【1】
薄暗い廊下を、一人の少女が軽やかに走り抜けていく。
「ここは俺たちが止める! 第二分団の成果は、お前に任せたぞ、カフォラ!」
少女——カフォラに投げ掛けられた声とともに、背後では鋭い金属が擦れあう音や、人と人がぶつかりあう音が聞こえてきた。
だが、カフォラは振り返らない。
仲間たちに成果を託されたのだ。それを目指して進むのが、自分の役割だ。
与えられた目標は、何としても達成する。——密偵組織・オルテン第九師団第二分団の優等生カフォラの名にかけて。
仲間が引き留めてくれた男たちが、最後の待ち伏せだったのだろう。その後、カフォラを遮るものは何もなかった。
黒に近い濃茶色の髪をさらさらと揺らしながら、階段を駆け上がる。息ひとつ乱さず、カフォラは目指す部屋の前に辿り着いた。
慎重に周囲に気を配る。
この部屋の近くには、誰かが潜んでいる様子はない。
飴色の木の扉に、そっと耳を寄せる。扉の向こう側にも人の気配は感じられなかった。
(よし。行くわ!)
心の中でタイミングをはかって、カフォラは静かに扉を開けた。
かすかに軋みながら、扉が手前に開く。
向こう側から何も攻撃がないことを確認して、カフォラはするりと扉の内に入り込む。後ろ手に扉を閉めた。
廊下と同じく、室内は薄暗い。カーテンの隙間から細く差し込む光を頼りに、室内の様子を観察する。
予想どおり、部屋の中には誰もいなかった。置いてあるのは、一般的な貴族の私室らしい、重厚な机とソファと壁際の本棚。床には毛足の長い絨毯。
カフォラの大きな榛色の瞳が素早く動いて、意識に引っ掛かるものを探す。
目を止めたのは、ソファ脇の小机。バラが生けられたガラスの花瓶の横に、紅茶器がひと揃いあった。
(片付け忘れ、のわりには、使った形跡がないわね)
小机に歩み寄ってカップを覗きこむ。二客のカップは、どちらもきれいなままだ。
カップの奥にあった紅茶缶をそっと持ち上げて、蓋を開ける。
(あった!)
黒褐色の茶葉の上に、金色の指輪が無造作に乗せられていた。
赤い瑪瑙が填まったその指輪は、今回の任務の目標物だ。
さっそく取り出そうと細い指を伸ばしかけて、カフォラの勘が軋みを訴えた。
指輪の直前で指を止め、代わりにそばにある茶匙を取る。茶葉に指が触れないよう、慎重にひと掬いして、その茶葉を花瓶の水に落とす。
(……これは)
ガラス越しに見えた花瓶の水の変化に、カフォラは形良い眉をしかめた。
紅茶葉で赤い琥珀色に変わるだろうと思った水は、薄い黄色になっただけで、それ以上濃くならない。
嫌な予感がして、紅茶缶を小机の上に戻す。そのとき。
「やっぱり気付かれたか。さすが第二分団の優等生カフォラだね」
背後から聞こえてきたのは、若々しいながらも落ち着いた声。それにカフォラは勢いよく振り替えった。
そこに立っていたのは、緩い癖のある金灰色の髪の青年。オルテン師団の詰め襟の制服がよく似合う、すらりとした姿に、カフォラは内心で思いっきり顔をしかめた。
ただし、それは面には出さない。任務に真剣な表情で、静かに青年を見つめ返す。
「ユージーン・ド・シオン……やはり、第一分団の最後はあなたでしたか」
彼が、最初からこの部屋のどこかに潜んでいたのか、あるいは後から入り込んできたのかはわからない。どちらにしろ、カフォラに気配を感じさせないでいられる相手は、オルテン第九師団の中でもごくわずかだ。
「この紅茶葉には何か混じっていますね? 薬草や薬はあなたの得意分野だったはず」
「身体に害が残るものではないから大丈夫。気付かずに手を缶の中に入れてくれてたら、今頃眠くなっていた程度だよ」
