【3】
(冗談じゃないわ。冗談じゃないわ。冗談じゃないわーーーっ!!)
カフォラの頭の中では、その言葉ばかりが巡っていた。
つい今しがた聞かされた任務の内容に波風立てられた感情は、とても簡単には治まりそうになくて、カフォラは師団長室を出ると、誰にも会わないように足早に廊下を歩き抜けた。
“可憐な優等生・カフォラ”の、こんなに引きつった表情を、誰かの目に触れさせるわけにはいかない。
師団詰所の裏口から出た先は、人の気配のほとんどない庭園だった。
この庭園は、師団関係の建物裏側と、オルテン国の迎賓用建物の裏手に挟まれている。
賓客の目に入る場所なので手入れは行き届いているが、客が滞在していないときにはあまり意識されない場所だ。また、師団員用の施設や訓練場は詰所の表側に集まっているので、師団員たちもほとんどこの庭園には来ない。
人気のない静かな庭園は、気持ちを落ち着けたり、思考をまとめたりするのにちょうどよくて、カフォラはたまにここを訪れていた。
今の時季、一番勢いがあるのは薔薇の花で、幾重にもなった大きな花弁がこぼれるほどに広がっている。花色の変化を楽しめるように少しずつ品種を替えながら植えられている花壇は、生け垣と立樹の緑を間に挟みながら、庭園全体を彩っている。
傾き始めた茜色の陽射しに深くなっていく影を踏みながら、カフォラは溢れる薔薇の香りを吸い込んだ。
早朝の瑞々しい芳香とは対照的に、この時間帯の香りは熟した大人の気配を感じる。けっして不快なものではないが——生憎と、気分をすっきりさせるのには向いていなかった。
(オーベルリート師団長と二人きりだったら。オーベルリート師団長と夫婦のフリをするんだったら、大喜びで任務に就けたのに……どうして! よりによって! ユージーン・ド・シオンと二人なの!! しかも、あんなやつと、けっ……!!)
具体的な単語を思い浮かべるだけでも頭の中が沸騰しそうで、カフォラは拳をぐっと握って思考を押し留めた。
(ダメだわ。今はこれ以上考えたら)
けれども、噴き上がった気持ちは簡単には落ち着きそうにない。
丁寧に刈り込まれた生け垣の通路を歩きながら、カフォラは荒れた気分にまかせて、左腕を大きく振り回した。
制服の袖口から覗く銀色の腕輪の端が、小さくきらり、と光る。
ただそれだけなのに、カフォラが通過した後には、茎を鋭く切り取られた薔薇の花が、点々と散らばっていた。
何本かの薔薇に苛立ちをぶつけて、ようやく少しだけ気持ちの尖りが和らいできた。
はあぁ、と息を吐き出して、カフォラは力の入っていたこめかみを軽く揉みほぐした。
カフォラがそんな仕草をするのは、いや、もっといえば、そもそもこんなに感情を露わにするのは、この静かな庭園と、他にはほんのわずかな場所しかない。
普段の彼女は、常に優等生らしく温厚な微笑みを浮かべていた。あるいは、任務に真剣な表情か。いずれにしろ、同僚の師団員たちは、カフォラがこんな風に強い感情を内に隠しているのを知らない。
師団の養育・研修施設に引き抜かれてからの三年間、カフォラはそうやって自分を取り繕ってきていた。
より多くの評価を得るためだったら、本来の自分を隠すことなんて、たいしたことではなかった。
——とはいえ、本来のカフォラは人並みに感情豊かな少女だ。時には素直に気持ちを出したいこともある。外側の仮面が剥がれかけることもある。
そんなときに心底疎ましいのが、しごく自然に優等生らしさを発揮するユージーンのような人間だ。
有力な家系に生まれ、師団に入る前から才能に恵まれ、優雅な素行は生来のものとして、まったく綻ぶ様子はない。
所詮、付け焼き刃な自分とは根本から違うのだ、と見せ付けられている気分になる。
(……っと、また思考が戻っちゃってるわ。今は考えない、考えない!)
ぎゅっと目を瞑って頭を軽く振り、再び歩きだしたとき。
ふと、何かがカフォラの神経に引っ掛かった。
とっさに足を止めて、周囲に感覚を張り巡らす。険しくなった榛色の瞳を細かく左右に向ける。
肌の表面がつぷつぷと反発するようなこの気配は、自分に対する攻撃の意思だ。
(……何? どこから?)
