神在月の宴・六
うずらさんの蛸刺しを見ながら、あたしも蛸をどうにかさばいていくけれど、なかなかうずらさんのお手本のようには切れない。あの透けるような薄さを、吸盤に捕らわれる事なく切るのは本当に大変。分厚過ぎたら歯ごたえは楽しめるけれど、蛸自体の甘さが堪能できないし、薄過ぎても身のプリプリ具合は楽しめない。
おまけに。巫女さん達がまた勝手場に来ているのが目に入った。
やばい、焼き物を既に取りに来ている。つまり、活け造りはその次。あたしはちらりと横目にずらりと並んだ皿を見る。既に他の板前さん達が、うずらさんの切った蛸刺しをつまと一緒に盛り付け始めている。
ペースあげないと、間に合わない。でも。
一度乱れた包丁だと、上手い具合に蛸をさばききれない。なかなか上手く切れないのに、泣きたくなってくるけれど。あたしの腕を見ながら、うずらさんはポツリと言う。
「折角こんな凄腕料理人ばかりの所にいるんだ。盗めるもんは盗め。確かに料理の順番はあるが、遅れた所で問題がない。皆酒が目当てだからなあ」
「ですけど。もしあたしが遅れたら」
こんな時にもぱっと出てきてしまうのは、御先様の事だった。本気で出雲に行くのを嫌がっていたあの人が、またも他の神様に意地悪されないか心配だった。神様は意地が悪いとは、皆が皆、ずっと口酸っぱく言っていた事だ。
せめて、せめて。宴が辛くっても、ちゃんと味方がいるって伝えたかった。あたしはご飯係で、御先様の力には全然なれないけれど、ご飯食べているのが辛いだなんて、そんなのあんまりじゃないか。
言葉にならず、ただあたしがまな板の方に視線を移すと、うずらさんはふっと笑った。そして包丁をリズミカルに動かす。
「遅れたくない理由があるんだな、りん」
「……はい」
「じゃあ、その理由に見合う結果を出せ。どうしたら遅れないのか、今切っているその刺身が、誰の口に入って欲しいのか、どうしたらその人の口に入った時、喜んでもらえるのか。何、八百も皿があるんだ。どれか一つは万が一にも口に入る事だってあるだろうさ」
「……はい」
ああ、そうだ。普段の神域だったら、ご飯係はあたし一人なんだから、当たり前な事忘れてたや。ばっかだなあ、食堂の娘な癖して。
全部の皿をあたしが担当している訳ではないけれど、どれか一つは御先様の所に行くのかもしれないじゃない。あたしはどうしてここにいるの。御先様にご飯食べて欲しいからでしょ。
包丁の柄をもう一度きゅっと握り直す。時間の事も大事。刺身のクオリティーも大事。どっちも両立させてこそ、プロ。どっちも落とすような事なんて、絶対にしない。
あたしが迷いなく包丁を振るい始めたのを見て、ふっとうずらさんは笑った。
「手に豆作っても、手に包丁握った皺がなくなっても、絶対にそれを離すな。これから一月はずっと包丁だけが頼りなんだからな」
「はいっ!」
「一日や二日で技術を覚えられたら、料理人は苦労しないんだ。毎日を修行と思え」
「はいっ!」
耳に馴染ませようとするのは、うずらさんの包丁のリズムだ。タンタタタンタン。さばいて、薄切りにして、端に寄せていく音。その端に寄った奴は他の人達が回収して、青く透き通った皿に丁寧に盛られていくのが分かる。
あたしはうずらさんの包丁のリズムを見ながら、それを必死で真似し始めた。あたしの包丁を切るスピードよりもワンテンポ速くって、油断したらすぐにテンポはずれるけれど、真似できない程度じゃない。そのテンポ通りに刃を入れた蛸は、それはそれはうっとりとするような透け具合を伴って切れていくのだから、それがたまらない。