ユージーンと呼ばれた青年は、穏やかな微笑みのまま、あっさりと答える。
その態度に、カフォラはまた心の内側だけ苛立つ。
そんなカフォラの心情の変化には気付いていないのだろう。ユージーンの理知的な青紫の瞳が、どこか楽しそうに細められた。
「その指輪を渡すわけにはいかない。それを守るのが僕ら第一分団の任務だからね」
「それならば、この指輪を持ち帰るのが、わたしたち第二分団の任務です」
カフォラも瞳を細める。榛色の虹彩が、光を弾いて薄い緑に煌めいた。
「お互いに、譲れないかな」
「はい。譲るわけにはいきません」
カフォラは小机から一歩離れて、左足を軽く引く。
身構えた彼女に対するように、ユージーンも組んでいた腕を両脇に下ろす。
二人とも、表情は余裕を感じられる穏やかさだったが、向き合った瞳の間には、張り詰めた空気が満ちる。
ゆっくり吸い込んだ息を、いざ吐き出そうとした、そのとき。
「二人とも、そこまでだ」
低く響く声が、緊迫した空間に割り込んできた。
攻撃が始まる寸前の、絶妙の間で二人を制止したのは、新しく部屋に入ってきた男性。
「オーベルリート師団長!」
師団長と呼ばれたのは、灰色の瞳に鋭い光を宿した青年だ。鍛えられて均整の取れた長身と漆黒の長い髪。その姿を見たとたん、それまで張り詰めていたカフォラの雰囲気が、いっきに明るくなった。
直前まで対峙していたユージーンのことなど忘れてしまったかのように、カフォラは輝く瞳をオーベルリートに向ける。
ユージーンも、緊張を解いてオーベルリートに向き直っていた。
そのオーベルリートは、きびきびとした大股の足取りでカフォラの方に向かってきた。
(わたしに何かご用かしら!?)
ほのかな期待にカフォラの胸がときめく。
けれど、オーベルリートは無言でカフォラの横を過ぎて、小机に置かれたままの紅茶缶を持ち上げた。
無造作に缶をひっくり返して、机に茶葉を広げる。その中に転がり出た指輪を、手袋をはめた長い指が拾いあげた。
その指輪をかざしながら、オーベルリートは淡々と告げる。
「この指輪の発見・取得が、第二分団へ出した指令。一方、この指輪を隠蔽し守ることが、第一分団への指令だった。ここまでの両分団の行動で、ほぼその成果は確認できている。これ以上は、無益な争いになるだけだ。よって、オルテン第九師団の訓練は、これで終了とする。両者とも、ご苦労だった」
「ありがとうございました」
「……はいっ」
オーベルリートの宣言に、ユージーンは優等生然とした態度で敬礼する。
カフォラも一拍遅れて、ぴしりと敬礼した。ユージーンと決着を着けたかった、という心残りが、少しだけ彼女の反応を遅らさせたのだ。
オーベルリートは、そんな彼女の逡巡には気付かなかったのか、無言で窓際まで足を進める。分厚いカーテンが引き開けられて、昼を過ぎたばかりの、まだ強い日差しが室内を明るく照らす。
それを合図にしたかのように、部屋の扉が開いて、複数の男たちが入ってきた。
「おつかれー、カフォラ! さすが第二分団の期待の新人、よく一人でここまで辿り着いてくれた!」
「ユージーンもお疲れさま! 第一分団の最後を任せられるのは、やっぱりお前しかいないよ!」
揃いの黒い詰襟の制服を着た男たちは、オルテン第九師団の団員たちだ。
昨日から夜を越えて、丸一日以上かけた分団対抗訓練がようやく終わり、皆、晴々とした顔をしている。
ここは貴族の館を模した師団の訓練施設だった。ぱっと見た感じは、ごく普通の館のようだが、あちこちに様々な仕掛けが施してあって、守る側にも攻める側にも工夫が必要になっている。
