庵の料理手帖・三
『今日の朝餉
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現世の掃除が終わり、神域に戻って御先様に報告に向かった。このところ御先様はずいぶんと機嫌が悪く、肘をついたまま、天井を向いていることが多い。
「ずいぶん機嫌が悪いですな」
そう声をかけると、御先様は眉間に皺を寄せてこちらに振り返った。機嫌がいい顔なんて、この数年ほど見たことはないものの、ここまであからさまに機嫌が悪い顔をすることは滅多にない。
「……そちこそ、このところずいぶんと機嫌がいいではないか」
「なんですか、それ」
御先様は横柄なことを言ってこちらを困らせるのはいつものことだが、あからさまな嫌味を言ってくることはあまりない。珍しいものだと思って肩をすくめると、御先様は右手を握って広げてを繰り返した。
「このところ、食事が不味い」
「……それ、料理番に直接言いましたか?」
「言った。あれはあからさまに泣き出したがな」
「そんな……料理番にそんなことを直接言わなくとも」
「烏丸」
御先様はあからさまに目尻を吊り上げた。
このお方は人間は好きで嫌いという複雑な感情を抱いていることは知っているが、こうもあからさまに機嫌が悪いのは他でもない。
どうにも、御先様と料理番……庵との相性がよくないようだ。
御先様は、肘を突きながら目を細めた。
「我は対価を支払えぬ者には用はない。このことだけはくれぐれも忘れるな」
「……わかっておりますよ。このことは、ちゃんと彼女にも言い聞かせておきますから」
「我はあの人の子は好かぬ」
「……それ、本人に言っていないでしょうね」
俺の問いかけを無視して、御先様は肘をついて再び天井に視線を戻してしまった。この方は口が固すぎる。一度閉じてしまったら、その気になるまで決して口を開いてはくれないのだからたちが悪い。
無視されるのはわかっていても嘆息は自然と漏れ、「失礼しました」と言いながら広間を出て行った。
勝手場のほうに顔を出せば、火の神が大きな目に涙を浮かべていた。
「からすまー……」
「なんだ、また賄いをもらいそびれたのか?」
「おう……またいおり、御先様にいじめられたみたいで泣いちゃって出てこないんだ」
「ああ、やっぱり……」
「おなかぺこぺこだよぉー……」
「すまんな、ちょっと待っててくれ」
彼女はまたも小屋に逃げ込んでしまったらしいのに、俺は再び溜息をついた。小屋のほうに向かい、戸に耳を当てると、前とはちがって嗚咽の声すら聞こえなかった。
「庵?」
返事が返ってこない。まさか……と思って「開けるぞ」とひと声かけてから戸を開けると、蒲団は畳まれていて、ここに庵はいなかった。
まさか、逃げ出した?
とは言っても神域で人間が行ける場所なんて限られている。どこに行ったと思って畑に出て鍬神を捕まえて聞いてみた。
「料理番を見なかったか!?」
捕まえる鍬神捕まえる鍬神に聞いてみるが、皆首を振るばかりで、口を開かなかった。
さすがに埒が明かなくなり、空を飛びながら庵を探してみた。人間はたいして遠くまで行くことはできない。すぐに見つかるだろうと高をくくっていたが、なかなか見つからなかった。
本当にどこに行った?
