【1】
ル・シェネ国のサン・フルーラ教会が祀る聖女フローラは、恋人たちの守護聖人といわれている。
ごく普通の娘だったフローラが、ある司祭と出逢い、彼に憧れて自分も敬虔な修道女となった。司祭も精神的にフローラを支えて、教会の発展に尽くした。その功績が神に認められ、祝福されながら殉教した、という伝説があるのだ。
片想いの成就を願う頬を染めた少女たち。関係が長く続くことを願う若い恋人たち。そして、今後の幸せを願う夫婦になったばかりの若い男女。
聖女フローラの加護を求めて、サン・フルーラ教会はそういった人々で賑わっていた。
そんな参拝者のなかのごく一部に、とある噂が流れるようになったのはいつ頃からだろう。いわく。
“教会に認められた特別な夫婦には、フローラの特別な祝福が授けられる”というのだ。
どのような基準でその夫婦が選ばれて、どんな祝福があるのかはわからない。
けれど、ときおり教会に留まり続ける新婚夫婦たちは、その特別な祝福を受けたのだろう、と言われている。
『教会に留まっている夫婦たちから話を聞き出せばよいでしょうか?』
『それだけでは真相はわからないだろう。祝福を授けている側の教会の意図も探りたい』
『司祭や修道女になって潜り込みますか?』
『サン・フルーラ教会は規模が大きいから、新入りが有力な司祭に近付くのは時間がかかる。それよりも確実に、祝福の秘密に近付く方法がある』
『どのような方法でしょう?』
『お前たちが祝福を授かる側になればいい。そうすれば、この問題に関わっている司祭とも接触できる機会がある。——だから、ユージーンとカフォラ。二人で夫婦になって、教会に認められ、その祝福とやらを受けてこい』
決められた役柄は、単純だった。
ユージーンは、シオン家の男子という身分をそのまま利用する。彼がオルテン第九師団に所属していることは一般には秘匿されている。表向き、名家シオンの血筋として振る舞うことに問題はなかった。
カフォラの方は、別の有力家系から嫁いできたという設定だ。こちらも第九師団との繋がりが薄い家系の名前を借りていた。
結婚したばかりでまだ世間知らずの若夫婦が、見聞を広げる旅も兼ねて、サン・フルーラ教会詣でをするというのが、今回の筋書きだ。
ユージーンと新婚夫婦のフリをする——確かに、それが一番手っ取り早い潜入方法だろう。
“教会に認められるほどの夫婦”がどんなものかはわからない。だが、なりきるしかないのだ。
カフォラにとってどれほど嫌な相手であっても、一度受けた任務である以上は、成功させるしかない。相棒となる青年の本性になんて、構っているヒマはない。
その一心で、カフォラはひたすら自分の役目にだけ集中して、ル・シェネへやってきたのだった。
「まあまあ! とっても可愛らしくなりましたね!」
衝立の奥から出てきたカフォラを見て、待っていた中年の女性は歓声をあげた。
カフォラが衝立の陰で身に着けていたのは、明るい黄緑色のドレス。街歩きもできるようにスカートの広がりは控えめで裾も踝丈だが、布を何枚も重ね、襟元や袖口にあしらわれた繊細なレースや細かく施された小花の刺繍は、良家の女性に相応しい手の込んだ造りだ。
濃茶色の真っ直ぐな髪は、既婚者の証しとして、軽くカールさせて緩く結い上げている。ドレスに合わせた小花の髪飾りが、新妻らしい初々しさを醸し出していた。
カフォラの普段の仕事では、侍女や小間使いなどの地味な格好が多い。それ以外では第九師団の制服を着ているのがほとんどだ。
こんなに華やかな格好をすることは珍しくて、カフォラは内心では少し落ち着かなかった。
「素敵な若奥様になっていますよ、カフォラさん」
「ありがとうございます」
カフォラは良家の子女らしく、スカートの端を摘まんで軽く膝を折る形で礼をした。
彼女の身支度を手伝ってくれていた女性は、オルテン第九師団の支援要員の一人だ。
