腐ると発酵するは全然違う
酒蔵に入ってみると、発酵したお米の甘い甘い匂いが広がっていた。アルコールの味は未成年のあたしにはさっぱりだけど、御先様が美味い美味いって言ってるから美味しいんだろうな。酒のこうじをたっぷりと蓄えているのは一対何年物なんだろうと言う位、酒をしっかりと染み込ませて変色した木の樽で、大きな大きな樽の上に橋をかけて、兄ちゃんは長い長い棒でかき混ぜていた。あたしと烏丸さんがころんと一緒に入ってくると、ちらりと兄ちゃんがこちらを見た。
「こっちの酒は全然まだ熟成が足りてないっすよ」
「ああ。知ってる知ってる。そうじゃなくて、くーがどこにいるか知ってるか?」
「くー? さっきまでその辺にいたんすけどねえ……あれ、りんはどうしたんだ?」
「うんとね、醤油作りたいって言ったら兄ちゃんから借りたいって聞いたんだけど……あたし、何借りればいいの?」
「ああ、そう言う……」
兄ちゃんは納得したのか、棒を一旦立てかけると、「くー、くー」と呼び始めた。くーって……何? いや、誰?
あたしが首を傾げていると、急にすごいにおいが漂ってくるのに気が付いた。例えるなら、夏場に三日間位放置したクリームシチューのような、ひどいひどいすっぱいとか苦いとかがないまぜになったような、そんなにおい……。あたしは思わず「ひぃー!!」と鼻を手で押さえると、樽の下から何やらどろどろとしたものが出て来た。
「なーにー? くーちゃんに何の用ー?」
間延びした幼稚園児みたいな声を出すのは、そのどろどろした謎の生き物だった。こ、これがくー……ちゃん? でもよくよく見てみれば、兄ちゃんも烏丸さんも、ころんも全然何の反応も示さないって言う事は、このひっどいにおいが特徴って事なの?
「ああ、紹介する。こいつ腐り神。自分ではくーって言ってるから、皆くーって呼んでる」
「くーちゃんはくーちゃんだよぉ、あなたさまはだあれ?」
「ええっと……」
……マイペースだな。でも腐り神を紹介って。この子食べ物と一緒に置いておいて大丈夫なのかしらん。物を腐らせる神様って事でいいんだよね。でも兄ちゃんは普通に仲好さそうだし……あたしがうんうん考えていたら、兄ちゃんが補足してくれた。
「ああ、こいつ物を腐らせるだけじゃなくって、発酵させてくれんだよ。うちの酒蔵でもこうじを作る際には、くーに頼ってるしな」
「こうじって……つまり、醤油づくりに必要なこうじも!?」
「しょうゆってなあに? くーちゃんおてつだいするの?」
餅が溶けたような外見の子だけれど、間延びした口調とないはずの首をこてんとさせる様が、何だか可愛く見えて来たぞ。あたしはこくり、と頷いた。
「うん、あんたの力、貸して!」
「いいよぉー」
……しかし、物を腐らせるような子に、まかないをあげても大丈夫なのかな。だって、この子物を腐らせちゃうし。あたしが首を捻っていると、ぼそりと烏丸さんが助言を投げてくれた。
「くーは料理の際に出る野菜の切れ端をやればいい。それを鍬神にやれば、くーが発酵させた奴を畑に撒くだろ」
「……有機肥料っすか」
恐るべき腐り神。腐るじゃなくって発酵させるとなったら、こうも物事を円滑に進めてくれるのか。
とりあえずあたし達は酒蔵のいらない樽を一つもらい、醤油の匂いが移らないようにと、隣の小屋に移る事になった。ここはどうも完全に空き小屋らしい。
「元々御先様の力がもうちょっとあった時は、ここも雑穀部屋になってて、付喪神で賑わってたんだがなあ。今は付喪神も大分減ったから」
