宮司はどこに消えた・四
おじちゃんはあたしの言葉を聞きながら、湯切りをもう一度しゃん、としてから、お出汁を注いだ器に蕎麦を入れてくれた。載せてくれるのはネギをたっぷり。
「はい、お待ち」
「わあ……おじちゃんありがとう!」
ずずっとすすれば、カツオのふくよかな出汁が口いっぱいに広がる。おじちゃんの出汁と、じゃりじゃりとする舌触りながらも蕎麦のにおいが際立つ蕎麦。においの主張が強いもの同士なのに、不思議と喧嘩しないのは、ネギの絶妙な量のせいなんだろうなあ。それがにおいの繋ぎになってくれて、出汁と蕎麦のにおいを殺さない。
おじちゃんの蕎麦、本当に美味しいな……そう思いながらズルズルと蕎麦を食べていたら、おじちゃんがカウンターにまで出てきて、きょろきょろと辺りを伺った。お客さんはまだいないし、まだおばちゃんも姉ちゃんも店まで降りてきていない。
「そっか……梨花ちゃんも行ってたんだっけなあ。あの場所に。そういや、古巣の悪ガキもさらわれたのかい?」
おじちゃんの言葉に、あたしはほっとする。神域に行っていた事なんて覚えてません。って言われたらどうしようと思ってた。そんな事は全然なかったみたいね。おじちゃんはあたしが蕎麦をずるずるすするのを一旦中断させると、「んーっと」と言う。
「兄ちゃんは元気だよ。杜氏として頑張ってるみたい」
「そうかいそうかい。御先様も気難しいっていうのに、頑張ってるみてえだなあ。まあ、あの悪ガキにはあれくらい厳しい上司のとこに行った方がいいか」
御先様そこまで気難しいかなと思ったけど、出雲に行くのを嫌がって駄々こねてたあれこれを振り返ったら、やっぱり気難しかったわと思い直す。まあ、兄ちゃんも一時期は、造り酒屋を継ぐか否かで、古巣のおじちゃんと無茶苦茶喧嘩した上での暴走族入りだったからなあ……。
あたしはまたもずるずると蕎麦をすすっていたら、おじちゃんは「さて」とあたしの方に頬杖を突く。
「でもどうしたんだい、いきなりあの頃の事を知りたいって」
「うーんと……神隠しが起こってる原因って、御先様の信仰が足りてないからだとは、烏丸さんも言ってたと思うけど」
「あー……言ってたね、そういや」
「うん。それで、お祭りをしたらいいんじゃないかって、神域にいる際に女神様達が教えてくれたの。でも八咫烏神社って、ものすっごく商店街からも怖がられてるから、このままじゃ埒が明かないって思って。だから、まずは氏子の人達を探そうって思ったんだけど……死んだおばあちゃんもあんまり教えてくれなかったし、うちのお父さん達も詳しい事は知らないみたいなんだけど……おじちゃん知ってる?」
「あー……」
おじちゃんはカウンターに備え付けのお冷のピッチャーを傾けて、カウンターに置いてあるコップに水を注ぐと、それで唇を湿らせる。あたしは今度は出汁をずずずっと飲みつつ、おじちゃんを見た。
「そうだなあ……ありゃ梨花ちゃん家のお父さんも小さかったから、あんまり知られちゃいないしなあ……」
「この事って、商店街の人達って知ってる事なの?」
「不幸な事が積み重なったからなあ……だから皆黙ってたのさ」
「それって、烏丸さんも承知な事なの?」
「さあ、どうだろうなあ……あの人もよく分からないし」
人がいい割に、あの人烏天狗っていうの以外何一つ分かってないもんね。本当、どういう事なんだろう。あたしのぼやきはさておいて、おじちゃんは手でコップを弄びながら、言葉を探す。普段蕎麦を打っているおじちゃんの手は、皺だらけで染みだらけになっていても、なお大きくて長い職人の手だ。
「昔なあ、あの神社の宮司さん一家が交通事故にあって。すぐに氏子連中でどうにかしようって動きがあったんだけど、まあ……」
「もし何もなかったら、八咫烏神社放置されないですよね?」
嫌な予感がする……とあたしは思いながら、蕎麦を全部すすり終える。後はネギごと出汁をすすってしまえば完食だ。