ここはル・シェネ首都郊外にある、オルテン師団を密かに支援してくれる人物の館である。館の主人は、かつて第九師団に所属していた。引退してル・シェネに移り住み、ひとかどの成功を収めた後は、こうして現地の支援要員として、秘密裏に師団に便宜を図ってくれている。中年女性は、この館の主人の妻だ。
カフォラとユージーンは、ル・シェネに着いてまず最初にこの館に赴いた。
館の主人が、潜入用の衣装や馬車を手配してくれている。さらに館の使用人のうち信頼できる数人を、二人の従者役として付けてくれていた。
カフォラたちは、ここで潜入のための最終準備を整えているのだった。
ちなみに、オルテンからル・シェネまでは馬で数日。道中は、ユージーンと二人きりだった。
自分の本性がバレている宿敵との移動は、苦痛以外の何者でもない。カフォラは必要最小限の会話だけでなんとか乗りきった。
一方のユージーンは、そんなカフォラのつんけんした態度にも特に気に障った様子を見せなかった。終始、優等生らしい紳士的な振る舞いでいた。
もっとも、ときどきカフォラをからかっては過剰に返される反応を面白がっていることはあった。そんなときのユージーンは心底楽しそうで、できるだけ関わるまい、と心に決めていたカフォラの内心を、あっという間に沸き立たせたのだったが。
「さて、居間では素敵な旦那さまが可愛い奥さんを待ち焦がれていますよ。早く見せに行きましょう」
女性が、潜入の役柄のことなど忘れたかのようにうきうきとした声を掛けてくる。
(あのユージーン・ド・シオンに、わたしを待ち焦がれるなんていう、健気な感情なんてあるはずないでしょう)
(っていうか、“素敵な旦那さま”って、何? あいつが素敵だなんてあり得ないわ!)
心の中でそんなことを思ったとき、部屋の扉が軽くノックされた。
女性が扉を開けに行く。それとほぼ同時に、できれば見たくない宿敵がするりと部屋に入ってきた。
「僕の奥さんの準備は終わったかな? もう待ちくたびれたよ。ああ、でも、待った甲斐があったようだ。今日もとっても素敵だ、可愛い僕の奥さん」
蕩けそうに甘やかな声が聞こえた、と思ったときには、ふわりと何かに手を取られていた。
え? と確認する暇もないままに側面から腰を引き寄せられて、気付いたらそっと近くのソファに座らされている。隣には、たった今、自分を導いた相手が当然のように座っていた。しかも、背中に回した腕はそのままに。
「……あ、あのっ!」
「君の支度が終わるのを待っている間、どれだけ僕が落ち着かなかったかわかるかい?」
カフォラが何か言うよりも早く、再びその甘い台詞が畳み掛けられる。
「女性の支度に時間がかかるのは仕方がないことですよ、ユージーンさん」
「それはわかっているのですが……」
「それくらい一時も離れたくないということですね。仲の良いこと」
「まあ、彼女の可愛い姿を見るためと思って、我慢することにします。……ああ、でも、あまり可愛くなりすぎて、万が一にも他の男の気を惹くことがあっては困るな。何しろ僕の奥さんはこんなに可愛らしくて魅力的なんだ。どんな男たちも、目に留めないはずがない」
蜂蜜の壺をひっくり返したかのように、とろりと甘ったるい言葉の奔流。
それが誰の口から溢れ出しているのか。
自分の耳が信じられなくて、カフォラはまじまじと隣に座る人物を見詰めなおしてしまった。
ル・シェネ風に丈の長い細身の上着は、裕福な家の若者らしく明るい色の刺繍で埋められている。同じく細身のズボンとブーツは濃色で、全身をすらりと見せていた。襟元の鮮やかなタイや袖口の襞が、見慣れたオルテン第九師団の制服と違って、彼の雰囲気に華やかさを添えている。
しかし、緩い癖のある金灰色の髪と理知的な青紫の瞳、そして穏やかな微笑みを浮かべたその顔は、間違いなく、ユージーン・ド・シオンのものだ。
(……なんなの、これ? どうしてユージーン・ド・シオンが、わたしに向かって、こんな口が溶けたような台詞を垂れ流してるの?)