「……あれ、力の強い神様の場合って、付喪神いなくってもやれる事多いって聞きましたけど」
「ああ、付喪神に世話されないと、御先様も身動きできないしなあ。でも神在月の際に今よりももっと持って行けたんだよ」
「はあ……? かみありづき?」
「ああ、そりゃこっちの話だな。じゃあ、ひとまず醤油づくりを始めるか。大豆はあるな?」
「うん。ええっと、ころん?」
あたしの疑問はあっさり流されたが、ひとまずは大豆だ。ころんは自分の持っていた笠を引っくり返すと、それを入れ物に入れてくれた。でもそれはぱっと見じゃ分からない位出てきて、まさかあの笠、魔法でも使えるのと思ってしまう。とりあえず、まずはあれだ。
雑穀部屋の奥には使われてない釜戸があった。埃は被ってるから、ちょっと掃除すれば使えそうだ。あたしは雑巾と桶を持ってくると、そこを急いで掃除してしまう。ちゃっちゃと掃除し終わると、急いで厨にいる火の神をちりとりに載せて連れて来ると、火をかけ始めた。まずは大豆。それを蒸し上げる。そして、その間に雑穀部屋を漁り始めた。そこは全粒粉が残っているのが確認できた。かみありづきって何か知らないけど、放置されてたみたいね、これ使って大丈夫かな、そもそもこれ食べても大丈夫なのかな、傷んでないのかな……。ふんふんとにおいを嗅いで、ちょっぴり舐めて味を確認してから、それを大豆を蒸している隣の竈で、厨から移動させた大鍋で炒り、香ばしい匂いがしてきた所で火からおろして、すりこぎでぐりぐりと挽きはじめた。
大豆も蒸し上がった所で、大豆と小麦粉を混ぜ合わせ、あたしは恐る恐るくーちゃんを呼んだ。
「あのね、これを発酵させたいんだけど……発酵って分かる?」
「おさけつくるのといっしょ?」
「あ、うん。そうそう」
使ってるのはお米か大豆や小麦粉かって違いだけで、実はあんまり作る過程って変わらないんだよね。あたしも本通りの事しか知らないし、兄ちゃん家が材料を替えたり発酵タイミング変えたりして味を研究しているのは知ってるけど。とりあえず分かってくれたらしいくーちゃんは、ちょんっ、とあたしの指差した大豆に、自分を千切った。……ん、千切った? でもあたしがぎょっとしている間に、リバウンドしたようにくーちゃんの姿は元に戻ってしまい、どこを千切ったのかすら分からなくなってしまった。そして、ちょいっと千切った部分を入れてくれる。
「これでいいの?」
「う、うん。多分……お?」
くーちゃん(の破片)が入ったそれから、だんだんいい匂いが漂ってきた……って、まずいまずい! あたしは慌てて塩をそこに突っ込み、ぐりぐりと混ぜ合わせ始めた。最初は大豆と小麦が混ざってるだけだったのに、すごい勢いで大豆の茶色が見えなくなっていくのだ。
「早い! いくら何でも発酵早い!」
「ああ、これがくーの力だしなあ」
今まで見守っていた烏丸さんがあっさりと言う。この人料理に関してはマジで手伝ってくれないなあ、おい……。あたしのぼやきはさておき、本当だったら最低でも三日はかかる、醤油づくりの肝であるしょうゆ麹が出来上がってしまった。後はこれを樽に移し替えて、塩と水をさらに加える。これでもろみ作りが終わる。それをどんどん木杓子で混ぜていくと、更に匂いが強くなる。……神様、すごいな、うん。でも付喪神なのかしらん。
