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借家幽霊  作者: 愛理 修
18/19

解明ー2続

 三人とも黙り込んだ。触れられたくないことらしかった。洋介は横を向いて、親指を噛んでいた。裕子は下をむいたままで、毬子はその反対に天井を見つめていた。

「若原さんはどうなったんです。関係ないとか言わせませんよ。若原さんのことになると、あなたたちは妙に話を逸らそうとする。いったい彼女になにをしたんです」

「仕方なかったんだよ」

 洋介の投げやりな言い方に、僕は不安をおぼえた。

「礼子のことはわたしから話させて。礼子とわたしは幼なじみなんだから。彼女になにがあったのかは、わたしの口から言うわ」

 裕子が洋介に言い、洋介はそんな裕子を気遣わしそうに見つめた。

 憂いと毅然きぜんさのないまぜになった顔を、裕子は僕に向けた。

「わたしがナオミさんと会った日、つまり二十九日に、礼子はわたしの家に来ていたのです。その前の日に、偶然駅前で礼子とわたしは会っていました。久しぶりでした。結婚式以来でした。礼子とは高校生のころまでは頻繁に会っていたのですが、わたしが大学に進み礼子が就職したころから、交際が途絶えがちになっていました。学生と社会人というギャップがあったのだと思います。結婚式には来てもらっていましたが、そのあとは新婚旅行から帰ってきて二、三度電話でやり取りしただけでした。それでも彼女がわたしの一番の親友であることに変わりはありません。幼かったころからわたしを知ってくれている礼子は、友人のなかでも特別でした。その時も、偶然に会ったわたしと礼子は、忘れていた自分の片割れに出会ったようで、互いに駆け寄り手を取り合うほどでした。どうしてる、元気にしていた、ではすまずに、そのまま二人でカフェに飛び込みました。そして近況を互いに話しました。話したいことはたくさんありました。小学生の時に礼子とはいろんな冒険をしました。教室の花瓶を割ってしまい先生に謝らなくてはいけなかった時、職員室までついてきてくれたのも礼子でした。中学の時には好きな異性の相手を互いに教え合ったりもしました。楽しいこともあれば悲しいこともありました。そしていつも礼子はわたしの親友でした。わたしのそばにいてくれました。礼子とカフェで話していると、そんな思い出がつぎつぎと甦ってきました。礼子が就職先を探していることと、お母さんが亡くなったのを聞いたのはその時でした。いい話じゃないし、遠慮させてもらったのと礼子は言いました。二人でカフェを出て、わたしは礼子の家に寄らせてもらいました。手を合わせ、お線香だけでもあげさせてもらはなければ申し訳ないという気持ちでした。帰り際にわたしは、明日わたしの家で昼食を一緒にどうと誘いました。このまま別れがたい気持ちがわたしにはありました。礼子もそうだったらしく、喜んで行かせてもらうと笑んでくれました。次の日わたしは、遊びに来る礼子のためにケーキを買いに行きました。≪ももたん≫のケーキはわたしも礼子も大好きでした。昨日会ったのに、今日また礼子と会って話せることがわたしには嬉しくてたまりませんでした」

 ケーキを買った時の裕子が明るい様子だった理由がいまはっきりした。若原さんと会うからだった。ただ、裕子が訪ねるのでなく、若原さんが裕子の家に行ったのだ。そして、ファミレスで涼子に扮していた裕子が、明るかったと言い直したのは、そのことで嘘をつきたくなかったからだった。裕子は、親友に対する自分の気持ちを偽りたくなかったのだ。

「礼子が来たのは十二時少し前のことです。昼食を摂って、二人でケーキを食べながらいろいろ話しました。礼子といると、子供のころに戻ったみたいで素直になれる自分が心地よかった。なんでも話せて聞いてもらえる相手、それが礼子でした。わたしは洋介さんとうまくいっていないことや愛人がいることを礼子に話しました。礼子は礼子で就職のことで悩んでいました。そうして話し込んでいるところにナオミさんが突然訪ねてきたのです。

 十時ごろに電話があったのですが、礼子のこともあって、わたしはナオミさんとその日会うことを断っていました。ですから、彼女の訪問はわたしにとって予想もしないことでした。ナオミさんのほうは、そうやってわたしにショックを与えることを計算したうえでの訪問だったのかもしれません。わたしは帰ってもらおうとしたのですけど、ナオミさんはどうしても話すことがあると言い張りました。愛人であることを声高に言い、わたしを挑発したりします。玄関口でのやり取りが聞こえたのか、礼子も気まずいものを察したらしく自分から帰ると言い出し、心配事があったらいつでも相談してよって、わたしの手を握って帰りました。その時、二人が入れ替わりざまになり、礼子はナオミさんを見たんです」

