幽霊ー8~9
8
「そんな馬鹿な」
彼女の説明を聞いた、僕の返事がそれだった。
頭のうしろに鈍痛が走り、気づいた時はこの家にいて、自分が誰なのか、なにがあったのかさえもわからなくなっていたというのが彼女の言い分である。
「でも、記憶喪失だとして、どうして君は自分の名前が古寺裕子であることを知っているんだい」
当然の疑問を僕は口にした。
<男の子がそう言っていたのを聞いたのよ>
「は? どういうこと」
<わたしが幽霊として、初めてこの世に生を受けた時のことよ。幽霊のくせに生を受けただなんておかしな言い方だけど、そのことは気にしないで。とにかく一番最初は誰かの話し声がしてるなって感じて、まず意識が戻ったの。それから男の子と女の子がいるのに気づいたの。二人はそこの六畳の部屋で抱き合っていて、わたしはなにがどうなっているのかわからなかった。と、男の子が女の子に言ったの。ここは幽霊が出るって。古寺裕子っていう女の幽霊だって。チシキの奴がそれを見たらしいんだ。おまえも知っているだろう。チシキサトオだよ、三組の。あいつ女をここに連れ込もうとしたら、幽霊を見たもんで、びびってそのまま逃げたらしいや。まったく笑わせるぜ。あいつ意気地ないから、なんか見間違えたに決まってるさ。二人でケラケラ笑い、互いの身体をまさぐっていたりするのね。まるで、わたしなんかそこにいないみたいにね。男の子が言った古寺裕子という名には聞き覚えがあったの。すぐに、どういう漢字をあてるのかわかったぐらい。でもその時は、それが自分で、幽霊になっているなんて思いもよらないじゃない、なにがどうなっているのか事情を聞こうとしたら、突然二人の様子が変わったのよ。わたしのほうを向いて信じられないものを見た顔つきをすると、悲鳴を上げながら、二人とも転げるようにして逃げていったわ。わたしもすぐに追いかけたんだけど、この家の周囲から先には進めなかったの。紐みたいなものでつながれていて、それ以上いけないという感じね。それでなにか自分に、普通じゃない異変がおこっていることに気づいたのよ。そしていろいろ試したり考えたりしているうちに、どうやら自分が、男の子が話していた幽霊だということがわかったの>
「いまだに、名前以外にはなにも思い出せないのかい」
<そういうわけじゃないけど、ほとんどが、つかみどころのない断片的なものなのよ。そのうえわたしには、それが確かなことなのか、どういう意味を持つものなのか調べようがないじゃない。古寺裕子という名と顔形は思い出せたんだけど>
「名前と顔だけじゃ、なにも思い出していないのと同じだよ。しかし君が亡くなって八年も経っているのに、たったそれだけなの」
<えっ、わたしが死んで八年も経つの>
彼女はぎょっとしたようにして僕を見つめた。動揺を示すように像が大きく揺らいだ。
「それも知らないのかい。つくづく呆れ返るな。古寺裕子が死んだのはいまから八年前だよ。でも、それっておかしくない。死ぬ前の記憶がないのはいいとしても、幽霊になってからの記憶はあるはずだよね。それなのに、どうして八年というのがわからないの」
<それは……>彼女の目が気まずそうに動く。<なんていうか、そのう……そう、幽霊と人間の時間感覚はどうも違うみたい>彼女はわざとらしく笑顔した。<あなたにとっての一日が、幽霊の場合は一分ぐらいかしらね。それに、カレンダーも新聞もないし、時間の感覚がずれてくるのよ……そんなことより、その八年前のことを教えてよ。事件があったみたいだけど、わたしは被害者なの>
話題をすり替えられたような気がした。お互いの時間の感覚が、そんなにずれていたりして、こんなふうに会話ができるものなのだろうか。釈然としないものを感じながらも、僕は親父から得た情報を話して聞かせた。
<やはりわたしは殺されていたのね。で、犯人はまだ捕まっていない。だから成仏できないで、この世にとどまっているんだわ>
「しかしいくらなんでも、記憶喪失の幽霊なんていうのはいただけないよ。古寺裕子について、名前と顔以外に知らないもんだから、記憶喪失ということにしているのさ」
<まだわたしが幻覚だと思っているのね>
彼女はきっとした。
