幽霊ー6~7
6
翌日の午前中、僕は約束を果たすために、自転車を飛ばして大場不動産を訪ねた。心地よい風を受けペダルを漕いでいると、自分がしていることが馬鹿らしく思えてくる。幻覚の言うことにまともに取り合っているなんて、人が聞いたらなんて言うだろう。
店に入ると、親父がソファの上で鼻毛を抜きながらスポーツ新聞を広げていた。九官鳥が籠の中で羽をばたつかせ、けたたましい鳴き声を発した。
「いまさらなんだかんだ言われてもね。最初に出るのは断ったはずだよ」
僕の顔を見るなり、親父のほうから言い出した。抜いた鼻毛を吹き飛ばす。
「いや、そうじゃなくて、少し聞きたいことがあって来ただけです」
「えっ、あんた文句を言いにきたんじゃないの。もしかして、まだ出ないの」
「出るとか出ないとかはおいといて、あの家でなにがあったのか教えてもらえませんか。幽霊話があるぐらいですから、それなりの血なまぐさい事件があったんでしょう」
正面に腰をおろす僕を、親父は頬髭を撫でながらうさんくさそうに見つめた。理解しがたいという目つきだ。
「あんたも物好きだね。幽霊だけじゃ満足できないで、そのうえ調べてみようというわけかい。しかしご期待に添えるわけにはいかないんだよね。というより、話すことはなにもないんだ。あたしの知る限り、血なまぐさい事件どころか、あの家で死人が出たことすら一度もないよ」
僕はあっけにとられた。しかし、すぐに思いなおした。
「隠さないで教えてもらえませんか。なに言われても気にしませんから」
「いや、隠すもなにも、ほんとうになにもないんだって」
「そんな馬鹿な。それじゃあ、どうして幽霊が出るなんて話があるんですか」
「そりゃ、実際に幽霊が出るからだよ」
なにかわからなくなってきた。からかわれているような気すらしてくる。
しかしよく考えてみると、親父の言う通りだとしたら、幽霊が出るような理由はなにひとつないことになる。ということは、取りも直さず、彼女が幽霊でないことの根拠のひとつになるんではないか。やはり彼女は幽霊でなく幻覚なんだ。あの家自体に未知の力があるという僕の説が、まんざらでもないことのように思えてきた。
「なるほど。理由もないのに幽霊は出るということですね」
自分の考えを反芻するようにして、僕は親父に言った。
「そういうふうに言うと、おかしな気がしないでもないよ。理由もなしに幽霊の噂があるなんて。でも借りた人の全員が幽霊を見ているんだから、こればかりは信用するしかないよ。近所でもあそこは評判だし、あんただってなにか見たからここに来たんじゃないの」
幽霊じゃなくて幻覚なんだという僕の説を披露してみたくなったが、それを押えて質問の矛先を変えた。
「それで、いつ頃から幽霊の噂は始まったんですか」
「八年前からだね。最初はあたしもただの噂だと高をくくっていたんだけど、いざ借り手がつくと、女の幽霊が出ると言って早々に出て行ったわけさ。それからあとは、入居ごとに幽霊を見たと言ってはすぐに出て行く始末。あたしとしても信用しないわけにはいかなくなるじゃないの。こういう商売をしていると、たまに気味の悪い物件に出くわすこともあるしね」
「八年前ですか。でもあの家はそれよりだいぶ以前に建てられていますよね。それ以前に幽霊の話はまったくなかったんですか」
「ないね。あの事件が八年前だから、それ以前に幽霊が出るわけがないよ」
僕はギクッとした。聞き捨てならないことを親父は口にした。
「え、あの事件ってなんです? ほんのいままで、あの家ではなにもおこってないって言ってませんでしたか。え? え? え?」
「ちょ、ちょ、ちょっと。そんなに迫らなくてもいいだろう。こう見えてあたしゃ心臓が悪いんだ」
心臓にも毛が生えていそうな顔して、なに言ってんだ。
「それに、あの家でなにもおこっていないのは事実なんだよ」
「じゃあ、八年前の事件っていうのはなんなんですか。え? え? え? え?」
「だ、だ、だから心臓が悪いって」
手を胸にあてがって、わざとらしく親父は息をついた。心臓はともかく、気が小さいのは確かなようだった。