「それがまずかったんだ」

 洋介が横から言い出した。

「ナオミが家に来たことを、警察に知られるわけにはいかなかったんだよ。裕子が呼び出されたことにしないと、計画は成立しなかった。僕の家が犯行現場だと気づかれると、どうやってナオミが自分のコーポに遺体を運んだのかが問題になる。免許を持っていないナオミには無理だ。川原に放置する際の運搬方法も不明のうえそうなったら、警察の疑惑を招くのは間違いなかった。礼子さんに、当日家に遊びに行ったことやナオミが来たことを告げられるのは、計画に支障をおこすことだったんだ」

「わたしたちには礼子にも協力してもらう必要があったんです」

 裕子はそう言ってから、首を横に振った。

「でも、礼子が計画に賛同しないのがわたしにはわかっていました。礼子は真面目すぎるぐらいのところがありましたから。それで洋介さんたちと相談し、先に礼子を計画に加担させ、そのあとでほんとうのところを話したらどうだろうかということになったんです。こう言えば、おわかりでしょう」

「毬子さんと≪来来≫で会ったのが、若原さんだったんですね。彼女は知らずに、ナオミさんの替え玉を演じさせられた」

「ええ、その通りです。ナオミさんが遺体の死亡時よりあとまで生きていたと思わせることができたら、なおのこと、死んだのがナオミさんだと気づかれることはなくなるという考えは最初からありました。そしてその方法を考えている時に、礼子を利用できないかと思ったのです。それでわたしがビジネスホテルに移った夜、ホテルの部屋に礼子を呼び出しました。わたしは、いまは事情を話せないが、頼みを聞いてもらえないかと礼子に話を持ち出し、浅岡ナオミという女に扮して、明日の三時に人に会ってもらいたいと言ったのです。サングラスに毛糸の帽子で変装し、そこで会う人がお金を渡すから、それを受け取って借用書を書き、そのお金を明日わたしが宿泊するホテルの部屋まで持ってきて欲しいというわけです。相手は、あなたが若原礼子であることもすべて知っているから、危険なことはひとつもないと。異様な頼みに礼子は目を丸くしました。なにかあったのかと心配してくれ、事情を聞きだそうとしました。わたしはじっと礼子を見るだけでした。礼子は、わかった、それじゃなにも聞かないって、わたしの真剣な様子に頼みを承諾してくれました。礼子は親友でした。怪しんでいましたが、わたしのことを信用してくれていました。筆跡を調べられるかもしれないからと、ナオミさんの履歴書を、その場で写させました。そこに残った筆跡と指紋を、ナオミさんのものと思わせる狙いもありましたが、同時に、礼子が加担した証明を残す意味合いもありました。警察がわたしの友人関係を調査するのはわかっていましたが、この数年交際が途絶えていた礼子の存在を警察が知ることは、わたしたちの誰かが言わない限り、まずあり得ないことでした。ですから、捜査を混乱させることはできても、計画に支障を起こすことはないというのがわたしたちの判断でした。テレビの犯罪ドラマみたいって、礼子は笑いながら履歴書を写してくれました。退屈していたし、いい刺激になるわと言って、礼子はその夜は帰って行きました。

 そして次の夜、≪来来≫で毬子さんから預かったお金を持って、わたしが宿泊しているホテルに礼子はやって来ました。首尾を聞き、うまくいったことを確認したあとで、わたしはほんとうのこと、計画のことを礼子に打ち明けました。礼子は驚きましたが、怒りはしませんでした。悲しい顔をし、わたしがいいって言うまで誰にもこのことは話さないと言うだけです。お礼として現金を渡そうとすると、ますます悲しそうにして、首を横に振りました。お金を受け取ったら友だちじゃなくなるからと言い、わたしは大切な友だちだからと言いました。そして、誰にも言わないけど、計画はやめにして自首するべきだとわたしに告げました。わたしからはぜったいに言わない。でも、裕子は言わなくちゃいけないって、礼子はそう何度も繰り返して、わたしをホテルの部屋にひとりおいて帰って行きました。