一体包丁を振るって、どれだけの時間が経ったんだろう。気が付いたらあたしの手持ちの蛸は消えていた。
「あ、あれ?」
「終わりだ終わり」
「えっ?」
相変わらず出汁の匂いは充満しているし、油の弾ける音が聞こえるのは、天ぷらでも揚げている音なんだろうか。ざくざくと切る音が聞こえているのは、巫女さん達が次の料理を運び始めるタイミングで焼くから、それまでに準備をしているんだと思う。
でも。ひとまずはあたしの蛸刺しの準備は終わったらしい。あたしが切って行ったものは、丁寧に皿に並べられていた。
と、巫女さん達がやってくる。
「お疲れ様です! 料理運びます!」
「あー、お疲れ」
うずらさんが巫女さん達に挨拶するのに、あたしも思わず釣られる。
「あっ、お疲れ様っす!」
巫女さん達はお盆に大量に蛸刺しを乗せると、それを運んで行ってしまった。それを見た途端に、どっと汗が出てきた。まずは一日目は、クリアって事なのかな……。あたしはぐったりとする。
「お疲れ、初日はどうだったい?」
うずらさんにそう声をかけられて、あたしは思わずへにゃりと笑う。
「もう大変でしたよ、だってもう。あたしも初めてっすよ、蛸なんて触ったの。うちの神域には蛸なんてありませんし、現世でも蛸刺し出すような料理作ってませんもん」
「そりゃよかったな、レパートリー増えただろ」
「ま、そうっすよねえ」
蛸の洗濯なんて発想、テレビで見るのと実際に見るのじゃ、全然発想の説得力が違うもんなあ。そう思ってあたしが笑っていると、うずらさんは「そう言えば」と言葉を付け加える。
「お前さん、明日の朝は?」
「えっ? あたし、明日の事なんて何にも聞いてないですよ? そもそも出雲に行くって事以外、何も聞いてないですし」
「はあ……そりゃそうか。だとしたら、明日の朝、多分朝餉当番を任せられるぞ」
「……へ?」
寝耳に水どころか、いきなり井戸に突き落とされたような気がして、あたしは思わず口をあんぐりと開ける。
「なっ、何でですか!?」
「そりゃもう、ご飯を炊くように言われたんだろう? ご飯炊きが代々朝餉当番だからな」
「あっ、朝餉当番ってそんな……!? あたし、八百人分も作らないと駄目なんですか? そ、それに、そんな懐石料理みたいなレパートリー富んだもんをいきなり作れなんて言われても……!!」
「ああ、それが引っかけなんだよなあ」
そう言ってうずらさんが笑う。
ん、んん……? あたしが分からないと言う顔をすると、うずらさんはポンとヒントを投げてくれた。
「今日も明日も明後日も、ひたすら宴会三昧なんだ。その中で、例え神とは言えども胃を傷める。胃を休ませるにはどうしたらいいんだ?」
「……あっ!」
あたしはポンと手をついた。
正月で三が日暴飲暴食をし続けたら、胃が壊れてご飯が全然入らなくなってしまう。ましてや神在月の間中ずっと宴なんだから……胃が弱るんだ。
「メニューって、何でもいいんですか?」
「ここに運ばれてきたもんだったら何でもな」
「ありがとうございます! 何とか考えてみます!」
あたしはペコンとうずらさんに頭を下げた。
そして自分の竈に置いてきた火の神を持って来たちりとりに乗せた。
「火の神火の神、ちょっと出かけるよ」
「ん? もうりんの今日の仕事は終わりだろう?」
「今日のはね。明日のために手伝ってよ、お願い」
「???? おう……?」
さあ、考えないといけない事がいっぱいだ。800人分作らないといけないのが第一、宴でこれから弱る胃でも食べられる朝餉を考えないといけないんだから。ひとまずはころんを探してきて、運ばれてきた食材を見に行かないとね。