「そうさ、君は僕の幻覚だよ。そしてそのことに君が気づいていないんだよ。まったく無意識というやつはたいしたものさ。幻覚に、自分のことを幽霊だと信じ込ませているんだからね」
<幻覚というのでは説明しきれない部分があるのを、どうして認めてくれないの>
「そりゃ認めるよ。幻覚とする僕の説は、穴だらけのご都合主義さ。でも君だって、同じ程度のものじゃないか」
<どういうこと>
「つまり君が幽霊だとしてみても、僕の説と同じで、説明のつかない部分やあやふやなところはたくさんあるということだよ。たとえば聞くけど、いったい君はなにでできているんだい」
<そんなのわからないわよ。幽霊というぐらいだから、霊体とか霊魂というものからじゃないの>
「じゃ、その霊体や霊魂はなにからできているの」
<だからわからないって。きっと、まだ人類に明らかにされていない未知の物質よ>
「ほら、君だって、都合が悪くなったら未知の物質とやらを持ち出す。僕がサイコメトリーを持ち出すのと同じだよ」
<ちがうわ。わたしは、素直にわからないことはわからないって言っているだけ。それに引き替えあなたは御託を並べているだけじゃない>
一理ある。彼女のほうが正しいんじゃないかと、一瞬思ってしまいそうになった。しかしすぐに考えなおした。やはり幻覚だよ。そう、幻覚。
僕は言った。
「じゃあ、つぎに聞くけど。幽霊が人間を引きずるのはいいよ。考え方も感じ方も、姿形も人間っぽくていいさ。でも、服は違うよね。服はただの物質なんだから、幽霊とか霊になるなんてことはないよね。それなのにどうして幽霊は服を着ているんだい。君だってそうだけど、その服を、君たち幽霊はどうやって調達しているんだい。おかしいと思わないかい」
<だって、裸だったら恥ずかしいじゃない>
彼女は顔をしかめた。
<確かに幽霊が服を着ているのは、理屈に合わないかもしれないわ。服が霊や幽霊になれるわけはないもの。でも、だからといって、いまあなたが見ているこれが洋服だとは限らないんじゃないかしら。きっと、洋服じゃなくて洋服のイメージみたいなものよ>
「イメージって。で、そのイメージはどこからきているんだい」
<たぶん、そのイメージをわたしが発信して、それをあなたが受けとめているんだと思う。こう考えて、わたしという幽霊が、わたしの姿をイメージする。そしてそれをあなたに発信して、あなたがそれを受信することで、あなたはわたしを見たり聞いたりすることができるのよ。だからわたしが洋服を着ているのは、わたしがそういうふうにわたしの姿をイメージしているからだわ>
「僕は、君が発信しているイメージを見ているにすぎないというわけかい」
<正確にはそうじゃないだろけど、そう考えたほうがわかりやすいと思うわ。幽霊というわたしに実体がないのも、イメージだと思えば納得しやすいでしょう。それに幽霊が人間を引きずっているのも、そういう意味合いでよ。人間っぽいイメージしかできないから、そういうふうになっちゃうんじゃないかしら>
「そうなると、僕が見ているのは君の抱いたイメージなわけだよね。すると、君がイメージを変えるたびに、僕は違った君を見ることができるわけかい。洋服も、ヘアースタイルも、太っているか痩せているかも、美人になるのもならないのも、君のイメージ次第というわけだ」
<ある程度はね。でも、オールマイティにはいかないと思うわ。やはり、それなりの法則や限界みたいなものはあるみたい。絵を描いたり音楽を作る際にイメージを思い浮かべても、なかなか思い通りにいかないわよね。それと同じことよ>
「じゃ、ちょっと、そのイメージとやらをやってみせてよ。できる範囲でいいから」
<ええ、いいわ。たとえば風をイメージしてみましょうか>
目と鼻の先で彼女の黒髪がはらりと揺れた。唇の両端が悪戯っぽくもち上がり、毛先が踊り、髪全体がうねったようにして躍動しだした。実際僕は風が吹いているのを感じていた。それはだんだんと激しくなっていく。彼女の髪は翻弄され、信じられないように波打ち逆立ってきた。まるで下から上へと吹き上げられているみたいだ。ロングヘアーなだけに迫力がある。いまでは髪が炎のようにゆらめき、それ自体が生きもののように天井へ向かって伸び上がっていた。
<つぎに、これはどう>