発信源はわからない。だが、カフォラを中心にしてこの庭園のどれほどの範囲かに、ちりちりした空気が満ちている。
すぐには正体を突き止められないと判断したカフォラは、ひとまずそこから離れようとした。不確かな状況に長々と身を晒す方が愚かだ。相手がそれを許してくれれば良いのだが……
カフォラがそっと右足を動かした瞬間、その場の緊迫が崩れた。
何かが右斜め上方向から鋭く近付いてくる兆し。
そちらを見るよりも先に地を蹴って、後方に大きく飛びすさる。
ざっ、と先ほどまで立っていた位置に何かが突き立つ音がしたが、確かめる余裕はない。
続いて何本もの攻撃がやってくる。
カフォラは最初のを避けた勢いに乗って、軽く地面に手を付けながら、身体を後転させていく。
少し遅れて、彼女が通過した跡を追うように、地面に何かが一列に突き立っていく。
花壇ひとつ分離れたところで、いったん攻撃が止まった。
(……薔薇?)
身を低く屈めたまま、自分が後退してきたところを注視したカフォラは、目に入ったものに眉をしかめた。
地面に軽く刺さっていたのは、この庭園に咲き誇る薔薇だった。
しかも、さきほどカフォラが八つ当たりで切り取った薔薇のようだ。
種類は一本ずつ異なり、花の色が白から赤へ順に濃くなるように並んでいるのが、攻撃者の戯れのようで忌々しい。
だが、たかが薔薇の茎を地に突き立てるなど、例え先端を鋭く切り落としていたとしても、どれほどの速度で投げつけたのだろうか。
姿が見えない攻撃者の余裕と、伺える実力の片鱗に、カフォラはいっそう気を引き締める。
そこに、第二弾の攻撃が来た。
今度は複数の角度から飛来する気配。
薔薇だったら実害はたいしたことはない。無闇に逃げ回って体力を消耗するより、叩き落とそうか。
そう思ったとき、視界の端で何かがきらり、と夕陽を弾いた。
既に、その場から離れるには間に合わない。
カフォラは左手首の腕輪に手を伸ばし、縁の小さな突起を思いっきり引っ張った。
腕輪からごく細い糸状のものが伸びる。
それを顔の前に掲げ構える。
榛色の瞳が、陽を浴びて薄い緑に輝いた。
飛来物が空を切り裂く微かな音を頼りに、糸を操って叩き落としていく。
三つ目までは、植物を切るだけの軽い手応え。
けれど、最後の一つを捉えた糸が伝えてきたのは、硬い感触。
カシッ、と乾いた音と伴に地面に転がったのは、二つに切断された細長い金属。
(針……!)
カフォラの糸に防がれて花弁を散らした薔薇に混じって土の上にあったのは、一本の長針だった。
それは裁縫に使われるように細くか弱いものではない。分厚い革や薄い板でも楽に貫けそうな、短剣の代わりにもなりそうなくらいの、太さと長さがあった。
これを気付かずに素手で受け流していたら、どうなっていたことか。
カフォラの眉間がいっそう険しくなる。
薔薇の花程度の攻撃だったら、誰かの悪戯で済むかもしれない。
だが明らかに凶器となりうるもので仕掛けてくるとなると、相手は確実にカフォラを狙ってきたと思われた。
(第九師団詰所の裏庭でこんなことをするなんて、いったい誰が……?)
カフォラはしばらくの間、掲げた糸を下ろさずに周囲に警戒の視線を配っていた。
だが、さきほどの長針を最後に、攻撃の気配は消えていた。
庭園に広がっていた肌が泡立つ緊張感は失せて、薔薇の香りを含む夕刻のしっとりした空気が返ってきている。
尖らせた感覚は残しつつも、カフォラはひとまず顔の前から糸を下ろした。右手で掴んでいた突起を離すと、糸は静かに腕輪の中に巻き戻っていく。
用心しつつ、地面に残された長針に近付く。もっとよく視ようと上体を屈めたところで、唐突に背後から声がかかった。
「迂闊に触らない方がいいよ。どんな薬が塗られてるかわからないからね」
聞き覚えのある声に、カフォラは跳ね上がるように振り返った。
「ユージーン・ド・シオン……っ!!」
相手を認識するやいなや、カフォラはその場から数歩分を一気に後退した。
何の前触れもなく現れた宿敵の姿に、外面を繕うことも忘れて、厳しい表情を向けることしかできない。
それに対する青年は、いつもの穏やかな微笑みを浮かべたままだった。
「さすが、第二分団の才媛と言われるだけあるね。この程度の攻撃はモノともしないか」
だがその笑顔とは対照的に、発された台詞は、とてもすんなりと受け取ることはできないものだった。
「まさか、この攻撃はあなたが……」
「ああ。午前中の訓練では、直で対戦できなかったから。ちょっと君の実力を確かめさせてもらいたかったんだ。噂で過大評価されてるだけの新人と組んだら、迷惑を被るのは僕の方だろう」
「……っな!」
まったく悪びれたところのないユージーンの態度に、カフォラはすぐには返す言葉が出てこなかった。
「ふーん、しかし、君の武器は面白いね。鋼を極細の糸のようにしてるのか、それとも糸に何かを施して強度を上げているのか……初めて見たよ」
興味深げに手首に視線を向けられて、はっとカフォラは我に返った。
無自覚に意識が攻撃状態になっていたのか、いつの間にか右手が左手首の腕輪に伸びていた。慌てて身体の後ろに両手を隠す。
(軽卒だったわ……! こんなヤツの前で武器を見せてしまうなんて!)
