庵の料理手帖・二
『今日の朝餉
麦ご飯
山女魚の唐揚げ
おくらのお浸し
ふきのとうの味噌汁』
その日も、陽が昇るよりも前に起きて、神域を飛んでいった。現世にある社の掃除に向かうためだ。
神隠ししてきた人間に対価を支払わせているとはいっても、現状は御先様の力はまったく戻っていない上に、社は放置されっぱなし。このまま現世の社のほうが先にがたが来てしまったら、最悪取り壊しになりかねない。だからこうして俺が世話をしているわけだ。
飛んでいると、勝手場のほうからゆるゆると煙が立ち昇っていくのに気が付く。あれだけ緊張していた庵だったが、どうにか起き上がって料理をつくってくれているらしい。
そのことにほっとしながら、まっ白な境界を越える。現世の掃除に雑草むしり。それらを終えたら神域に戻るが……大丈夫だろうか?
気の弱い彼女が、ひとりでちゃんと御先様と向き合えているのかが、いささか心配になった。
掃除を済ませて神域に戻れば、「からすまー」とぴょっこんぴょっこんとなにかが飛んでくるのが見えた。
普段滅多に竈から離れない火の神だ。
「俺が留守の間に、どうかしたか?」
「いおりないちゃって、こやにこもっちゃったんだよ。どうしよう。おれ、いおりころすのいやだぞ?」
「……まさかと思うが、まだ賄いをもらってないのか?」
火の神はない首をこくんと縦に振る。
……まずいな。対価の支払いだけはきっちりしろと言っておいたのに。火の神に「小屋なんだな?」と何度も確認してから、彼女に宛がった小屋に向かう。
小屋にも灯りひとつ入れられておらず、戸に耳を当てれば、すすり泣きの声が聞こえる。
「……う、……う」
「おい、庵。大丈夫か?」
「……烏丸さん、ですか?」
戸の向こうから声をかけると覇気のない、弱々しい声が返ってくる。俺はできるだけ声色を優しくするよう努めながら、言葉を選んだ。
「あー……朝はすまんかったな。ちょっと用事で出ていて」
「いえ。お勤めお疲れ様です……御先様に怒られてしまっただけですから」
「あの人もすぐ我をとおそうとするしなあ。何言われた?」
そう尋ねてみたら、ようやく戸が開いた。ずっと泣いていたらしい。睫毛が涙で濡れている。
「……料理の説明を求められても、ちゃんと答えられませんでしたから。ですから……」
「あー。すまんな。御先様も単純に言葉の選び方が下手なだけだから。きつく聞こえるのかもしれん」
あの方は傲慢というほど上から目線という訳ではないが、神隠しの元凶であり、気配は人のものとは明らかに異なっている。おまけに機嫌を損ねればすぐに雷を落とす。それで怖がるなと言うほうがおかしな話なんだが。
……いかんな、話がそれた。
「……泣くのはかまわんが、せめて手伝ってくれた奴らを、ねぎらってはくれないか? 火の神が賄いが欲しいと泣いているんだ」
「あ。ごめんなさい。せっかく手伝ってくれたのに、賄いのことを忘れていて」
「謝罪は火の神に言ってやってくれ。今だったらまだ、対価の支払いには間に合うから」
「は、はい……!」
ようやく彼女は戸から出てきた。小袖にたすき掛け。その姿でぱたぱたと勝手場まで急ごうとしていたが、ふいにこちらに振り返った。
「あ、あの……烏丸さんも出かけてたんでしょう? あの、食事は?」
「俺の分もあるのか?」
「……はじめて会ったとき、お腹空かせていましたから」
そう言ってようやく彼女は笑った。
泣いているよりも笑っていたほうがいいだろう。慣れない環境に無理矢理連れてきたっていうのはわかっているが、それでも。
少ししてから勝手場に入ると、火の神は満足そうに「あーん」と言いながらおくらを頬張っているところだった。
庵は麦ごはんを三角に握って皿に載せ、味噌汁とお浸しを食べているところだった。
「烏丸さんも、お疲れ様です」
「どうも。庵もな」