僕に向けられている彼女の顔に変化が生じた。眉と目が消え、それがあった部分はのっぺらになった。髪を天井に向けてなびかせた鼻と口だけの顔で、彼女は微笑んでみせた。と、風がやみ、彼女の全身が揺らいだかと思うと、今度は一瞬にして姿が変わった。
ヒイィィと僕は思わず息を呑んだ。
いま目の前にいるのは僕自身だった。彼女がいた場所に半透明の僕がいた。僕が僕に笑いかけた。反射的に僕はうしろに身をひいた。誰だって、自分と瓜二つの影みたいなものにそうされたらそうするだろう。鏡の奥を覗き込み、自分が、自分とべつなものになったような感じがする。明らかに目の前にいるのは、僕であって僕でなかった。姿形は同じでも、そこから発散している雰囲気というか感じというか、それは他人のものだった。と、目の前の僕の首がずるっと伸び出した。口から長い舌が出、目が白目に反転した。さすがに恐怖を感じた。
「わかった! わかったから、もうやめてくれ!」
掌を突き出し、顔をそむけて僕は叫んだ。
<ごめんなさい。ちょっとやりすぎたみたいね>
彼女の声がし、気づくとすべてはもとに戻っていた。透けた彼女が目の前にいる。幽霊だろうと幻覚だろうと、ずっとこっちのほうがましだった。
いまみたいなことを続けられたら間違いなく気が変になる。それに、百メートルを全力疾走したかのように、急激に体力を消耗したような感じがしている。爽快感はなく、ただきついだけだ。
「イメージがどういうものかはわかったけど、じゃ、いまそうしている普段の姿を維持するために、常に君はそれをイメージしているのかい」
僕の声は疲れていた。
<意識せずに、呼吸したり心臓を動かすのと同じような感じかな。だから、いまの自分の姿を常時イメージしているわけじゃないわ。風を起こしたり、べつなものに変化したりする時なんかに、意識してイメージするだけ。でも、いまのわたしの姿が、わたしの記憶とイメージで作られているのは確かよ。最初、まだ自分が誰だかはっきりしなかった時は、わたしの姿も白い影みたいなものでしかなかったもの>
「でも、そういうふうにイメージで自由に形が作り変えれるならだよ。女の幽霊なんかは、みんな美人揃いになるんじゃないの」
<理屈で考えればその通りだわ。ただし、人間だったらね。幽霊の場合そうはいかないのよ>
「どうしてだい」
<人とコンタクトを取るためよ。そのためには、自分が誰なのかわかってもらわないといけないからよ。別人になったら誰なのかわかってもらえなくなるでしょう。だから、美人不美人に関わらず生前の自分の姿をとる必要があるの。霊と幽霊の大きな違いもそれだと思うわ。幽霊は人と接触する必要があるのよ>
「それこそ、どうしてそんなことをする必要があるんだい」
<理由はいろいろだと思うわ。恨みを晴らすというものもあるなら、この世に未練があるというのもあるんじゃないの。なかには、わたしみたいにわけのわからないまま幽霊になっている場合もあるかもしれない。でも、どれも、最終的には幽霊を脱して霊になるためだと思うわ。恨みを晴らしたら、未練が解消したら、わけがわかったら、そのとき霊になれるんじゃないかしら。そのために幽霊は人に接触する必要があるのよ。そして自分が誰なのかわかってもらわないと、接触しても意味がないじゃない>
「簡単にいうと、成仏するためということだ」
<そう>と、彼女はうなずいた。
「しかし幽霊のことについて、君はよく知っているんだね」
<だって、わたしが幽霊なんですもの。自分のことについて、いろいろ考えてみたり試してみたりしたのよ。ただ、いま話したことは、わたしがひとりで考えたことだから間違っているかもしれないけど>
「そう、君は幽霊じゃなくて僕の幻覚かもしれない」
<まだそんなこと言っているわけ。いままでわたしなんのために苦労して話していたのよ>
彼女は腰に手を当て頬をふくらませた。
<ねえ、わたしを幽霊だと認めたくないのは、やっぱり怖いからなの>
「そりゃそうだよ。幻覚だと思えばまだ対処の方法がありそうだけど、幽霊だとしたら気味が悪いだけでどうしようもない」
彼女の笑った声がする。
<いいわ。わかったわ。それじゃ、幻覚ということでいいわよ。自分を幽霊だと思っている、おバカな幻覚だということで手を打つわ>