第一分団が守備、第二分団が攻撃に分かれた今回の訓練でも、互いに知恵を出しあって牽制しあった。その結果、最後の場面に辿り着けたのは、各分団一人ずつ(カフォラとユージーンのみ)だった、という状況だ。
途中のいくつもの関門で引っ掛かっていた団員たちが、訓練を終えて、お互いを労おうと、ゴールのこの部屋に集まってきているのだ。
「いやー、やっぱり、カフォラはすごいわ。この館のえげつない罠を、するりと避けて進んでいけるのは、さすがの勘の良さだ」
「第一分団の嫌味な攻撃を、次々に躱せるのは、身軽なお前だからこそだな」
カフォラのまわりに群がった第二分団の仲間たちは、口々に今回の訓練の功労者を誉める。
当事者のカフォラは、仲間たちに囲まれて、少し困ったように眉を下げた。
「わたしがここに辿り着けたのは、第二分団のみなさんのサポートがあったからです。みなさんがそれぞれの持ち場で頑張っていたおかげです」
華奢で清楚な少女が、頬をうっすら染めて恥ずかしそうに微笑む。その姿に、カフォラを囲んでいた男たちはいっそう気分が高揚する。
「そういう謙虚なところが、また、カフォラのいいところなんだよ!」
「ほんと、俺たちのカフォラは良くできた子だ!」
そんなカフォラたちのすぐ隣では、第一分団がユージーンを中心として輪を作っていた。
「力技で押し切ってくる第二分団相手に、みんなよく持ち堪えたな」
「あの廊下をカフォラに突破されたときは、もうダメだと思ったけど。最後までちゃんと仕込んでおいてくれるから、やっぱり俺らのユージーンだ」
「ほんと、ユージーンは頼りになるぜ」
第一分団員の称賛に、当のユージーンは、謙遜するわけでも得意気になるわけでもなかった。いつもと変わらない穏やかな笑みで、仲間たちを見回す。
「誰の成果でもないよ。第一分団の一人ずつが、それぞれの義務を果たした結果だ」
落ち着いた声は、第一分団一人ずつの心に浸透していったようだった。皆の顔が、自信を得たように輝く。
それを目にした第二分団の男たちも、ユージーンを頼もしそうに見やる。
「あっちの優等生も、さすがだな」
「ああ。あいつが相手なら、カフォラが攻め切れなかったのも仕方ないよ」
「ユージーンには敵わないよなぁ。あいつは第九師団の中で一番だ」
第一分団と第二分団は、訓練時には競いあうことも多いが、日常では同じ師団の仲間として互いに協力しあっている。ともに任務に就くこともあり、ユージーンの能力を目の当たりにする団員も多い。
だから、その称賛に誰も意義を挟むことはなかった。——カフォラの心の中を除いて。
カフォラは、それまでと変わらず、第二分団の仲間たちに囲まれて立っている。にこやかに控えめに微笑んでいる姿は、可憐な優等生のままだ。
だが、彼女の内心はとても穏やかとは言えなかった。
(わたしがあいつに負けるわけないじゃないの! 今日の訓練だって、オーベルリート師団長が止めなければ、戦って勝ってたわ。そして指輪はわたしが手に入れてた! 第九師団一の優等生の座は、ユージーン・ド・シオンなんかには渡せないんだから!)
誰よりも一番に認められて褒められたい。
誰かの下に見られるのは堪えられない。
それが、普段は朗らかな優等生の仮面の下に隠している、カフォラの本音だった。
新人ながら第二分団の優等生という代名詞を得ている今、次に彼女が目指すのは、第九師団のトップに立つことだ。
そのための最大の障害が、ユージーンなのだ。
(何よ、偉そうに! 今に見てなさい。どっちが優秀なのか、すぐにわからせてあげるから!)
