庵の料理手帖・五
『 』
俺が御殿に戻ってみれば、ここに住んでいる付喪神たちがわたわた走っているのが見えた。
先ほどから地鳴りがひどい。どう見てもそれが響いているのは広間からだった。
「からすまあー!」
ぴょーんぴょーんと跳んできた火の神が、涙を溜めて寄って来た。俺は目を見開いて火の神を見下ろすと、奴はぴょーんぴょーんと跳びながら訴えてくる。
「なんだ、ずいぶんと御先様が荒れているが」
「わかんない! 御先様ずーっと怒ってるんだぞ!」
「そりゃわかるが……これは一体……」
「なんか物騒なこと言ってるし!」
「言ってるって……御先様、久々に広間から出てきてたのか?」
それに火の神は頷く。まさか……俺は思わず眉間の皺を揉み込む。
「御先様、「あの女」とずっと怒っているんだぞ!」
「……あの人、まさか」
「花園に行っていたみたい!」
やっぱりか。あそこで庵の言葉を全部聞いていたという訳だ。
俺は「ちょっと御先様に話をつけてくる」と、火の神に礼を言って去っていった。
廊下では、付喪神たちは遠巻きにして、襖の向こうをうかがっているのが見えたが、俺は「ちょっと離れてくれ」と言うと、蜘蛛の子を散らしたかのように去っていった。
「御先様、烏丸です」
返事は返ってこない。替わりにピシャーンと音が響き、廊下が揺れた。怒り心頭で、雷を落としているところらしい。
「入りますよ」とひと言声をかけてから、襖に手をかけて開くと、また一本の光が降り注いだ。その中で、脇息にもたれかかってぐったりとしている御先様の姿があった。
ただまっ白な目でこちらを睨んでいるのがわかる。
「……なんだ、嘆願か?」
「そういう訳ではありません。新しい料理番にすぐに据え替えますから。ですから、しばらくはお待ちください」
その言葉に、御先様はより一層冷ややかな色を露わにしてくる。俺は頭を下げる。
「お願いです、もうしばらくお待ちください」
「……そう言って、またあの女を甘やかすのか?」
「そういう訳ではありません」
御先様は怒り狂ってはいるが、怒り任せで言葉を吐き出すことはほとんどない。本当に怒っているときは、ただでさえ重い口を閉ざし、ただ癇癪として雷を落とし続けるのだ。現に部屋にはまたも地鳴りがするほどに雷が落ちている。
最後に御先様はひと言だけ言って、今度こそ口を閉ざした。
「さっさとあの女を追い出せ」
俺は再び頭を下げ、畳に額を押し付けてから、広間をあとにした。付喪神たちは不安げにこちらを見上げてくるが、俺は笑うにとどまった。
「大丈夫だ、あともうちょっとでなんとかなるだろうさ」
****
俺は小屋に向かうと、今は彼女がいた。ただ御殿から聞こえる雷の音に脅えるように頭を抱えている庵の姿があった。
「庵、すぐにここを出るぞ。荷物を準備してほしい」
「あの……御先様は」
「大丈夫だ。あれくらいの癇癪ならば」
まだ完全に御先様が口を閉ざしていない。まだ感情任せに呪おうとしていない時点で、まだ問題がないが、そろそろ新しい料理番を用意しないと駄目だろう。
彼女を帰さないことには、御先様の怒りすら治まらない。
庵は小さく「ごめんなさい……」と言った。
彼女は自分の気持ちを口にしてきたことだってそうだ。悪くなくても謝ってしまう。
これはふたりの相性が悪かった。それだけの話だろうに。また暗い表情を浮かべる庵に対して、俺はできるだけ緩く笑ってみせた。
「あんまりそんな顔をするな。お前さんは笑っていたほうがいい。あと悪くないことで謝らなくてもいい」
「そ、その……ごめんなさ……」
「だから。……ほら、荷造りしておけ」
「……はい」
彼女が荷物の用意をしているのを見ながら、俺はふう……と息を吐いた。
神域で彼女には、つらい思いばかりさせていたような気がした。こことむこうだと時間の流れがちがうが、できることならもう彼女がここに関わらないようにしてやりたいが……。どうなんだろうなあ。
神域を出る際、彼女を抱えて飛んでいる中、庵は小さく「あの……」と声をかけてきた。
「なんだ」
「その……神隠しになったら、神隠しになっている間のことは忘れてしまうって、よく……そんな話はありますけれど。私も忘れてしまうんですか?」
