酒粕氷のすすめ・四
氷室のほうに歩いていくと、鍬神は今日もせっせと野菜を氷室に運んで行っている。ときどき道を塞がないように気を付けながら歩いていたら、すぐに姐さんのいる場所に辿り着いた。
「おや、この匂い……」
姐さんは俺を見た途端、ひくひくと鼻を動かした。麹を扱ったあとはどうしても甘い匂いが移る。だんだんその匂いをまとわせているのが普通になってきたけれど、最初は甘い匂いが全身からして、嫌になったもんだ。俺は器に入れてきた酒粕を見せる。
市販されているものだったら固くて平べったいものや、袋詰めされた緩いものが多い。これは出来立ての奴で、まだ柔らかいものだ。
「ああーっと、どうもー。酒はまだ原酒だけで、これから火入れをしないと駄目なんですけど」
水で割ったあと、酵母を殺さないようにとろ火にかけて熟成させないといけない。原酒で飲むんだったらそのままでいいんだけれど、その過程で酒にバリエーションが生まれるんだから、あまり火入れも馬鹿にはできないんだ。
本当だったら姐さんに酒をあげたほうがいいような気がするけれど、御先様にもまだ出してないのに渡すのもなあ……。
そう思って俺が差し出すと、姐さんは目をきらきらとさせてそれを受け取った。
「うんうん、これこれ。酒も好きだけど、酒だけだったらなかなか楽しめないからねえ」
「えー……?」
なにが? そう聞く間もなく、いきなり姐さんの周りがさっき以上に寒くなる。さ、さぶさぶさぶさぶ……っっ!?
俺は腕で銅をかばっても、寒さが一向に収まらず、ガチガチと歯を鳴らす。……姐さん、他のもんも凍らないのか?
鼻が痛くなってきたところで、ようやく寒さは緩んだ。姐さんは「いーただーきまーす」と楽し気に酒粕を食べはじめた。
それで気が付いた。酒粕は凍らせてシャーベット状にして食べるのが好きな人間もいるんだと。まあ、飲兵衛用のおやつだよなと思う。水も加えずに酒粕だけ凍らせても、アルコールなんて飛ばないんだから。その代わりさらさらになって食べやすくなっているから、夏の点滴ってことで甘酒にするよりも手早く食べられる。
シャリ……と音を立てて、姐さんは酒粕氷を食べる。
「んー、美味いねえ……こんなの杜氏がいないと食べられないしねえ」
「酒粕、よそでもらえないんすか……」
「酒は奉納されればもらえるけどねえ。酒粕だけを奉納されることなんて滅多にないから。杜氏がいて、蔵で直接酒をつくらなかったら、滅多にありつけないんだよねえ」
「なるほど……」
シャリ、シャリ……という音を立ててそれを嬉しそうに頬張るのに、俺はなんとも言えなくなる。
姐さんは珍味だから褒めてくれているようだけれど、結局のところ、俺の酒の味ってどうなんだ?
喉の奥でむずむずとしていたら、姐さんが酒粕氷を頬張りながら口を出してきた。
「なんだか迷子の顔をしてるねえ。まあ、あんたが神隠しされている時点で迷子かもしれないけどねえ」
「な、なんすか……」
「一応こんなんでも神やってるから、話してくれてもいいよ?」
「……対価いるんすよね、それって?」
「話を聞くだけ言うだけで対価なんて取るのかね」
……この人、お色気ある割には色気のねえ行動しかしてないけど、悪い人ではないんだな。
そう納得してから、俺は「あー……」とうめいた。
「昔はやんちゃしてたんですよ」
「今は更生して、真人間になりましたって話、あたしはあまり好きじゃないねえ……」
「不良やってたことを自慢なんてしませんよ」
実際、周りには白い目で見られていたわけだし、白い目を向けられたまま修行して、ようやっとひとつ酒を完成させたところで行方不明なんだからなあ。まあた白い目で見られるよ、とは思うわけだ。
「ただ反抗してたんす。うちでつくってるもんに、未来があるのかどうか疑問だったんで」
「酒かい?」
「はい」
酒は年々高くなっている。それでも仕事で疲れた体をアルコールを取って癒されたいという人種は多いんだ。
でも今はアルコールがほとんどない酒が主流で、日本酒は冠婚葬祭の際に飲まれればいいほう、最悪の場合は正月のお屠蘇にだってお呼ばれしない。別に高級品になった覚えもないのに、どんどん敷居が高くなっているんだから、たちが悪い。