「八年前に殺人事件があったんだよ。で、そのときの被害者の女があの家の幽霊らしいんだ。でもだからと言って、あの家でその女が殺されたとか、死体が見つかったというわけじゃない。あたしの知る限り、あの家で、幽霊が出るようなことはなにもおこっていないというのは、ほんとうのことなんだよ」
「じゃ、どうしてその女の幽霊が出るなんて話になるんです」
「そんなことあたしにわかるわけないだろう。なんでも、噂の初っ端は、あの家でその女の幽霊を見たものがあったそうだよ。学生だって聞いたけど、詳しいとこは知らないね。とにかく、そういうことが始まりとなって幽霊は定着したという次第さ。しかも噂だけでなく、ほんとうに出るから始末が悪い」
「しかしそんなことがあります。縁も所縁もないとこに出るなんて」
「幽霊の事情まであたしは知らないよ。幽霊に物件世話したおぼえもないしね。それに、殺された女とあの家の間に、まったくなにもないというわけじゃないんだよ」親父は困った顔で僕を見やった。「どこまで話していいもんかな。他人様のプライベートがかかってくるからね。でもあの家を世話した以上、あたしの知っていることは話しておくのが不動産屋のすじという気もするしな。ま、いいでしょう」
親父はそう言って自分を納得させた。
「被害者の女のご主人というのが、あの家の持ち主なんだよ」
そういうつながりがあることに意外な思いがした。八年前に殺された女の夫が、あの借家の家主というわけか。僕は覚悟を決めてその先を聞いた。
「で、その奥さんの名前はなんというのかご存知ですか」
「古寺さん、古寺裕子さんっていうよ」
親父がさもなんでもないことのように言い、向こうで九官鳥が、バカ、アホと、僕を嘲る声が聞こえた。
7
大場不動産を出た僕は、そのまま帰らず、市民図書館の近くのバーガーショップに寄った。三十過ぎの男が、平日の日中からバーガーショップにいるなんて、プー太郎であることを世間に公表しているようできまりが悪く、普段は利用しないようにしている。しかしいまはべつだった。一定の形式にのっとった、いかにも現代的なファーストフードの店に身をおいていたかった。日光がふりそそぐ大きなウィンドウ、プラスチックのトレーに、ロゴ入りの断熱性の発泡コップというのがいい。幽霊なんて、古色蒼然なものを微塵も感じさせない場所に僕はいたかった。
チーズバーガーと珈琲をトレーに載せて、二階の窓際のカウンター席に僕は座った。奥のテーブル席を女子高校生のグループが陣取っていて、きゃんきゃんと弾む声が心地よい。反対側の観葉植物の傍らのテーブルでは、主婦と思える婦人たちが三人で楽しそうに談笑し、その隣の席では、メガネをかけたポニーテールのお姉さんが熱心に大判の手帳になにやら書き込んでいる。店内に流れているBGMはポップスだ。そう、ここに怪異の忍び込む余地などあろうはずがなかった。そして、そういう場所で僕は少しばかり考えたかった。真っすぐあの家に帰ったりするのは、ためらわれたのだった。
バーガーの包みをはずしながら、僕は親父から聞いた話を頭の中で整理し始めた。
事件が起こったのは、いまから八年前の十月のことであった。殺害されたのは古寺裕子という名の女性で、川原に放置されていた彼女の遺体を、早朝ジョッキングの中年夫婦が発見して警察に通報したのが最初だった。彼女の捜索願いが一週間ほど前から届けられていたこともあって、身元はすぐに判明し、近親者に連絡がいった。また彼女が死んだのが、姿が見えなくなったころであったのが検視で明らかになっており、犯人は彼女を殺害したあと一時的に死体を隠し、発見される日の深夜に川原に運んだものと考えられた。死因は後頭部の器物による強打で、出血はなかったものとみられた。ただ、顔といわず全身が刃物で切り刻まれており、遺体は見るも悲惨な状態だった。裕子の夫と彼女の両親が遺体を確認し、怨恨と通り魔の線で捜査が行われた。最初に疑われたのは彼女の夫であった。しかし決め手に欠け、替わりに浮上してきたのは夫の愛人だった。しかもその愛人の女は、裕子が殺害されてから三日後に人と会ったのを最後に行方がわからなくなっている。俄然捜査はその女の発見に全力が注がれた。しかし、けっきょく女の消息は不明のままで、それ以外では有力な手がかりを得ることもできず、事件はいまだに解決していない。親父から聞いた事件のあらましはざっとこんなもんだった。つまりは、未解決。
