帰還の刻
花神様のお茶会からしばらく経ち。あたしはノートに出雲に来てから学んだ事を書いていた。
やる事が多過ぎて、御先様の神域ではなかなかできなかったノート作成が、皮肉な事に出雲では下っ端だとやる事が限られているせいで、ノート作成がはかどってしまった。
揚げ物の勘は本気で慣れと勘の領域で、未だに柊さんの足元にも届きそうにない。それでも前よりも明らかに盛り付けの見目がよくなったのも、お米の艶が前よりも増したのも、あたしよりも実践を積んでいる人達の腕をずっと見ていたのと、話をする機会が多かったせいだと思う。
「はあ……女神様方から祭りの提案、なあ……」
ノートをペラペラとめくりつつ、今日のお神酒奉納の終わった兄ちゃんにも花神様から言われた事を言ってみる。
御先様の神格が落ちたのも、信仰が落ちたから。祭りをすれば信仰が戻って、神格を取り戻す事もできるって言われても、そう簡単に言われてもなあと思ったのだ。
あたしはまだほとんど参加した事ないけど、兄ちゃんは商店街のお祭りとかにも関わった事あるから、何か思いつかないかなと思ったんだけど。
兄ちゃんはぽりぽりと頭を掻いて、言ってみる。
「うーん……むっずかしいなあ。そもそも御先様の神社って、立入禁止になってるからなあ。あそこで祭りをしたいって言っても、そもそも商店街の年寄り連中が賛成してくれるかなあ……」
「あー……やっぱり難しいんだねえ。でもさ、そもそも御先様の神社、どうして宮司さん今はいないの? いたらあそこまでボロボロになってないよね」
「んー、これは俺も詳しい事知らないんだよなあ。じいさんやばあさんが何か言ってたような気はするけど」
「宮司さんがお世話できなくって、今は皆から放置されてるんじゃ、やっぱり御先様可哀想だよ……」
お腹が空くって言うんだったら、あたしが毎日お供えを持ってこれば済む話だけど、これだとあたしが神域にいる時と変わらないから、御先様の神格が戻るって事はないよねえ……。
あたしがノートに視線を落としつつ、「うーん……」とうな垂れていると、不意に兄ちゃんが「あ」と漏らす。
「兄ちゃん?」
「一人いただろ、俺達と同じで、御先様の事情を知っている人」
「え、いたっけ」
「バーカ、お前誰の替わりで神隠しになったんだよ」
「あ」
兄ちゃんの一言で、頭を探り……思い出した。蕎麦屋のおじさんだ。おじさんがお孫さん生まれるから、現世に帰りたがったから、あたしは呼ばれたんだ。
おじさんだったら、もしかしたら神社の管理の事とか事情の事とか知っているかもしれない。
「……おじさん、お祭りしたいのに巻き込めないかなあ」
「そればっかりは聞いてもらわない事には、何ともだなあ。でもりん。お前どうやって御先様説得するんだよ」
「え?」
「現世に戻るんだったら、そりゃ必要だろ。御先様の許可。おじさん帰りたいって時も大変だったんだぞ。出雲に行く時の駄々の捏ね方の倍は面倒くさかった」
うー……。あのビリビリを思い出して、あたしは自然と身をすくませるものの。やらなきゃいけない事を一つずつクリアしていくしかないだろうし。
現世に一度戻るんだったら、御先様に話をしないといけないのはしょうがないだろう。
ここが嫌だから帰るんじゃない。御先様をどうにかしたいから、帰るんだから。
肩をすくめさせる兄ちゃんに、あたしはノートをぱたんと閉じながら笑う。
「まっ、仕方がないね。やりたいって思ったんだからさ」
「お前のそういうところ、俺は尊敬するね。でもそこまでできるのは何でだよ?」
「えー? うーん……」
兄ちゃんにそう聞かれて、あたしは思わず空を仰ぐ。
神域の空の色は、春だろうが秋だろうが、淡い水色で、からりとした青空を見た事は、ここに来てから一度もない。
「……作ったものを、美味しいって言ってくれたから?」
「何だそりゃ」
そう言われても、それ以外に理由が思いつかないんだもの。兄ちゃんが「やれやれ」と首を振っているのを尻目に、あたしは空を仰いでいた。
霞がかっているのに澄んでいるなんて、本当に神域の空の色って不思議。
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一月にものぼる祭りの終わりっていうのは、ひたすら大変なものだ。