それに未来がないと思ったってしょうがないだろ。俺がそう思いながら押し黙っていると、姐さんは「うーん……」と唸る。
「むーずかしいねえ。古いものって、なくならないと駄目なのかい?」
「いや、俺はそんなことはひと言も」
「同じだと思うよ? でもねえ」
姐さんはシャリッと音を立てて酒粕氷を食べる。姐さんは食べるピッチがずいぶん早く、このぶんだとあとひと口で完食だ。
「自分がしたいことと、しないといけないこと。それが一致することって神域ですら滅多にないさね。それが一致していることってきっと羨ましい話だとあたしは思うよ?」
「……ええっと、姐さん」
「だって。あんたは酒は古いとか未来がないとか言っているけど、一度も嫌いだなんて言ってないじゃないかい」
それに俺は目を見開いた。
……家業だから、好きとか、そんなんじゃない。ただずっと親父の背中を見てきた。
麹や酵母、生き物を扱っているんだから、そう簡単に休みが取れる訳もなく、夏休みだからといってどこかに家族で長期間出かけたことなんて一度もないが、それを不満に思ったことだって一度もない。
ただ自分で家を継いで、自分でうちの造り酒屋を終わらせることだけは、死ぬほど嫌だった。……家業が嫌なんじゃない。終わらせることが、嫌だったんだ。古臭い、未来がないと本音から目を背けて。
今はよくも悪くも家から離れている。……猶予を与えられたようなもんだ。
「そっか……俺は」
「あれま。あ、もうちょっとしたら夕餉だろう? 御先様にお酒を持って行っておあげ」
「話、聞いてくれてありがとうございます! ああ……またへこんだら、話を聞いてくれますか?」
「まあ聞くくらいだったらただだけどねえ。あ、あたしは美味いと思うけどさ。ちょっとだけ気をつけな。御先様は味には細かいからねえ……あの人、本当に滅多に「美味い」って言わないから、落ち込み気味のあんたはむやみに刺激されてやけ起こすんじゃないよ?」
「そんな厳しいんすか……」
「厳しいっていうか、あの人って偏屈だからねえ」
姐さんはそう言いながら、最後のひと口を食べた。それに目を細めて嬉しそうに口元を綻ばせる。
「うん、美味かった。ご馳走様」
「あ、お粗末様です」
「じゃあ行っておいで」
そう背中をバシンと叩かれて、つんのめった。
姐さんに頭を下げてから氷室を出ると、さっきまでさんざん冷やされた体に熱が戻るのがわかる。俺は「んー……」と伸びをしながら、空を仰ぐ。神域の空の色は淡い。霞がかっている影響で、現世の空の色よりもずっと淡いんだ。
さて、時間も潰せたことだし、御先様に酒を出さないといけない。姐さんや火の神からは好感触だったものの、味に細かいって言われている御先様が「美味い」と言うかは未知数だ。
まあ、やるだけやるか。
神域に来てから、いや。神域に来る前から残っていたしこりが、ようやく取っ払えたような爽快感があった。
その爽快感を味わいながら、俺は蔵へと急いでいった。
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烏丸さんに出してもらった銚子にお猪口。酒は小さな樽にお酌を添えて持っていく。升とかで飲むのかと思っていたけれど、食事しながら飲むから、これくらいの量らしい。
御先様は料理番の食事と一緒に、まじまじと俺の酒を見た。注がれた酒は、水で割って火入れをしていない原酒。酔いの周りは早いが、一番香りがいいものだ。
銚子でお猪口に注いで、それを御先様は口に含む。
ガン見したらまずいよな……そうわかってはいたものの、目が離せずに凝視していたら、御先様はひと言口を開いた。
「……悪くないな」
悪くない。
それは親父やうちの熟練杜氏のつくった酒と、同じ反応だ。
つまりは、「悪くない」ってことだ。比喩でもなんでもなく。俺はひとまず軽く握りこぶしをつくった。
「ありがとうございます」
頭を下げながらも、口元からニヤニヤ笑いは消えてくれそうもなかった。