「いや、忘れはしないだろうさ。きっと現世で「覚えていない」と答えるのは、現世の常識と神域の常識がちがうせいで、これを実際にあったことだと証明できないからだと思うぞ?」
「そうですか……なら、安心しました。私、ここでの出来事、覚えていられるんですね」
彼女は妙に安心した声で言っていた。
てっきりここでのことは、庵にとっては忘れたいことだとばかり思っていたから、その態度に俺は拍子抜けしてしまった。
神域から現世に出る際、彼女はこてり、と意識を飛ばして眠ってしまった。ずいぶんと軽い彼女が憐れでならず、同時にもう二度と会うことができないだろうことが、妙に寂しく思えた。
庵の告白に対して、俺は返事をする言葉を持ってはいなかった。彼女にとって嫌な記憶であるなら、忘れられてしまったほうがいいと思っていたのだが、彼女が覚えていられると喜んだことに安心したなんて、そんな勝手なこと、言えるわけないだろう。
****
「なあんか、烏丸さんしんみりしちゃったよね。庵さん……あたしやおじちゃんより大分前の料理番さんだけどさ。彼女のノート渡しちゃったら、本当にらしくなくなっちゃってさあ」
蒲団をどうにか干そうと畑まで出てきたのはいいものの、相変わらず霞がかっているここで、どうやって干そう。
あたしは蒲団を物干しにひっかけつつ「んー……」としながら、今日の酒造の世話がひと段落した兄ちゃんに言ってみたら「そうだなあ」と言ってみる。
「もう会えない人の話が出たら、そうなるんじゃねえの?」
「ん……あたしはそれが納得できないんだけどな。だってさ、庵さんも烏丸さんも未練たらたらじゃない。なのになんで、どうしてってさ」
「あのなあ……それはさすがにお前のほうが考えなしだろ」
「どうして?」
いっそのこと、火の神連れてきて、下であぶれば布団乾燥機みたいにならないかな。
あたしはそう思いながら、火の神を入れるために一旦物干し台を動かして、その下に穴を掘りはじめたら、兄ちゃんは嫌な顔をする。
「だってさ、神域と現世と、時間差あるだろ。お前だって帰って来たの、俺らにしてみりゃ数日単位だったのに実際は一年とちょいって。その庵さんって人にしてみりゃ、うん年前の出来事だろ。お前、自分の黒歴史知っている人間に、今更「こんにちは!」って会いたいか?」
「それって、兄ちゃんが盗んだバイクで走り出していた頃のこと知ってる人とか?」
「言・う・な!」
「あっだぁぁぁぁ!?」
デコピンされてずっこけつつ、「それもそうか」と思う。
庵さん、あたしより10は上だった。でも彼女が神域に滞在していた時期っていつだろう。女の人って、はたちを過ぎたら年のことを必要以上に気にしてしまう。そう考えたら、彼女の「もう会えない」っていうのは仕方がないのかもしれないけれど。でも。
ふたりともまだ引きずってるのに、納得なんてできないよ。
あたしが「うー……」と口をもがもがしていたら、兄ちゃんが「そういえば」と話を振って来た。
「そのノートって、レシピだけだったのか?」
「ううん。だからあたしも烏丸さんに押し付けたんだし」
「え……あれって日記だったのか?」
「日記っていうよりも……庵さん小説書いてる人だからかなあ、資料集だった」
「はあ……?」
付喪神の話や、神社の話。神域の花園の花の種類に、勝手場での料理の手順。ここでの生活を事細かにまとめていたのだ。
「祭囃子とヤタガラス」を書いたのだって、きっとこのノートが元なんだろうな、きっと落としてきたとき、庵さんだって焦っていたと思う。
それに……夕餉のあとには決まって一行単位で日記が添えられていた。さすがにこれ以上はあたしが読んじゃ駄目な奴だと思って、すぐに烏丸さんに押し付けたけれど。
あたしはぼそりと言ってみる。
「……んー、あたし、あの人の書いた童話、持ってきてるけど。これ烏丸さんにあげたほうがいいかな?」
「書いたのって、庵さんの?」
「うん。お節介かもだけど」
あたしが頷いたら、兄ちゃんが大きく溜息をついた。
「お前的にはどうなの、あのふたり。終わってるの。終わってないの」
「ふたりとも、終わらせる気あるのかねって思ってるよ」
本当にままならないって思ってる。それだけ。