 どうしたらいいのか、わたしにはわかりませんでした。利用されたことに気づいても、一言もわたしを責めなかった礼子は、かえってわたしに罪悪感を抱かせました。礼子が言うことが正しいことはわかっていましたが、わたしにはそれができなかった。小学生のころの花瓶を割った時とは事情が違いました。その時わたしの家族はひとつになっていました。そうなることを、これまでどれほど願っていたか。じつはわたしは、心のどこかで事態を喜んでいたのです。わたしを守ることで、父と洋介さんがひとつになってくれていることを喜んでいるわたしがいました。それを失いたくなかった。ナオミさんにはすまないと思いましたが、こうなってよかったのだとさえ思っていました。このチャンスを生かして、もう一度やり直すことができると思えてなりませんでした。だから、自首したくなかった。計画がうまくいくのなら、警察に捕まらずに、このままみんなと一緒にいたかった。やっと手に入れたものを、このまま手離す気にはなれなかったのです。

 洋介さんと毬子さんが来たのは、礼子が帰ってほどなくしてでした。礼子のことがどうなったのかを聞きに来たのです。わたしはことの次第を話しました。二人はむつかしい顔をして、礼子を信用することはできないと言いました。いずれ礼子の口から洩れると言うんです。自分から言わないと言うが、それを当てにはできないと。二人が考えていることがわかって、わたしはぞっとしました。礼子は子供の時からの親友です。わたしとの約束を破ることはないと言い続けました。それに対し、僕たちに共犯者は必要だが、友人は必要ないと洋介さんは答えました。しかしそれでも、礼子をどうにかするなんて、わたしには考えることもできませんでした。その時毬子さんが言ったんです――あみだで決めようって」

 血の気が引き、気が遠くなっていくのを僕は感じた。頭の中が白くなり、考えることなどできなくなっていた。あっていいはずのことではなかった。ありえないことであった。体の内側から熱いものが込み上げてきた。それはみるみるうちに僕の身体を満たし、全身を破裂させるかのようだった。わなわなと震え、こめかみがうずき、血管が脈打つのが聞こえた。

 ――あみだ?

 ――あみだだって!

 そういうことがあっていいはずがない。そういうことが許されるわけがない。事実がどうであれ、実際それがおこなわれたとしても、それは断じてあってはならないことだった。

「おまえらいったいなにをしたんだ!」

 思わず声がほとばしった。

 三人は黙って僕を見つめた。静まり返り怖ろしげでもあった。

 毬子が肩をすくめた。

「裕子さんの話した通りよ。わたしたちは、あみだをしたの。裕子さん、洋介、貝蔵氏に智子夫人、それにわたしということで、五本線を引いてそのうちの二本に×をつけたの。○なら裕子さんの言う通り、×ならわたしと洋介の言う通り。そして横線をわたしが入れ、裕子さんと洋介とに一本ずつ加えてもらった。もちろん、あみだを引くのは裕子さんよ」

 裕子は深々と息を吐いた。

「ええ、わたしが選んだんです。わたしがしたことです。五本のうちの一本、わたしが選んだそれは――×に辿り着きました」

 気が狂いそうになり、僕は立ち上がろとした。手と足がテープでくくられていることなど考えるゆとりもなかった。とにかくやめさせなくてはいけない。彼らを阻止しなくてはいけないという気持ちしかなかった。若原さんを救うには、どうしてもする必要があった。

 しかし半分も立ち上がることができずに、その場にぶざまに倒れただけだった。もう一度トライし、またしても倒れた。顔を上げ、芋虫のように肩と脚を使って這うようにしてでも僕は彼らへ近づこうとした。

 洋介が見かねたように立ち上がって、僕のそばに来ると、僕の髪の毛をつかんで頬を平手で打った。僕は首をふりまわし噛みつこうとした。髪の根が引っ張られる痛みに声を上げた。あと二、三度頬を打ってから、洋介は僕の身体を奥へと押しやった。

 畳の上に仰向けに転がされた僕は、荒く呼吸をしながら天井を見つめた。阻止するのはできなかった。そんなこと最初からできないのが当然だった。八年前の話だ。そのころ僕は焼き鳥の串をひっくり返すのに懸命だった。若原さんになにがあっているかも知らずに、鶏肉をさばいて串に刺すのにおおわらわしていた。可笑しくなって僕は笑った。声を立てて笑った。笑うと気持ちが落ち着いた。なにもできなかった僕にいまできることは、彼らの話を最後まで聞くことだった。それが僕の責任だった。