仕方がなしに花園に足を踏み入れたとき。天狗蜂が飛び回っているのを無視しながら歩いていると、ようやく「ひっぐ」という声を耳が拾った。
花園の藤棚。天狗蜂がぶんぶんと飛び回っている薄紫の下で、彼女は膝を抱えていたのだ。なるほど、藤棚の下だったら、そりゃ空からじゃ見つからないわけだ。
「庵! 賄いも出さずにいったい……」
声を荒げようとしたが、途端に彼女はぴゃっと肩を跳ねさせて、そのまま膝に顔を隠してしまった。
「ごめんなさい……」
「いや、怒っているわけじゃないんだ。何度も言ったと思うが、せめて火の神に賄いは出してやってくれ……」
「……ごめんなさい」
庵はまたもしゅんとしていた。どうも、またも御先様にいらんことを言われたらしい。俺は首を振りつつ、もう一度言った。
「ああ……すまんな、御先様が口の利き方を知らなくて」
「いえ。私が鈍くさいんです。それで御先様をいらいらさせてしまったから……」
御先様はあの性格で、庵は気が弱い。
あの方の威圧感が原因で、庵は萎縮してしまって失敗する。それが余計に御先様を苛立たさせる。悪循環に陥ってしまっているらしい。
こうも相性が悪いと、彼女を早く帰らせて、次の料理番を見繕わないと、両者共にもたないんじゃないだろうか。
俺は口を開いた。
「すまんな、お前さんを現世に帰してやれればいいんだろうが。そもそも次の料理番が見つからないことには、お前さんだって帰してやれんのだ」
「……い、いえ……本当に、私が悪くって」
「でもお前さんの料理は美味いぞ。御先様が何と言ってもな」
「……え……?」
それだけは間違いなく断言できた。
御先様がどういうつもりで「不味い」と言っていたのかは、あの方が気が向かない限りは口を開かないだろうが、庵の料理は美味いのだ。
特に揚げ物。味を調えるのだって大変だというのに、彼女は本当に美味い揚げ物をつくって出していた。それを俺や火の神は「美味い美味い」と言いながら賄いとして食べていたのだから。
庵はようやく膝から顔を上げた。またも睫毛が濡れて、目尻も赤くなってしまっていた。本当に、彼女はここでの生活は向いていないな。
「なあ、庵。頼むから、ちゃんと御先様に出してやってくれないか? お前さんの美味い料理を」
「で、でも……御先様の口には、合わなくって、その……」
「あの方が気難しいのはいつものことだから、いちいち気にしていたらきりがない。余裕がないときは気にしなくってもかまわない」
「そ、そういうのは、ちょっと……」
「……俺が新しい料理番を見つけたら、ちゃんと帰してやるから。そのときまでは、頼む」
俺が頭を下げると、ようやく庵は立ち上がった。そのままおろおろと俺のほうに手を向けながら。
「そん、な……顔を上げてください。私、そんな大したものではありません……!」
最後は悲鳴のようになってしまったが、まだ声を出せるんだったら、彼女は大丈夫だろうとほっとした。いったい次にいつ料理番が見つかるのかは俺もわからないが、彼女はちゃんと帰らせてやらないといけないだろう。
ふたりで勝手場に戻る際、庵はぽそりと言った。
「あの……本当に、いつもいつもすみません」
「前にも言っただろう。そんなに謝らなくていいことまで謝らなくてもいい」
「で、すが……あの、烏丸さん」
ふいに。藤の花びらが風で舞った。それに合わせてたすき掛けされた彼女の袖も、少しだけ揺れた。
さっきまでさんざん泣いていた庵は、ようやく口元を綻ばせていた。
「……ありがとうございます」
それを見ながら、俺は自然と目を細めていた。
本当に彼女は笑っていたほうがいいと思うんだが。しかしそういうことを言うと、いつだって氷室様が「あんた、まあたいい加減なこと言うねえ。女にそういうこと言うのはお止めよ」と揶揄される。
火の神に謝って庵に賄いを出してもらい、それを一緒に食べる。火の神はむしゃむしゃと「うまーい」と言いながら食べている中、俺もまた庵とともに彼女の賄いを食べていた。
やっぱり、美味い。
「美味いな」
そう食べながら言うと、庵はにっこりと笑った。それにほっとしつつ、またひと口食べた。
だがなあ……。何度食べてもわからなかった。
御先様が料理を「不味い」と切り捨てることなんて本当に滅多にないのに、どうしてこれを「不味い」と言った?
このとき、俺は気付いていなかった。もうちょっと早く御先様から聞き出せたらよかったんだが、本当にどうしたらよかったんだろうな。
未だに彼女を傷付けたことは、後悔している。




