過ごせるようになったということですよ」

 柔和な顔でそう言ったレニエだが、唇の端が必要以上に持ち上がっている気がした。カフォラは話を訊きながらも、そこから目を離せなかった。

 

 

 

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