 体を起こし、僕は彼ら三人を見据えた。頬の痛みがいまになって感じられる。

「さあ、話を続けてください」

 僕の言葉に洋介が不快を示した。唇を歪め、吐くように言った。

「相棒はどうしたんだ。いつまで待たせる気だ」

「洋介さん、最後まで話させて」裕子が言った。

「どうしたんだ裕子? つらい思いをするだけじゃないか。君がいまでもそのことで苦しんでいるのは、僕が一番よく知っている」

 釈然としない洋介に、ううんと裕子は首をよこに振った。

「わたしは話さないといけないの。わたしのしたことをなにもかも知ってもらいたいの」

 なにか言い出そうとする洋介の唇に裕子は手を当てて、僕のほうを振り返った。

「最後まで聞いてもらえますね」

 僕がうなずき、裕子の手が洋介の唇から離れた。

「次の夜に、わたしたちはこの家に礼子を連れてきました。わたしが自首するつもりになり、その前にもう一度わたしが会いたがっているというのを口実に、洋介さんが車で迎えにいったんです。雨のふりしきる夜でした。雷鳴がし稲光がする荒れた夜でした。わたしはここで礼子が来るのを先に待っていました。正気でいられる自分が不思議でした。十時ごろ二人は到着し、車はここから離れた路上に止める手筈だったので、二人は歩かねばならず、傘はあったもののすっかり濡れていました。礼子は、おかしなぐらいに疑いを持っていませんでした」

 雨と雷鳴の中を、洋介に先導されて歩く若原さんの姿が浮かんだ。傘を差して雨に負けないように歩く彼女には、友人のことを気遣う思いしかなかった。

「礼子はわたしを見て微笑み、わたしは洋介さんに二人きりにして欲しいと告げました。洋介さんが表に出て、わたしと礼子は向き合って座りました。いまいるこの部屋にです」

 目の前の三人の姿が消え、僕には二人の女のシルエットが見えた。二人は互いを見つめ合っている。雨の音がし雷鳴が響くが、部屋には静けさが満ちている。

「ひどく濡れちゃったと礼子がハンカチを使い、わたしと礼子は、どちらからともなく子供の時分のころのことを話しだしていました。こういうこと、ああいうことがあったっていう他愛ない思い出話ばかりで、わたしはいつしか泣きだしていました。どうしたの、変な裕子と礼子が無理して言い、わたしは礼子にもう一度、友だちでなく共犯者になって欲しいと頼みました。是が非でも礼子を説得するつもりでした。やっと手に入れた家族の幸せを手離したくないこと、お金を受け取って欲しいことを、礼子に懸命に訴えたのです。わたしが自首するつもりがないことに礼子は気づきました。でも、やはり怒ることはありませんでした。わかったと礼子は言いました。わかったから裕子はもう悩まないで、わたしがみんなと話してみる。そう言って礼子は笑み、わたしが差し出したお金を押し返しました。礼子は友人でした。わたしの友人でした。洋介さんが彼女の頭を背後からレンチで殴りつけたのはその時でした」

 裕子は虚ろに微笑した。

「気になっていた洋介さんは、いつのまにか家の中に入っていたんです。そして話しの成り行きを陰からうかがっていたんです。話すことにばかり捉われていて、わたしと礼子はそのことに気づいていませんでした。雨音と雷鳴のせいもあったかもしれません。悲鳴を上げたわたしを、洋介さんは表に出ているよう怒鳴りつけました。わたしは言われるがままに外に飛び出しました。なにがどうなったのか、もうわかりませんでした。稲光がし、誰かを見たような気がしました。でも、それもほんとうのことかどうかわかりませんでした。そのあとのことはよく記憶にありません。洋介さんに強く引っ張られたことぐらいです。気づくと、わたしは毬子さんの部屋にいました」

「裕子は僕のせいでナオミを殺した。今度は僕が、裕子のためにする番だった。裕子を警察なんかに引き渡すわけにはいかないんだ。そんなことは断じてさせるもんか」

 洋介があらぬ方を見ながら言った。

「そう、僕が彼女を殺したんだよ。気を失っている彼女の首を絞めたのさ。言い訳はしない。僕は殺人者だ。裕子を守るにはそうするしかなかった。気がおかしくなっている裕子を毬子のマンションに預けてから、僕は遺体の処理をするためにここに戻ってきた」