「梨花ちゃんは既に知ってるかもしれないけど、氏子の統括……神社総代って分かるかい? 氏子の代表なんだが……それが工事の最中に家が陥没する事故があってねえ……それで入院しなくちゃいけなくなって。あの時は年寄り連中は顔面蒼白だったねえ……それから、神社の管理に関わろうとする人間、関わろうとする人間、みぃーんな不幸な事故に遭うもんだから、とうとう皆、手を出すのをやめちまったんだ。これが真相。俺やあの悪ガキ、梨花ちゃんは御先様に会っているから、あの人が祟ったんじゃないって事を知っちゃいるが、御先様を知らない人がその一連の流れを聞いたら、一体どう思うだろうって、そういう話さ」
「……そんな」
あたしは黙って器を傾け、出汁をすすり終える。折角の美味しい出汁が、今は何だかしょっぱく感じる。
一体誰が書いたのかは分からない、あたしが借りてきた童話。あの童話は、どう考えてもこの事故の連続について書かれているように思える。
宮司さんと総代さんの不幸な事故のせいで、商店街の人達は怖がって神社に近付かない。でも、そのせいで御先様はお腹を空かせて神隠し、ますます商店街の人達は怖がる……この悪循環、どうすればいいの。
あたしが「むぅーむぅーむぅー……」と唇を尖らせるのに、おじちゃんは笑う。
「まあ、そんな訳だ。梨花ちゃんが祭りをやりたいにしても、そもそも今は誰が総代を務めてるのかも分からなくなっちまっててねえ……力になれなくってすまんね」
「……ううん、ありがとう、おじちゃん。どうして皆があの神社の事だんまり決めてたのか、ようやく分かった気がする」
「そうかい」
あたしは財布からお代を支払うと、「また何か相談があったらおいで」というおじちゃんの言葉にお礼を言ってから、そのまま出た。
鞄をぎゅっと抱きしめつつ、考える。どう考えたって、この童話を書いた人は、この商店街の事故の事を知っているって事は、この人を探さないといけない。
「先はまだまだ長いなあ……」
夕方になる前に帰ってしまわないと。御先様へのご飯、今日は一体何を持って行こう。そう思いながら、あたしは急いで家路に着く事にした。
カーカーと烏の鳴き声をぼんやりと耳にしていたら、大きな影が落ちるのに気が付いて、あたしは「あ」と見上げる。大きな羽を羽ばたかせていたのだ。夕方で、夕方セールに急ぐ主婦層が道を歩いているにも関わらず、誰も空を見上げる事はない。
誰も見えないのを気にする事はなく、烏丸さんは羽ばたかせながらあたしの隣に降り立った。
「よう、今帰りかい?」
「あ、烏丸さんこんにちは。蕎麦屋のおじちゃんにお話聞いてました。あの……烏丸さんは商店街で遭った事故、知ってたんですか?」
「商店街の事故かい?」
「あーっ、やっぱり知ってたんですか!」
「そりゃ、あの頃は俺も神社の周りを見回りできたしなあ」
あたしが賽銭あげるまで、烏丸さんは神社の外に出られなかったけど、それより前はそうとは限らなかったんだよなとは、今更ながら思った事だ。でも。知ってたのに、どうしてどうこうできなかったんだろうとは疑問に思う。
「あの、御先様がずっとお腹減らせてるのって……」
「宮司がいなくなり、氏子も逃げ出した。この状態でどうして御先様は信仰を集められるっていうんだい?」
「……ですよね、知ってました」
「俺ができる事といったら、せいぜい神社に運よく入り込んできた人間を連れ帰って、食事を作ってもらう事だけだったからな。それで一人分くらいの信仰はもらえたから」
「……それ、それなんですけど」
あたしはそう言いながら、ばっと借りてきた童話を差し出した。烏丸さんは目をぱちぱちさせる。
「それは?」
「商店街の皆がだんまりを決め込んでたのに、この本には神社で遭った事故の詳細が童話タッチで描かれてるんですよ。もしかして、蕎麦屋のおじちゃんより前に神隠しになった人が描いたのかなと思ったんですけど、烏丸さん知りませんか?」