「やけにあっさり手を引くんだね」
<ええ、幽霊でも幻覚でもかまわないわ。もう、いやになっちゃった。ただし、幻覚でもいいから、わたしのことは認めてよね。わたしが存在していることはね。それぐらいはあなたも譲歩してよ>
「わかったよ、君の存在は認めるよ。あくまで幻覚としての君だけどね」
<幽霊と思い込んでいるをつけ加えておいてよね。それで、これからのことを考えたら、お互いに相手のことを知っておいたほうがいいと思うの>
「どういうことだい、これからのことってのは」
<だって、一緒に住んでいるわけじゃない。少しは互いのことを知っておかないとうまくいかないわ>
「あのね、ここは僕が借りているの。それに同居人を求めてもいないんだけど」
<いい、わたしはこの家に縛られているのだから、そっちが求めていようとなかろうと、ここにいるしかないの。それに、わたしのおかげで家賃が格安なんでしょう。わたしにもいくらかの権利があるはずだわ。それとも、あなた引っ越す>
それを持ち出されると僕としても弱い。幽霊より御足である。
「わかった。で、僕のなにが知りたいの」
<いろいろよ。でも、その前に少し休まない。わたしも久しぶりに話し込んだから疲れちゃたし。あなたもそうみたい。この話の続きは夜ということにしない>
僕に異存はなかった。それに、確かに疲れていた。
<それじゃあ、また今夜。やっと、少しは理解し合えたわね>
彼女は意味ありげに笑うと、午後の光の中にかき消えた。
9
その夜、僕と彼女は四畳半の部屋にいた。六畳の部屋は、本棚とタンスがあるだけで普段使用することはあまりない。畳の上にはマグカップが二つ。彼女にはそれがなんにもならないのは承知していたが、気持ちだけでもと思い、僕はインスタント珈琲を二杯作っていた。彼女は膝を両手でかかえた姿勢で漂い、僕は僕で、座椅子にもたれかかり畳の上に両足を伸ばしていた。時刻は午前一時、丑三つ時にはまだ間があった。
<つまり、無意味に時をすごしたダメ男というのがあなたなのね>
僕の話を聞いた彼女の感想だった。
間違いないとはいえ、他人から、いや幻覚からそう言われるとなぜか腹が立つ。
「悪かったね」
<わたしが言ったんじゃないわ。あなたが、自分でそういうふうに話したのよ>
彼女の言うことはもっともである。しかし、そのもっともがすごく気に障る。
昼に話したあと、僕はしばらく横になっていた。彼女の言う通り、思っていた以上に疲れていた。いつのまにか寝入ってしまい、目をさましたのは十時を過ぎたころだった。五時間ほど眠っていたことになる。食事をすませ、幽霊に関する本にざっと目を通した。昼のうちに図書館で借りていた本だ。五冊ある。幻覚だと言い張りながら、幽霊の本を借りるとこが僕らしい。いくつか興味深い記述を見い出したものの、それ以上のものは見当たらなかった。まだ拾い読み程度だからかもしれない。そうこうしているうちに、約束通り、音もなく彼女が現れたのだった。
<でもね、自分を自分でダメだって決めつけたら、なんかもったいないと思わない>
彼女が言い、ちょっと気になって僕は彼女を見つめた。
<それに、せっかくあなた生きているんだし、ダメな人生でもダメなりにいいとこがあるかもしれないわ。ダメな人生か。それはそれで楽しくていいんじゃないの、羨ましいわ>
妙に説得力みたいなものがあった。楽しくてとか羨ましいとか、初めて言われた。
<で、いまは小説を書こうと奮闘努力しているのね。家にいてワープロに向かっているから、なにしている人かなと思っていたんだけど、プーなんだ。でも、仕事まで辞めるなんてどうかしているわ>
彼女は呆れ顔をしてみせた。責めているふうではない。
「いいんだよ。人生思い切りが大事なんだ。とにかく、いまはそうしたいの」
<さすがダメ人間ね。三十過ぎのいい大人の考えかたじゃないもの。世間の常識が欠けているのね。でも、いくらなんでも、思い立っていきなり小説を書こうなんて無茶だと思わないの。いままで書いたことなんて一度もないんでしょう>
「小説を書くというのは、すなわち生きることなんだよ」
<なに、それ?>
いやになった。