「彼女の遺体をどうしたんです」

 僕は感情を抑えるのに懸命だった。

「彼女はいまもここに眠っている」洋介は親指を下に向けた。「ちょうどこの下さ」

 どうして彼女がこの家をさ迷い続けているのかすべてわかった。彼女は、八年前にこの家の床下に埋められたのだ。そして彼女は、古寺裕子でなく若原礼子だった。彼女の曖昧な記憶は正しかった。彼女はこの家で洋介に殺害されていた。そして洋介は、裕子を愛しているがゆえにそうしたのだった。

「君がスタジオに来て若原さんのことを口にした時は、さすがにびっくりしたよ。君の言い草を真似るつもりはないが、ほんとうに亡霊が甦ったように思えたものさ。若原さんのことは誰も知らないはずだった。僕たちの誰かが話しでもしない限り、彼女の存在が警察に知られることはなかった。都合のいいことに彼女のそばに身寄りはなく、勤務していた会社も倒産していたから、突然行方をくらましても、わざわざ探そうとする者も誰もいない。せいぜい引っ越しが怪しまれるぐらいだ。義母が彼女の伯母と偽って引っ越しをすませ、近所の人たちともそれっきりというわけさ。彼女の引っ越し先はちゃんと存在した。南区の日当たりのいいアパート。そこが彼女の転居先で、しばらくの間裕子の住む場所だったんだよ」

 裕子が言った。

「あなたの前では、ハワイにいる従妹の橋本涼子の名を使っていましたけど、戸籍の上ではわたしは若原礼子なのです」

 僕は唖然とした。目の前にいる女は、古寺裕子であり、橋本涼子であり、若原礼子でもあった。ブリーフケースにあったR・Wのイニシャルは、礼子・若原だったのだ。

「最初の計画では、しばらくの間偽名を使ってあちこちのホテルや旅館などを転々とし、頃合いを見計らって偽装パスポートあたりでハワイに行くつもりでしたが、礼子が亡くなったことで、わたしは若原礼子になることにしたのです。それはわたしが希望したことでした。礼子になって生きることをわたしは望んだのです。

 大分の旅館に十日ほど逗留してから、わたしは一度こちらに戻りました。その時の帰る家というのが、母が用意してくれた南区のアパートでした。警察の動向を見ながらわたしたちは行動していました。やりとりは電話だけで、それもなるべく最少にとどめるように注意していました。こちらには三日ほどいて、すぐに鹿児島のほうの旅館に行きました。近所の人には、旅行関係の情報誌のライターだということにしておき、髪を短くしてメガネをかけ、黒子はファンデーションで隠しておいたので、気づかれたり怪しまれたりすることはありませんでした。しばらくの間、そこに帰っては何処か地方へ行くという生活を繰り返しました。父が興信所を使って事件や警察のことを調べ、礼子の情報がどこにもないことを確認したうえで、ようやくわたしは礼子の名でパスポートの申請をしました。ハワイの叔母のうちにやっかいになり、整形手術を受けるためです。わたしが旅立ったあとで、アパートは引き払う手筈になっていました」

 整形手術を終えてから数年の間、ハワイと日本を往復する生活を送り、三年前ほどから、こちらに定着するようになったことを裕子は話した。

「これまでの八年間をそうやって生きてきました。死んだはずの人間が生きてきたなどというのはおかしな話です。八年の間にはいろいろありました。親友の礼子とはいえ、別な人間になるというのは、やはり苦労がいるものです。誰かに気づかれるのではという不安が絶えずつきまといます。それでも、洋介さんがいて、家族が支えてくれているということは、わたしにとってかけがいのないものでした。これが、わたしたちのしたすべてのことです」