呆然と自分を見上げてくるカフォラに気付いたのか、ユージーンがそっと顔を寄せて来た。
「どうかした? 僕の愛しい“奥さん”?」
自分の役割を、ほんの少しだけ強調して呼び掛けられて、はっとカフォラは我に返る。
「いいえっ、何でもないわ。お待たせしてしまってごめんなさい、“あなた”」
そうだ。もう既に、潜入は始まっていると考えるべきなのだ。
なぜユージーンが、妻役の自分に対してこんな必要以上の言葉を掛けてくるのかはわからなかったが、とりあえずは夫婦のフリをこなさなければならない。
そう決心して、良家の新妻らしく、淑やかな振る舞いを取り戻そうとする。
だが、それはなかなかの試練だった。
「出掛ける前に、何か食べていこうか? 君が好きなコンフィチュールたっぷりのパンケーキを用意してもらおう。僕が切り分けて、食べさせてあげるよ」
「お茶を飲んでいるときの君の姿がまた可愛いね。少し冷めるのを待っているその口許が、僕に囁いてくれるときと同じで、つい耳を近付けたくなってしまうよ」
「じゃあ、そろそろ行こうか。はい、その柔らかな手をかして。馬車まで一緒に行こう。途中でいくつか段差があるから、僕にしっかり掴まっていてね」
そんな調子で、ユージーンの甘すぎる言葉と過剰な接触がずっと注がれ続けていて、馬車に乗り込んだときには、カフォラは精神面でずいぶんとぐったりしてしまっていた。
館の人々は、演技なのかあるいは単に楽しんでいるのか、「本当に奥方が大切なのね」などと微笑ましそうな眼差しを向けていた。だが、当のカフォラにしてみたら、ユージーンは彼女の精神力を削る遊びをしているのではないかと思ってしまうほどだった。
馬車が走り出して、ようやく周囲に誰もいなくなったところで、カフォラはやっと正面に座るユージーンに問い質す機会を掴んだ。
手配された馬車は二頭立ての立派なものだ。車軸のバネが利いて馬車の揺れも少なく、座席の座り心地もよい。従者は外の御者席にいて、馬車室内には彼女たち二人だけ。小さな声で他人に聞かれたくない会話をするのにはちょうど良かった。
「どういうつもり?」
既にユージーンに対しては、先輩だから敬語で話しかけよう、なんていう意識は消え去ってしまっている。じろりと睨み据えて、ごく短く尋ねる。
「何が?」
対するユージーンは、それまでと変わらない柔らかな笑顔で、カフォラを見返した。
長い脚を軽く組み座席に置かれたクッションに肘を預ける姿は、カフォラから見ても貴公子然としていて、それがいっそう腹立たしい。
「とぼけないで。どうしてこんなにべたべたした態度を取ってるの? もっと普通の夫婦のフリだって構わないでしょ」
「何をもって普通とするかは判断が難しいところだけど」
「はぐらかさないで」
「はいはい……これくらいの方が、君に都合がいいと思ったからだよ」
「わたしの都合?」
「だって、君には僕に愛情を持ってる演技なんて苦痛だろう? 相手がオーベルリート師団長だとでもいうならともかく。だったら、自分にベタ惚れの夫になんとか付き合っている、という設定の方が君の負担が少ないんじゃないかい?」
「な……っ!」
こちらの考えていることなど見通している、といわんばかりの笑顔に、カフォラはかっと顔が熱くなる。
「見くびらないで! 師団長は関係ないでしょ! あなたとだって相思相愛の夫婦のフリくらいできるわよ! 仕事ですもの!」
「そう?」
「そうよ! だいたい、サン・フルーラ教会への参拝は妻が言い出した、という設定でしょ。わたしがあなたを好きなフリしなくてどうするの」
「それはそうだ。じゃあ、別に僕がどんなに奥さんを大切にしてる演技をしても問題ないだろう? 互いにどれほど相手に入れ込んでると思わせられるか、腕の見せどころだ」
「望むところだわ!」
「……それは楽しみだ」
そうしてにっこりと唇を引き上げたユージーンを見て、カフォラは奥歯を噛み締めた。
彼に反発する勢いで答えてしまったが、結果的にユージーンにうまく乗せられただけな気がしないでもない。
だが、たとえそうであったとしても、仕事の演技で負けるわけにもいかない。こうなったら徹底的に”夫”に惚れているフリをするまでだ。
相手が宿敵のユージーンであることには、もう目を瞑るしかない。
そう決めると、カフォラは視線を、ユージーンから馬車の窓の外に逸らせた。
目的地に着くまでのもうしばらくの間だけでも、この嫌な相手と会話しないですませたかった。