第九師団員たちの武器は、密偵という任務の特性上、隠し持つのに適した形状をしていることが多い。また、人によっては特殊な加工を施している場合もある。
だから、たとえ仲間といえども、自分の武器を簡単に明かしたりしないことが多い。ましてや相手が信用ならない人物の場合は特に。
「ど、どういうつもりですかっ!? いきなりこんなことを仕掛けてきて!」
ユージーンの気を逸らしたくて、話題を変えるべく口を開いた。
「だから、君の能力を見てみたかったんだって。まあ、とりあえず及第点は越えてるようだから良かった」
「及第点ですって……!」
それは、過去の試験のほとんどを満点、もしくは最高得点で通過してきたカフォラにとっては、侮辱とも受け取られる表現だった。
自分のどこが、ほどほど程度でしかないのか。
相手の誤った認識を覆すべく、カフォラはつい今しがたの攻撃の一部始終を高速で振り返りはじめた。特に、攻撃者の手口に関わる事項についてを。
「……そういうあなたの武器は、長針、いいえ、小剣に近いかしら。主に投げるのが中心。場合によっては、あなたお得意の薬草を塗って、剣以上の攻撃力を持たせている。自分の姿を見せなくて済ませられる、効率的な武器ですね。狡猾なうえに、よくあるものですけど」
相手が数年とはいえ先輩なので、なんとか丁寧語を使う。けれども言葉の端々には、投げ付けられた薔薇の棘よりもよほど尖ったものをまぶしてしまっていた。
もっとも、ユージーンには少しもその棘が突き刺さっている様子はない。
「別に、武器だけで仕事を片付けるわけじゃないから、無難な物で構わないのさ」
それは言外にカフォラの武器の特殊性を馬鹿にしているようにも聞こえて、カフォラの眉はますます跳ね上がった。
しかしユージーンは、そんなカフォラの反応など気にも留めない滑らかさで数歩進んで身を屈め、地面に転がったままの針の残骸を回収する。
「とはいえ、攻撃自体を無難にしてるつもりはないから、その僕の針を簡単に折った君の技量には素直に感心するよ。能力に関する噂は間違いじゃなかったみたいだ。……もっとも、それ以外の噂は、やっぱり噂でしかなかったようだけど」
折れた針を懐に仕舞いながら振り返ったユージーンの頬が、にっこりと吊り上がった。
その笑みは、カフォラの背にざわり、とした何かをもたらす。
「ど、どういう意味ですか……っ?」
嫌な感覚を押し込めて発した問いかけに返ってきたのは、脈絡のないように聞こえる答えだった。
「あそこにある樫の樹は、背が低いわりに幹が太くて、枝も安定してる」
「……それが何か?」
「つまり、腰掛けるのにちょうど良くてね。この庭園は普段は人影も少ないし、ちょっとした休憩に、僕はよくあの樫の樹の枝を使ってるんだ」
そこまで聞いて、カフォラの背筋の悪寒が再び沸き起こる。
「……そ、そうだったんですね」
「うん。だから、僕は度々ここで君の姿も見掛けていたんだよ。この庭にいるときの君は、わりと表情が豊かだよね」
「な、何のことかしらっ!」
今度は感覚だけでなく、嫌な汗も背を伝った気がした。
「どうやら、今の君のその表情こそ、君の本性のようだね。可憐な優等生、という噂の方はずいぶん誇張されてるんじゃないかなぁ」
そう言いながらカフォラに向けられたユージンの顔は、何も知らなければ思わず見惚れてしまうほどに優雅で。
それだからなおのこと、カフォラは沸き立つかと思うほどに、身の裡で感情が膨れ上がった。
「……な、なっ……っ!!」
喉の奥が熱く灼け付いたようになって、言葉が上手く出てこない。
身体の両脇に垂らした掌をぐっと握りしめて、怒りなのか羞恥なのか、それとも別のものなのか、判別できない激情を爆発させないようにひたすら堪える。
ここで自分でもよくわからない心情を曝け出してしまったら、それこそ負けだ、と思った。
「しかし、お淑やかな優等生カフォラが、実はこんなに感情豊かだと知ったら、師団のみんなはきっと……」
「……っ! 待って! 師団の人たちには言わないで!」
ユージーンの声は、独り言のように小さかったが、その内容はカフォラを焦らせるには十分だった。
「どうして? 僕はすました態度の君よりは、今の君の方が面白いと思うけど」
「おも……っ! わたしは、あなたに笑われる筋合いはないわ! それに、優等生はいつでも落ち着いてなきゃいけないに決まってるでしょ!」
