出汁が命
あたし達は慌てて腰を落として挨拶をする。海神様はそれに「顔を上げよ。いつもそなたの酒を楽しみにしておるのだからな」と言った。口調は随分とおおらかだし、御先様みたいな変にピリピリとしたオーラがない。ものすごーくあたし達のオーラとは違うのに、角が丸いと言うか。
「すみません、彼女は新人なんです。これ、新酒です」
兄ちゃんが差し出す酒を、海神様は心底嬉しそうに受け取る。女神様が樽を嬉しそうに抱えるとは割とシュールな光景よね。あ、昆布。あたしは思わず兄ちゃんを見て、小声で聞く。
「ねえ兄ちゃん。海神様に何て言って昆布下さいって言えばいいの?」
「まあ、黙って見とけって」
「え、うん……」
あたしが首を捻っている間に、海神様は小槌を持ってくると、樽を叩き割り始めた。って、テレビでしか見た事ないぞ、樽の鏡開きなんて。甘い酒の匂いを嗅ぎつつあたしが目を白黒とさせている間に、さっさと海神様は酒を升に入れて飲み始めてしまった。豪快と言うか……ちゃんと祀られている神様って存外に大雑把なのかしらん。
「うむ。いい酒だな、御先殿の杜氏」
「ありがとうございます」
「それで、今日は何を持っていきたいのだ?」
そう言ってあたしの方を見る。呆気に取られてたけど、さっさと帰らないと御先様のご飯作らないと駄目だし。あたしは慌てて、欲しいものを指で折りながら言ってみる。
「こ、昆布と、かつお節が、欲しいです! 出汁がしいたけの干物だけだったらやっぱり味に締まりがありませんし……もちろん野菜の出汁も馬鹿にはできないんですが……川魚だけだったら出汁にはなりませんし……」
昆布ならともかく、かつお節なんて都合のいい事言って大丈夫かしらん。だって、あれは作るのすごい大変だし、手作りなんて何年単位になるのか分からないもの。あたしはダラダラと汗をかいていたら、海神様は「ふむ」と頬に手を当てて考え込んでしまった。や、やっぱり駄目だったのかしらん……。
あたしがおろおろと兄ちゃんを見ると、兄ちゃんは「ああ、大丈夫っぽい」とだけ一言言った。えっ、大丈夫って。えっ。
「それだったら先日奉納されたな。よし分かった。持ってまいるぞ」
「え……あ、はい」
あたしはポカンとしたまま、兄ちゃんを見た。
「ほら、烏丸さん言ってなかったか。そもそもちゃんと管理されてる神社だったら、参拝客からちゃんとお布施ももらってるし、奉納だってされてるんだよ」
「えっと……だからかつお節も……?」
「一度奉納されたものは、お下がりとして食べるだろ。神棚にあげたものだって、仏壇にあげたものだって、捨てずに食べるだろう? それと同じ。神様だってそれを食べるんだよ。そもそもそれがないせいで御先様も食事がない訳だし」
「うん……」
なあんだか、納得。神様も人間に同情されたくないかもしれないけれど、一人じゃご飯が食べられないんじゃ、そりゃ傲慢な態度取らないといけなくなるのかもね。
海神様が竹ざるいっぱいに持ってきてくれたものを見て、あたしは目を細める。かつお節は所謂削り節じゃなくって本枯節って言うしっかり乾燥された堅ーい奴だ。それに白い粉のたっぷりついた昆布。この白い部分が絶大にいい出しになる部分だ。うん、お湯をたっぷり沸かしてこれで味噌汁を作れば元気になる。本当だったらすまし汁にして100%出汁を楽しみたい所だけど、醤油をどうにかしない事には流石に作れないものね。
「ありがとうございます! これでいい出汁が取れます」
「ふむ。しかし御先殿も美味い食事を取れば、少しは心が晴れるだろう」
それにあたしは思わず目をぱちんとさせた。どうも御先様の意地が悪いって言うのは神域でも共通項らしい。いじけてしまっている原因も。
あたし達は急いで御先様の厨に戻ると、今日の献立を考え始めた。
畑に出ると、相変わらず朝も早いのに付喪神がせっせと畑の世話をしているみたいだ。今が収穫時期の実野菜を取っているのを見ながら、あたしも探し始める。野菜を炭火焼にして、木の芽を混ぜた味噌を付けて出そう。魚は今日は鮎を焼いて、葉物野菜を胡麻和えにしよう。そして味噌汁。具はどうしよう。折角いい出汁が手に入ったんだから、いいもの使いたい。
野菜で採って来たのは茄子、冬瓜、枝豆。豆腐を作れたらいいんだけど、にがりが必要だな。にがりはまた海神様にもらいにいかないと駄目かもしれない。そう思いながら最後に木の芽を取って、厨に引き返すと火の神に声をかけた。
「ねえ、ご飯をそろそろ炊いて。あと、もう片方にお湯沸かすから」
「お……? 今日の献立もう決まったのか?」
「まあ一応ね」
火の神がパチンッと竈に火をつけてくれたのを見計らってから、水の張った鍋にもらったばかりの昆布を拭いてからそっと鍋に入れた。お湯が沸いたらそこにかつお節を入れるんだ。と、兄ちゃんが出てきた。