榛色の瞳の奥に、宿敵への対抗心の炎を燃やしつつ、カフォラは表面上は微笑みを絶やさずにいた。
「ああ、そうだ。ユージーンとカフォラ」
しばらくして、その場の賑やかさには加わらず、分団長たちと何かを打ち合わせていたオーベルリートが、カフォラとユージーンに声を掛けた。
「はい! 何でしょうか?」
カフォラは仲間たちの囲みをするりと抜けて、素早くオーベルリートのもとに駆け寄る。
敬愛する師団長の呼び掛けだ。何をおいても優先したかった。
ユージーンも、一歩遅れてやってくる。
「話がある。休憩後で構わないから、私の執務室に来るように」
「……はい!」
オーベルリートからたまに声を掛けられることはあっても、わざわざ執務室に呼ばれることは今までなかった。仕事の話は、基本的に分団長経由で伝えられてきた。初めてのことに、カフォラの胸が高鳴る。
(なんのお話かしら? 今日の訓練の結果を誉めていただける? ああ、でも、わざわざ師団長のお部屋に呼んでのお話ですもの。もっと個人的なことだわ。なんだろう……まさか、私に何か特別な……っ!?)
期待が膨らみ過ぎて、やや妄想の域に達しそうになったカフォラを現実に引き戻したのは、隣に立った青年の落ち着いた声だった。
「それは個別にでしょうか。それとも二人一緒にでしょうか?」
宿敵の声にカフォラは我に返る。
(こんなやつと一緒にだなんて、嫌よ!)
とはいえ、その感情は表には出さない。ただ素直に命令を待つ素振りで、オーベルリートを見上げる。
(どうか、個別に話があるとおっしゃってください……!)
しかし、冷静な低音は、カフォラの期待に応えてくれなかった。
「二人一緒にだ。そうだな、午後休憩が終わった時間にしよう」
「かしこまりました」
「…かしこまりました」
カフォラの返答が遅れてしまったのは、仕方ないことだった。
「では、解散!」
オーベルリートの号令に、その場にいた団員たちは一斉に敬礼する。
「お疲れさまでした!!」
複雑な気持ちを胸中に押し込めながら、カフォラも姿勢を正したのだった。
傭兵派遣を主な収入源とするオルテン国は、山に囲まれた小さな国だ。
わずかな平地に集まって暮らす人口では、農業も商業も国を富ませるほどのものにはならない。唯一の資源ともいえるのが、山がちの厳しい地形に鍛えられた若者たちの身体であり、それを活かすために傭兵派遣が盛んになった。
オルテン出身の傭兵ひとりひとりの有能さはもちろんのこと。国家組織として編成されている傭兵集団、オルテン師団の強さは、ウェスティーナ大陸中に聞こえが高い。
表向き、オルテン師団は第一から第五にまで分かれている。——実はその後に、番号が飛んで第九師団と名付けられた集団があることは、ほとんど知られていない。
第一〜五師団の基本的な任務は、報酬と引き換えに武力を提供することである。だが、第九師団の主な任務は、それとは異なる。
第九師団のメンバーは、国内・国外問わず、何かが起こりそうな地域に、一人から数人までの少数で派遣される。その地で情報を集め、分析し、裏側から工作し、他師団が派兵されたときに有利に動けるようにすることが、彼ら第九師団員の役目だ。
場合によっては、オルテンには利益をもたらさない遠征を阻止するために、戦闘そのものを避ける方向に導くこともある。
第九師団の派遣先は、味方の地域もあれば敵の地域もある。だが、どちらにしろ、その任務の性質上、オルテン国や師団からの表立った支援は受けられない。
頼れるものの少ない異郷で、臨機応変に物事を判断し、目的を遂行するためには、一般的な傭兵としての能力だけでは足りない。
オルテン第九師団は、基本的な戦闘力に加えて、密偵としての能力を備えた有望な者たちが選りすぐって集められた、特殊な少数精鋭部隊なのである。