「そうかなぁ?」
「そうよ! わたしはあなたとは違うの。少しでも優等生らしくいるために、できる限りのことはするんだから!!」
本心からカフォラの主張がよくわからない、とでもいうように首を傾げるユージーンの態度に苛立って、そう叫んだ。
その途端、ユージーンの顔がわずかに曇ったのに虚を突かれて、軽く息をのむ。
だが、何か言いたげなユージーンのその表情は一瞬で消えて、すぐにいつも通りの温和な微笑みが戻った。
「まあ、君と僕が本当に違うかどうかはおいといて。僕は仕事仲間の性格がどんなでも構わないから、別に言うなということであれば、師団のみんなには黙っておくよ。とにかく第一分団と第二分団の優等生と呼ばれる同士が組むことになったんだ。任務の間はよろしくね」
「……あ、あなた、さんざんわたしをからかっておいて、よくも、しれっとそんなことが……っ!」
「だって、君の実力には問題なさそうだし、その点は安心だ。任務を遂行する上では、それが一番重要だろ?」
「……なんなの、あなた! やっぱり、あなたみたいな人と組むなんて、ご免だわ!」
「でも、そうは言っても、君にこの任務は断れないだろう? 何しろ、オーベルリート師団長直々の命令だ」
「〜〜〜っ!」
こちらの思考などすべて見通しているとでもいうような笑顔に、カフォラは唇を噛み締めることしかできない。
「とにかく、これからしばらく、僕と君は夫婦を演じることになるわけだから。よろしくね、カフォラ」
そうしてユージーンは、だめ押しのように爽やかに微笑んで、颯爽とその場を離れていった。
庭園にひとり残されたカフォラは、しばらくの間、全身に力を込めて立ち尽くしていた。
(やっぱり、やっぱり、やっぱり、冗談じゃないわ! 冗談じゃないわ!! 冗談じゃないわーーーっっ!!)
そもそも気分を落ち着けるためにこの庭園に来たというのに、来たとき以上に感情は波立ってしまっている。
苛立ち紛れに、地面に突き立ったままだった薔薇の茎を引き抜いて手近な花壇に投げ付ける。花壇の土はよく耕されて柔らかかったが、薔薇は地に刺さることはなく、ぱさりぱさりと転がった。
適当に投げたから当然とはいえ、それがまたいまいましくて、カフォラは花壇の縁を踏みしめる。
(わたしは十分に知ってるわよ、ユージーン・ド・シオンの実力なんて! わざわざ確かめようと思わないくらいに! それなのになんなの、あいつは! “実力を確認したかった”だなんて、何様なの!? 自分はそんなにご立派な優等生だっていうの!?)
一連のやり取りを思い起こして、そしてカフォラはいっそう腹立たしい事柄に気が付いた。
——っていうか、今のイヤミな言動してたのは、誰?
それは、ユージーン・ド・シオンに間違いない。あの優雅な身ごなしも、穏やかな微笑みも、そして見事な攻撃の手腕も。オルテン第九師団が誇る若手の有望株、あの(・・)優等生、ユージーン・ド・シオン、だ。
(って、あいつも性格悪いのを隠してたんじゃないのーーっ!!)
何が、穏和な人柄だ。品行方正な御曹司だ。
裏側に、あんなに自分勝手で嫌味な性格を隠して優等生ぶっていただなんて。
自分のことも明らかにされる覚悟で、いっそのこと師団のみんなにバラしてやろうか。そんなことさえ考えかけて、けれどすぐに踏み留まった。
話だけでは、きっと誰も信じない。
ユージーンを宿敵と思っているカフォラだって、たった今目の前で見ていなければ、彼の性格が実は悪いだなんて、恐らく信じられないだろう。
はあぁ、と盛大に息を吐き出して、カフォラはその場に蹲った。
(あんなやつと二人っきりで任務に就かなきゃいけないなんて、ほんっとうに、冗談じゃないわ……)
感情の波が高まり過ぎて、心の内側だけとはいえ叫び声を上げすぎて、さすがに疲れてきていた。
ずいぶん低い位置まで下りてきていた夕陽が、カフォラの足元から項垂れた影を引き伸ばす。
(とにかく、前言を撤回するわ。顔良し、能力良し、家柄良しで、性格が悪いだなんて、親しみが湧くどころか、よけいに腹立たしいってことね……!)
初の大きな仕事に張り切っていた気分は既にどこかに消えてしまっている。ただ相棒になる人物への不満に起因する重苦しさだけが、どんよりとのし掛かっていた。