「はい」
出された味噌汁をズズズとすすりつつ、お浸しを食べる。食べたお浸しは梅の味がほのかにする。
「美味いなあ」
俺がそうぼそりと言うと、庵はぱっと顔を上げる。別に変なことは言ったつもりはないが。庵は恐る恐る口を開いた。
「あの……本当ですか?」
「嘘つくことでもないと思うんだが」
「そっか、そうですよね。あはは……ありがとうございます」
今思うと、このあたりでもう少し話を聞いてやるべきだったなと思う。
女神は皆、したたかで、自分の権利を絶対に主張するが、人間の女は女神ほど気が強くない。ましてやここは神域で、人間がほとんどいない場所だ。
彼女の神経がか細いということに気付いてやれなかったことは、今でも後悔している。
****
『今日の夕餉
麦ごはん
ますの塩焼き
うどの酢味噌和え
ひらたけの味噌汁』
庵は御先様のことは必要以上に脅えていたものの、不思議と付喪神のことは怖がっていなかった。よく鍬神たちに話しかけたりして、話をしたあとはお礼におにぎりを持ち歩いてはそれをあげていた。
さっきもぺこんと笠をかぶっている鍬神がおにぎりをもらって嬉しそうに去っていくのを見ていたら、彼女が帳面を持ってなにやら書いていることに気が付いた。
「熱心だな」
何気なく声をかけたら、途端に庵は肩を跳ねさせて、おずおずと振り返った。
「あ、あの……すみません。別にこれは、御先様の食事のことでは……ないんです」
「いや、別に。まだ夕餉には時間もあるし、暇な時間をどう過ごそうとは俺も関与するところではないんだが」
「すみません……」
必要以上に謝るなあ。彼女はどうにも気が弱い性格らしく、なにかあったらすぐに謝ってしまうところがあるらしかった。
彼女の帳面をちらりと見る。文章が埋まっているように見えた。
「これは?」
「はい……付喪神にお話を聞いて、それをノートに書き留めていました」
「ん、そんな面白い話をしていたか?」
「いえ……御先様に料理をつくるのは、いつもドキドキしていますけれど、神域っていう場所に来られて、ここで人以外のものがたくさんいるって経験、多分もう一生経験できないでしょうから、その……取材を、していました」
「取材……そんなに面白いもんかね」
「あ、その……御先様を、面白がっているとか、そういうのじゃなくってですね! 話を書く題材になりそうだなと思っただけで、その……本当に、馬鹿にしているとかは全然ないんですよ……!」
しどろもどろにそう伝える彼女に、俺は「ふうむ」と唸る。
御伽草子やら小説やらは、そりゃどの時代にも語られているが、そういえばこれらを紡ぐ人間を俺は神域にまで連れてきた覚えはない。どうも庵はそういうのを紡ぐのが好きな性分らしかった。
それに。料理をつくっているときや物語について語っている彼女はおどおどはしていても、やたらめったらと縮こまってはいない。頼りなさそうだが笑っているのは好感が持てる。
……さすがに俺のせいとはいえど、御先様に食事を出すたびに泣いて小屋にこもってしまうのはいただけなかった。
「いや、別に馬鹿にしているとは思っていない。だが御先様がまた癇癪起こすかもしれないから、このことはあまり公にしないほうがいいかもしれないなあ」
「あ……やっぱりそうなんですね……」
「だが、まあ」
「はい?」
彼女は帳面を閉じて、俺のほうに見る。朝に見た濡れた睫毛はすっかり乾いていて、そのことにほっとする。
「俺は庵はこれくらい元気なほうがいいと思うぞ。そのほうがきっと、ここにいるのは楽しいだろ」
「あ……あの……ありがとう、ございます」
彼女は謝っているとばかり思ったら、今度はお礼ばっかり言っているな。そういう性分なのかもしれないが。俺は自然と口元が緩むのを感じた。
「いや、気にするな。俺がそのほうがいいと思っただけなんだから」