つぎにあの家だが、八年前は田中さんという一家が七月まで住んでいて、事件が起こった十月ごろは空き家だったらしい。幽霊の噂が出だしたのは、その田中さんが引っ越してからあとのことで、古寺裕子の遺体が発見されてしばらくのころである。噂だけに、それがいつかをはっきりさせるのは困難だが、親父が耳にしたのがその年のクリスマス前だったというから、十月に遺体が発見されてから十二月二十五日までの間に噂は発生したと思って間違いない。借り手が決まったのは、年を明けた二月で、持田さんという若い夫婦だった。しかし住んで十日も経たないうちに、なにかがいると言い出して、泡を食ったように引っ越していった。親父が幽霊の苦情を聞いたのは、その時が初めてである。それでもその頃は半信半疑だったが、その後もつぎつぎと借り手が替わり、みなが一様に幽霊が出ると騒ぎ出すにいたっては、親父としても認めないわけにはいかなくなったという次第だ。僕のひとつ前の住人は大虎巌という柔道部に所属する大学生で、幽霊が出てきたら裸踊りをさせてみますよと豪語していたらしいが、ほうほうの体で退去したらしい。そして僕が借りるまで一年ほど空き家だったという。ちなみに、家賃が一万円まで下がったのはごく最近だそうだ。
以上が、僕が親父から知りえた情報だった。
確かに親父の言う通り、あの家に古寺裕子の幽霊が出るような理由はない。殺されたので化けて出るというのはわかるが、出没する場所があの家である理由がないのだ。夫の所有する家だけでは、さすがに理由になってないとしか言いようがない。なにか秘密があるのだろうか。あの家と殺人事件になんらかの接点があるのだろうか。僕はそのことについて考えてみた。しかし、警察の捜査が実際にどのように行われ、どれだけの情報が集まったのかわからないままでは、一歩も進めないのが現実だった。
ま、それはいい。そんなことより先に考えなくてはいけない、もっと根本的な問題がある。あれは、ほんとうに古寺裕子の幽霊なのだろうか。僕の幻覚じゃなくて、あれは正真正銘の幽霊なのか。それが重要な問題だった。
窓から外の景色をぼんやりと眺めながら、バーガーの最後のひと口を僕はうすい珈琲で流し込んだ。
彼女は古寺裕子の名前を知っていた。僕が親父に聞くより前にだ。それは彼女が、僕の幻覚の産物でないことを物語っている。なぜなら僕が知らないことを、幻覚が先に知っているはずがないからだ。となると彼女は、幻覚でなく古寺裕子の幽霊ということになる。筋道立てて考えるとそうなる。
が、それを認めるのはいやだった。考えただけでぞっとする。いまさらなにびびっているの。幽霊が出るのは最初から聞いていたはずだ。そりゃそうだけど、幽霊と一緒にいたりしたんじゃろくなことにならないとしか思えない。祟られたり、呪われたり、憑かれたりするんじゃないのか。いや、ああやって話したり見たりしているぐらいだから、すでに憑かれてはいるんだろう。しかし――しかしだよ。そうとも、まだ幽霊と決まったわけじゃない。幻覚とする、なんらかの方法があるんじゃないのか。
幽霊と幻覚の間を、僕は振り子のように揺れ動いていた。
バーガーショップに三十分ほどいて、そのあと図書館に寄って、我が家に帰り着いたのは三時頃であった。
台所のちゃぶ台で、彼女が僕の帰りを待っていた。
<どうだった? なにかわかった?>
昼間だけに彼女の姿はうっすらしている。声のほうはあまり変わりない。いつも通り、頭の中でしゃべられている感じだ。まだ日の高いうちから、こういうものと顔を突き合わせなくてはいけないのかと思うと悲しくなってくる。
バッグを四畳半の部屋に置き、流しで洗顔しうがいしてから、僕は彼女の前に座った。椅子とかテーブルとかは邪魔なので、板張りの床の上にゴザを敷き、じかに座るようにして僕は台所を使っていた。
「君が古寺裕子という名前だということはわかった」
僕がぶっきらぼうに言い、彼女は満足そうな顔をした。
<よかった。これでわたしが幽霊だということはわかってもらえたわね>
「いや、まだそうだと決まったわけじゃない」