「ご忠告ありがとう。おおいに参考にさせていただきます。それで僕のことはいいとして、そろそろ自分のことを話したらどうだい」
これ以上なにか言われるのは面倒だったので、僕は彼女のほうへと話をもっていった。
<ええ、いいわよ>
彼女はこれまでのことを伝えていった。幽霊になってからの苦労話みたいなもので、何度も借家人とコンタクトを取ろうとしたものの、うまくいかなかった経緯が主であった。
<初めのうちはわたしも慣れていなかったせいで、怖がられても仕方なかったと思うの。いきなりすがりつこうとして、相手を震え上がらせるばかりだったから。でも、そのうち要領をおぼえて、少しは感じよくなったつもりなんだけど、やっぱりみんな怖がって逃げちゃうのよね。ナンマイダ唱えられるか、塩を撒かれるのはまだいいほう>
そりゃそうだろうと僕は思う。あんたが言うほうが無理。幽霊とコミュニケーションしたがる人のほうが珍しい。
<だから、ほんとうはあなたに会えてよかったと思っているの。やっと、理解してくれる人に巡り会えたんですもの>
「理解って、ちょっと、それは違うんじゃない」
僕の言うことを聞く耳なんて彼女にはなかった。勝手に話をすすめていく。
<わたしだって、今回ばかりは失敗しないようにとあなたには十分気を使ったのよ>
彼女は僕とコンタクトを取るのに大変だったことを話した。怖がらせないことを第一にして、ゆるゆると睡眠中の僕に接触を取ることから始めたらしい。寝ている状態の人というのは比較的交信しやすく、しかも本人は夢と思ってくれるからいいとのことだった。夢とはいえ、予告みたいなものだから、多少はショックをやわらげることができる。しかし彼女の思惑とは裏腹に僕はなかなか気づかず、かえって免疫性をつけてしまったかと不安になったこともあったそうだ。それでも交信を続けているうちに、ようやく僕の霊感も働き始めて、いまになっているというわけだった。ただそういうふうに時間がかかったせいで、幽霊と幻覚を取り違えてしまっているけどねと、彼女はこぼした。
<ほんとあなたみたいに霊感のない人は珍しいと思うわ。わたしの遣り方が間違っていたのかもしれないけど、普通わたしが積極的に交信したらすぐにでも見えるのに、それすら日数がかかったもの。霊波を出しているのに、壊れたラジオみたいに受信してくれなくて、ほんといやになったわ。でも、考えようによってはそのほうがよかったのよね。そうじゃなかったら、あなたもわたしのことを怖がるだけだったかもしれない。よかった、あなたが鈍感な物分かりの悪い人で」
僕の表情を見て彼女は続けた。
<そんな顔しないでよ。もちろんほめているのよ。ダメな人でも、探せばどこかに取り柄はあるのよ。だから自信を持って。あなたがダメ人間で助かったわ>
ますますひどくなる。
「それで君は、そんなにしてまで僕と接触してどうしようというんだい」
<聞いてみたい?>
彼女がにこっとし、僕の背筋をいやな予感が走った。
「やっぱり、聞かなくていい」
<だめよ、そんなの。あなたから言い出したんだから最後まで聞いて>
彼女は急に真摯な目つきを僕に向けた。切れ長の目がひしと僕を捉え、どうしても聞いてもらうとという気持ちが無理にでも伝わってくる。
<わたしを助けて欲しいの。記憶を取り戻すのを手伝って欲しいの。そうすればわたしも霊になれると思うから>
いきなり頼みごとを切り出され、僕は黙って彼女を見返した。どう答えていいのかわからない。そのまま躊躇していると、彼女のほうが続けた。
<確かに勝手だとは思うけど、あなたに頼る以外手はないの。昼間も話した通り、幽霊が人と接触するのは、なんらかの方法で人に助けてもらうしか霊になる手立てがないからよ。そのため生前の姿で現れ、人にすがろうとするの。幽霊なんてほんと不便なものよ。自分じゃなにもできないんだから。とくにわたしなんか、どうやら地縛霊らしくて、この家の周囲から先にはすすめないから手も足も出ない始末。だから自分のことを調べようにもまったく方法がないの>
彼女はすべるようにして、いや、ほんとうにすべって、僕のほうにすり寄った。
<わたしを助けてもらえない?>
「事情はわかったけどさ」
僕は答えた。
「あのさ、勘違いしていない。君は幽霊じゃなくて、僕の幻覚なんだけど」