「カンナ、借りてきた」
「ありがとう! あたしもかつお節削るの初めてなんだよねえ……」
「あ、なら俺がやろうか? 前の時も散々擦ったし。その間にお前他の事できるだろ」
「ありがとう!」
うん。本当だったらかつお節削って出汁取るのが一番いいんだけど、普通の食堂だったら既に削ってる奴買って使った方が安くついちゃうもんね。高いんだよ、本枯節って本当に。
兄ちゃんの好意に甘える事にして、あたしは野菜を切り始めた。味噌汁の具にするのは茄子。お湯が沸いたらかつお節と一緒に入れる。冬瓜は炭焼きにして表面焦がした方が甘みが増す。味噌にほんのちょっぴり昆布出汁を取って溶いて、木の芽を混ぜる。皮を剥いて輪切りにした冬瓜は昨日も使った七輪で焼いてしまおう。そして鮎。冬瓜の表面が焼けたのを見計らったらすぐに取り出して、交替で鮎を焼いてしまう。
「りんー、お湯沸いたー」
「ありがとう、火の神。兄ちゃん、かつお節削れた?」
「おう。量はこれ位か? あー、いい匂い。この匂いだけで酒を舐めたいわ」
「なあによ、それー」
うん。でも。削り立てのかつお節の匂いは、パックの安売り削り節よりも明らかに匂いが強い。鍋の昆布を取って削り節を手で鷲掴みで投入。ふつふつと沈んだ所を慎重に取り出してから、茄子を入れ、味噌を投入した。そろそろとお玉で飲んでみる。
ああ、美味しい。やっぱり山の出汁だけじゃどうしてもこの存在感のある味にはならない。出汁はやっぱり海のものが一番いい。すっと最初に感じるかつお節の匂いも、その後通って行く昆布の匂いも、そしてそれらを旨味にしている味噌の味。味噌の味を十二分に吸った茄子の美味さ。全部を取ってみても、山の味と海の味の絶妙なバランスだ。
朱の椀に味噌汁を盛り付け、皿に野菜の炭焼きを盛り、隅に小さな器を乗せてそこに木の芽味噌を入れる。鮎を皿に載せて木の芽を散らす。そして。
炊き立ての白いご飯に、別の竈で塩茹でした枝豆の実を散らし、兄ちゃんの酒とわずかな酢、ハチミツを加えて、さっくりと混ぜ合わせる。枝豆の実がたっぷりと入るように気を配りつつ椀に盛り、最後に木の芽を散らす。枝豆ご飯だけれど、大丈夫かしらん。
全てを膳に載せると、あたしは再び兄ちゃんと一緒に廊下を歩き始めた。あたし達が海神様の所にお使いに行った時はもっと空は暗かったはずだけれど、今はすっかりと空が青い。既に日が出てしまっているのだ。
「ねえ、兄ちゃん。御先様喜んでくれるかなあ……」
「どうした、いきなり」
「うーん……最初は何だか嫌な人! と思ったし、今も家に帰れないとは思ってるけどね。でも話聞いてたら何だか、ね」
神様に「可哀想」って言葉を使っていいのかは、私も正直自信がなかった。ほだされ過ぎで、ちょろいって言われたらそれまでだけど、でも。ご飯を綺麗に残さず食べてくれる人を、あたしは悪い人とは思いたくないんだよね。我ながらおかしな話だとは思うけど。
あたしが言いにくそうにしていると、兄ちゃんは「うーん……」と唸り声を上げた。
「あの人なあ、俺の酒好きなんだよな」
「そう言えばそうだね」
「悪い人には思ってないが、俺らは帰れないと」
「……うん、そうだね」
「でも、烏丸さんも言ってたけどさ、あの人。社に縛られてるとは言えども、それで願いを叶えるの放棄するって選択肢出した事はないんだよなあ……」
「うん」
神様って言うのは難しいね。
御先様のいる広間に「失礼します」と言って入ると、御先様は既に肘置きに肘を乗せながら待っていてくれた。
「失礼します」
「ふむ。今日の献立は」
って、昨日は聞かれませんでしたがっ!? 思わず兄ちゃんを見ると、口パクで「いいから言え」とだけ言われてしまった。む、むぅ……。あたしは何とかつっかえつつ言葉を繋げる。
「御先様の右手前から、野菜の炭焼き、器に入っています木の芽の味噌をつけて食べて下さい。鮎を塩焼き、茄子の味噌汁になります。ご飯は枝豆の混ぜご飯になります」
「ふむ……」
う、うう……。あたしはご飯が一つ一つ、舐めるように見られてから箸が出されるのにいたたまれなくて仕方がなかった。店だったら、そこまで審査されるような事なんてない。せいぜい一口食べて「おいしい」「まずい」のシンプルなものなのに。
醤油、欲しいなあ……思わずぽつんと思ってしまった。出汁が美味しい。味噌汁もそのせいで格段によくなったと思ってる。だからこそ、もっと美味しいものを出したいんだけどな。
御先様が箸を置いた時には、昨日と同じく綺麗に食べ終えられた後だった。
「悪くはないな」
その言葉に、どっと背中の汗が流れ落ちるのを感じた。
「……ありがとうございます」
思わずべちゃりと頭を下げて、兄ちゃんに小声で「頭下げ過ぎ」とどやされる。嬉しい。このプレッシャーをあたしはまだ気持ちいいなんて思えるようにはできてはいない。