<どうしてよ!>彼女は眉を吊り上げた。<古寺裕子という名をあなたは昨夜知らなかったじゃない。いまさら言い訳するのは見苦しいわ>
「それはそうだけど。だからといって、幽霊だとするのは早計だ」
憤慨というよりあきれ返った様子を彼女は見せた。
<それで今度はなんだというの。幽霊じゃないとしたら、妖怪かしら。それとも狐か狸の仕業>
「やっぱり、基本的には僕の幻覚の所産なんだと思う」
<こんなんじゃなかったら、あなたをひっぱ叩いてやりたいわ>
彼女は透き通った手を僕の前に突き出した。
「ま、そう怒らないで。説明してみるから」
僕はバーガーショップと図書館で考えたことを、頭の中で一度おさらいしてから口を開いた。
「きっと僕がサイコメトリーを使ったんだと思う」
開口一番、彼女がげんなりした。
それを無視して僕は説明を続けた。
「サイコメトリーというのは超能力のひとつで、わかりやすく言うと、過去に起こったことを読み取る能力だと思ってもらえばいい。テレビの特番あたりで、超能力者が失踪者や事件を透視するやつがあるだろう、あれがそうさ。で、僕はそれを使ってこの家から君の名前を透視したというわけだよ」
彼女の澄ました口調が頭の中に入ってくる。
<それで、そのサイコメトリーやらと、わたしが古寺裕子と名乗ったことがどうして結びつくの>
僕は焦りを感じた。ジクソーパズルのように、説明がピタリと填まらないことを重々承知していた。
「だから……つまりだね……サイコメトリーで得た情報を、君という幻覚を作る際に僕の無意識が利用したんだよ」
<昨日は確か、そんなこと言ってなかったわよね>
「そう、そうだよ。まさかサイコメトリーまで関与しているとは思いもよらなかったからね。もちろん、君が幻覚なのは間違いないわけで……」
<そして、そういった能力を突然開花させているのがこの家の謎のパワーというわけよね。もう、いい加減にして。無理に辻褄を合わせようとしているだけじゃない。支離滅裂の寄せ集めだわ。第一、あなたの無意識はどうしてそんなことをするのよ>
「無意識のすることが、僕にわかるわけないだろう。わかったら無意識でなくなるじゃないか」
彼女の目がきつくなり、すうっと像が伸び上がった。浮遊し、台所をゆらゆらとさ迷いだす。姿が崩れ、形が変化し、もはや人でなく、長い尾を引く白い塊となって彼女は空間を飛翔した。気のせいか台所がひんやりとし、僕は落ち着かなくなってきた。形容しがたい不安感が忍び寄ってくる。やがて彼女は、ふたたび僕の前に位置すると人の形をとった。表情は、やはりきつめだ。冷たい声が言う。
<どう、これでも幽霊じゃない>
「かえって幽霊らしすぎる。あまりにも、僕たちがイメージしている幽霊そのものだ。それは取りも直さず、君が幻覚だという証拠さ」
<きいいぃぃぃぃぃぃ!>
ちゃぶ台が音を立てて震動した。
彼女が頭を振り、長い髪がおどろに乱れた。髪の間から目がのぞき、冷たい眼差しが僕を見据えた。深夜にはぜったいにお目にかかりたくない表情だった。いや、表情がないのだ。そこには死というものが張りついているだけだった。身体の芯が冷えていく。つららを突っ込まれたようだ。
僕は恐怖に瞼を閉じた。それをするのにもかなりの気力を要した。頭の中で叫ぶ。
――ほんとうに幽霊なのだったら、犯人のところに出ろよ!
緊張がゆるみ、解き放たれたような感があった。ゆっくり目を開くと、普通な彼女がいた。姿形は変わっていないが、ほんのさっきの彼女といま目の前にいる彼女はべつものだった。全身から発する『ケ』が違うようだった。
<いま、犯人って言った?>
彼女の声が、妙に真剣みを帯びている。
「ああ、言ったよ。だってそうだろう。見ず知らずの僕でなく、犯人にとり憑くのが常識じゃない……と、ま、僕は思うんですけど」
後半部分はかなりソフトな物言いになってしまった。ほんのいま自分に起こったことを思えば、あまり彼女を刺激したくなかった。
彼女は俯いた。
<わたしは殺されたの?>
変だった。そんなことを聞くなんて、なにかおかしくないか。
「それは、僕より君自身が一番よく知っているはずだろう」
<それがそのう……そうでもないのよね>
彼女は舌をちろっと出し、上目づかいに僕を見た。
<……どうやらわたし、記憶喪失みたいなの>




