神在月の宴・四
水も入って米も入って、倍率ドンですっかりと重くなってしまった釜を、あたしは必死で運んでいた。腕千切れる。重い。重い。でも……。うずらさんの料理が見られると思ったら、自然と歯を食いしばって運んでいたけれど。
「おい、りん。大丈夫か? うわあ……すごい米の量だな」
「ああ……兄ちゃん」
ここに来るまでお酒の奉納をしていたらしい兄ちゃんは、汗でぐっしゃりと濡れてしまっていた。そう言うあたしだって、指紋がなくなるんじゃないかって言う位に米を洗い続けていたんだから、人の事は全然言えないと思うけれど。
兄ちゃんは一つ運んでくれたので、それであたしはどうにか釜を運ぶ事ができた。
「料理人さんがいるから、その人の手伝いする事になったんだ。でもさ、兄ちゃん」
「ん?」
「ここにはあんまり人間いないみたいだけど、料理人さん達はどこから来てるの?」
「あー……刑務所だって、仕事させるだろ? それと同じで地獄に堕とされた人も刑期を軽くするために奉公させるんだって、烏丸さんから聞いた」
「へえ……じゃあ人間の料理人って珍しいんだ?」
「どうだろなあ……神様って言っても」
兄ちゃんはあちこちをきょろきょろと見回す。あたしは釜を抱えつつもきょとんとしていると、兄ちゃんは人目をはばかったような小さな声でこう言う。
「気まぐれだからな。人間の常識ってもんは通用しないから、自分の都合でしか物事考えない。神隠しに遭って神様に気に入られちゃった人間の中には、もう帰れない奴だっていると思うぞ。俺らの場合は烏丸さんがかばってくれているから、帰れるめどは立っているけどな」
「はあ……そんなもんなんだ」
あたし、神隠しになった原因って烏丸さんに誘拐されたからなんだけどな……。そう思った事はひとまず飲み込んで、どうにか勝手場に釜を並べる。あたし一人だったらこれ一体どれだけ時間かかるんだって思っていたけれど、どうにか終わった。
そして。勝手場の湯気があたしが米を洗いに行くより前よりも強くなっている事に気が付いた。出汁の匂い、魚の油処理の匂い、酒の甘くまろやかな匂い……。もう勝手場の戦争が始まっているみたいだ。
「兄ちゃんありがとうね、そろそろあたしも米炊かないと。兄ちゃんはこれからどうするの?」
「もうちょっとしたら、俺も試飲会だよ。ほんっとうに緊張する」
「ああ、そっか。新酒の奉納してたから?」
あたしがそう話を振ってみると、兄ちゃんは固い笑みを浮かべていた。
兄ちゃん、昔はやんちゃやっていたけれど、更生してからはずっと実家の造り酒屋でお酒頑張って作ってたもんね。それを奉納している神様達から直接感想を聞くってどんな気分なんだろう。
「おう、ほんっとうに緊張する。一日目はいっつもこうなんだよ」
あたしの心配とは裏腹に、兄ちゃんの口調は軽い。顔こそは強ばっているのにね。
「そう言えば兄ちゃん」
「あん?」
「宴会って三十一日分全部やるの?」
「やるぞー。神様は人間と違ってアル中になるもんじゃならしいからな」
「へえ……兄ちゃんも頑張って」
「おう、りんもな。いじめられないようにな」
「大丈夫だよ、あたし、ここにいる人達には今の所いじめられたりしてないから」
「そうか、ならいいんだけどな。頑張れよ。俺は俺で頑張るから」
「はあい」
そう言って手を振って、急いで火の神に手を合わせた。
「これから無茶苦茶お米を炊いてもらわないと駄目だけれど、いいかな?」
「いいぞー。ここの奴等、時間が一つ遅れたらすっごくぷりぷりするからなあ」
「ねえ、火の神」
「何だあ?」
包丁の音がリズミカルに刻まれている。懐石料理はご飯・汁物、煮物、焼き物と続いて、蛸の活け造りを作るとしたら、多分その前後になる。ご飯を出し終わったら急いでうずらさんの手伝いに行かないと。
それはさておき。火の神が首を傾げつつ、ひとまず一つの竈のご飯を炊き始める中。ぱちんぱちんと薪が爆ぜる音を聞きながら、あたしは疑問を口にしてみる。
「皆が言っていた意地悪するって言うのって誰? 少なくとも、料理人さん達は皆仕事熱心だなと思ったんだけど」
「料理する奴はいじめる奴はいないんだぞ?」
「じゃあ」
「神ってわがままだからな」
「うわあ……結局そうなる訳ね」
あたしは思わずがっくりとうな垂れるのに、火の神は首を傾げる。火の神の首ってどこだろうね。物の例えなんだけれど。
結局は御先様が卑屈になってしまった原因がここにいるって事なんだものね。ご飯を出す、それだけでものすごいいじめには合わないとは思うんだけど。あたしはひとまずぎゅっと胸元を掴む。
ここで宴のために頑張って料理している人達がいっぱいいるんだし、あたしはあたしで足を引っ張らないようにしないと。火の神がポコポコとご飯の釜を叩いてくれる音を聞きながら決意を新たにしていると、料理長さんが「おい、りん」と声をかけてきてくれた。
「は、はいっ!」
「もうしばらくしたら宴が始まる。先にご飯と香の物を運ぶように」
「香の物はどこですか?」
「ああ、これを運ぶがいい。器はそこの食器棚から好きに使うといい」
「ありがとうございます!」
出された香の物は、つやっつやした梅干しに、綺麗な色をしたお新香だ。薫りがものすっごくいいし、これをぽりぽり齧りながらご飯を食べたら、それだけで美味しい。お酒に合うかどうかは、あたしは未成年だから分からないけれど。
ご飯はまだ蒸らし時間があるし。でも。あたしは料理長に声をかける。
「あの、一体どれだけ準備すればいいでしょう? 八百人……です?」
「うむ、そのように聞いている」
「はい」
……指紋なくなる。一日のお客さんが八百人なんて言うのは、宴会を生業にしているホテルであるかどうかの客数だよ。そう思いながら、ひとまずはお茶碗に香の物を入れる器を探す事にした。