だんだん、艶が帯びてきて、匂いもどんどん強くなる。これ……すごい、本当に醤油だ。本当だったら醤油は仕込んだら最低でも九ヶ月、長めに見積もったら一年はかかるはずなのに、すごいな、神様……。あたしは関心しつつ、すっかり大豆の形の崩れたそれを木杓子でほんの少し手に取って舐めてみた。火が入ってない醤油は美味い。塩だけでも、大豆や小麦粉だけでも、こんな深みは生まれない。風味が生きてるんだもの。日本の万能調味料万歳。すごい。すごい。あたしは感動しつつ最後に木杓子でぐるっと混ぜ合わせ、水分を含んで重くなったそれを、別の樽に張った布の上に落としていく。布の下へとぽとぽと零れていくのを確認しつつ、残りはぎゅっと絞り出す。これには力が必要だから、流石にこれは烏丸さんに手伝ってもらった。絞ってできたそれを見て、あたしは心底ほっとした。
「醤油! すごい、くーちゃんすごい! 醤油ないって悩んでたのに、もう醤油できた!」
「くーちゃんすごいの?」
「すごいよ! ありがとね! これで料理のレパートリーもぐんと増えたし!」
くーちゃんをあたしは散々褒めちぎると、くーちゃんは「ふへっ」と笑った。醤油ができたし、後は豆腐、だな。豆腐は流石にくーちゃんの力を借りる訳にもいかないし。ひとまず今日使う分の醤油は熱湯で煮沸した小さい樽に入れておく事にした。
それにしても。あたしは雑穀部屋をぐるっと見回す。雑穀部屋と言われてるだけあり、全粒粉もだけど、粟や麦なんてものもじゃんじゃんある。こういうものがあるって言う事は、お菓子も頑張ったら作れるかもしれない。そう思ったものの、砂糖がないんだったと思い直す。水飴だったら甘味にはなるけど、お菓子を膨らませる力がないから食感がボソボソになってしまうし。何か考えないとなあ。そうあたしは思いつつ、ひとまずは厨に戻る事にした。そろそろ豆腐作らないと、夕ご飯に間に合わない。
身体はずっと立ちっぱなしで樽のこうじを混ぜていたせいで、腰も痛いし、腕だってパンパンに張っている。きっとこの生活を続けていたら身体を壊してしまうような気もするけれど。それでも、すごい充実している感がある。美味しいものを一から自分で作れて、足りないものをもらいに行ったり作ったりするのがこんなに楽しいなんて思いもしなかった。
あたしがのんびりと、ちりとり一つに火の神を載せ、肩にころんを乗せ、手に引っ掛けた手桶にくーちゃんを入れ、厨に戻る途中、真っ白な姿が歩いているのに、思わずぴたっと足を止めた。いつもいつも、奥の部屋にいるのがデフォルトだと思っていた御先様が歩いているのを、あたしは初めて見たのだ。ど、どうしよう、ここで何か挨拶とかするべき? あたしはおろおろとして、付喪神三人を見比べている所で、御先様があたし達の方に気が付いたらしい。
「何だ、昼間は何を油を売っているのかと思ったら、こんな所にいたのか」
「りょ、料理のための、調味料を、作っていました!」
御先様は随分と気だるげな問いかけの中、あたしはただただ、だらだらと背中に汗をかきながらそう答えた。御先様は不思議そうに長い白い髪を揺らめかせると、途端にあたしの髪を掴んで、自分の鼻にくっ付けた。って、何すか。さっきから火を使ってばっかりだったから、灰のにおいが移って臭いと思うんですけど!?
「……なるほど、不可解な匂いがすると思ったら、調味料、なあ……夕餉、楽しみにしているぞ」
御先様はそれだけ言うと、あたしの髪からぱっと手を離して、そのまま立ち去ってしまった。あたしは思わず呆然とする。……不可解な匂いっつうと、もしかして……醤油?
「うん、りんはいいにおいがするからな!」
「しょうゆ、いいにおいー」
「あっ、あのね!? プレッシャー与えてくれても、何も出ないよ!?」
うう……晩ご飯、マジで頑張らないとね。与えられたプレッシャーを感じつつも、ひとまずは豆腐が大事。