天と地が引っくり返ったって言うのはこの事かって言う位、荷物をまとめて付喪神達が動き回り、ご飯係はご飯係で帰る準備をしていく。
あたしはあたしでこの一月ずっとお世話になったご飯係の寝所にほとんど持って来てない荷物をまとめていると、ふとごうごうと言う音が玄関から聞こえて、そっちの方に視線を投げかける。
ご飯係の人達は料理長含めてほとんどが獄卒や死者のせいか、あたし達が乗って来た牛車よりも物々しい火の玉が渦巻いている牛車に荷物を積み込んでいるようだった。
「よっ」
「わあ……っ!? あ、料理長! うずらさんも……!」
あたしは思わず背筋をピンッと伸ばす。
この二人にはとにかくお世話になった。下っ端のあたしが来て困っただろうけれど、二人があれこれ面倒見てくれて、技術を教えてくれたから、あたしもすっごく勉強になったんだから。
「本当に一月、お世話になりました……っっ!」
あたしが頭を下げると、料理長は怖い顔を綻ばせて、うずらさんは青白い頬を緩めて笑ってくれた」
「その謙虚さがお前さんを成長させるだろうさ」
料理長がそう言って目を細めるのに、あたしはジンと胸に染みるのを感じた。それにしても……柊さんが見えないな。あたしがキョロキョロと視線を彷徨わせていると、うずらさんが溜息をついた。
「柊も御前試合の際に随分と蛇神様に気に入られたらしくてな。あれもしばらくは蛇神様のところで厄介になるらしい。まあ、あいつは包丁片手にどこにでも渡っている奴だからな」
「えっ……そういうのって、ありなんです? だって、あの人、地獄の……」
「既にあれも服役を終えているんだがなあ……神様に好かれやすいんでなかなかあれも極楽に行かせてもらえないんだ」
……何か聞いたらまずいような事まで聞いたような気がするぞ。本当に神様って、身勝手な生き物だな……。思わず遠い目になったけれど、巫女さん達が閉じ込められるような一件よりは安全なような気もする。
あたしが苦笑いを浮かべていると、背後からまた声をかけられた。
「よっ、おめさんも帰るところかい?」
噂をすれば何とやらで、柊さんだ。いつもの飄々とした態度で、本当に包丁入れだけ持って口元に笑みだけ浮かべている。
「柊さん、引き抜かれたって聞きましたけど……」
「あの世とこの世とあっちこっち巡りもまた一興だしなあ。生きてたらこんな面白い事にも巡り合わなかっただろうさ」
「あ、あたしまだ生きてますんで、洒落になりませんよっ」
「ああ、こりゃ失敬。そういやおめさんは神隠しされてこっちさ来たんだったなあ……」
そう言いながらまたものらりくらりとした態度を取るのに、あたしは思わず笑ってしまっていたら、「まあ」と柊さんはまたも読めない笑顔を向けてくる。
「おめさん、女神様方に随分気に入られたらしいじゃねえか」
……出雲、情報回るの早いなあ。これ、多分御前試合だけじゃないしお茶会の事も含まれてるよね。
「そりゃ単純にご飯係に女が珍しいからでしょ」
「いやいや……楽しんだもん勝ちだろうさ。何やら吹き込まれてやろうと思ってるらしいが、老婆心で一つさ」
そう言って柊さんはひょいと人差し指をあたしに近付けた。
「誰に一番食べさせたい料理か、それさえ忘れなかったら何とかなるだろうさ。楽しんでけ」
言いたい事だけ言うと、柊さんはもう振り返る事なくさっさと牛車の一台に乗り込んでしまった。
楽しめ……か。誰に食べさせたいって言うのだったら、そんなの最初から決まっている。でも、楽しむ事を忘れないって言うのは案外難しいって言うのはよく分かっている。
「ありがとうございます!!」
あたしはもう簾を上げる事ない柊さんの乗った牛車にそう言うと、再び料理長とうずらさんに振り返った。
「本当にお世話になりました!!」
二人にもう一度挨拶してから、あたしもまた牛車の一台へと走って行った。ころんはちりとりを持って待っていてくれ、そのちりとりの上には火の神が待っている。隣には氷室姐さんもいる。
次に来る出雲は現世か神域か知らないけれど、また行きたい。行ってみたい。嫌な事もいい事も同等にあったけれど、そう思わせてくれる、一月だった気がする。