 これまでの八年間の悲愴があらわになったように、裕子は話し終えた。

 僕は言った。

「裕子さん、いまからでも遅くない。警察にいまのことを話してください。あなたは、あなた自身に戻るべきだ」

「ゆすり屋ふぜいがえらそうにするな。口を閉ざしてろ!」

 洋介がいきり立った。

「もう長話はやめましょうよ。あなたの相棒はいつまでわたしたちを待たせるつもり」

 毬子がうんざりした声で言った。

 相棒のことを僕は忘れていた。彼らが気がついていないだけで、彼女は最初からここにずっといた。像こそ見えないが、僕にはそれがわかっていた。僕は笑った。

「相棒――そうでした相棒でしたね。彼女はずっと一緒にいまの話を聞いていたはずです」

「なにを言っている。気でもちがったのか」

「盗聴器じゃない。どこかに盗聴器が隠されているんじゃないの」

 毬子が狼狽え、洋介も顔を変えた。そんな二人の狼狽ぶりに、僕はケタケタと笑い声を上げた。

「なにが可笑しいんだ!」

 洋介が顔面を真っ赤にし、拳を握りしめて立ち上がった。

「どうして僕の話を信じてくれないんです」

 僕に詰め寄ろうとする洋介を裕子が止めた。

「洋介さん、この人が言っていることはほんとうのことよ」

 洋介と毬子が裕子をひたと見た。目が驚いたように見開かれている。

 洋介が屈み込み、裕子の両肩に手をかけた。

「裕子、心配することはなにもない。いままでみたいに、僕が君を守ってみせる」

「ちがうの。礼子がここにいるの。ここに来た時から、それをわたし感じていたのよ」

「わかった。君をここにこさせた僕が悪かった。君はやはりここに来るべきじゃなかったんだ」

「ううん、わたしが無理に頼んだんですもの。わたしは、もしかしたらと思っていたの。幽霊はいるんじゃないかって。そしているとしたら、それは礼子の霊だって。彼女ほんとうにいたのよ。礼子は、わたしが来るのをずっとここで待っていたの」

「裕子さんやめてよ。そんな気持ちの悪い話。なんか怖くなっちゃうじゃない」

 毬子が自分の身体を両腕で抱きしめ、そわそわと部屋を見まわした。

「礼子いるんでしょう?」

 裕子が呼びかけた。

「古寺裕子になって、わたしをここで待っていたんでしょう。返事をして礼子。わたしはあなたに謝らなくちゃいけない。わたしがあなたになって、あなたがわたしになるなんて、わたしとあなたは、やはりどこかでつながっているのね。この八年間ずっとそうだったのよね。わたしとあなたは、ずっと一緒だった。礼子、お願い返事をして。いまわたしには、あなたがどれほど大切な友人だったかがわかるの。八年前に戻りたい。礼子が礼子で、わたしがわたしの時に。あなたはわたしの親友。かけがいのない親友。それなのにわたしは、わたしは……」裕子は瞼をぎゅっと閉じ、まつ毛の下から涙が流れた。「ごめんね礼子、ごめんね」

 家の中から、せきを切ったかのように、風がむせび泣く声が響き渡った。柱が軋んだ音をたて、天井の蛍光灯がチカチカと瞬いた。

 毬子が悲鳴を上げ、洋介は顔をこわばらせた。

 家全体が振動し、壁に襖に窓に家具が震えた。家が泣いていた。身を震わせて泣き叫んでいた。親友を殺してその親友になった女と、親友に殺されその親友になってしまった幽霊がいた。八年後のいまその二人が再会し、元の自分たちに戻ろうとしていた。

「きさまなにをした!」

 洋介がいまにも僕に飛びかかろうとし、女の狂笑とも泣き声ともとれる音が家の端から端へと流れた。洋介の動きがぴたりと止まった。耳をそばだて、真剣な目であたりをうかがった。その顔つきが困惑したような奇妙なものに変わった。僕の背後を一心にじっと見つめたまま、口が開いていった。

 首を動かすと、白い霧の塊みたいなものが、ちょうど僕の真後ろから彼らへ向かって行くとこだった。それは白く長い尾を引きながら、彼らのもとへと近づいた。

 洋介は愕然としてその場に膝をつき、震えながら座り込んでいた毬子は、両手と尻であとずさった。裕子だけが、彫像のように静かだった。

<見ないで!>

 容赦のない言葉が僕の頭を直撃した。

 白い塊が、ちらっと僕の方を向いたように思われた。塊の先に人の顔みたいなものがあった。ほんの一瞬で、僕は急いで瞼を閉じた。なにを見たのかはわからなかったが、それは明らかに見ないほうがいいものであった。

 怖れ争うような音が聞こえ、洋介の罵声と毬子の叫びが響き渡った。追いつめられた者の声だった。臓腑の底からくる恐怖というものを僕は初めて感じた。怖ろしさにどうしようもなく身体が震える。歯がカチカチ鳴る。耳を塞ぎたかったが、縛られているためどうにもならない。哄笑が続けて聞こえ、悲痛な呻きが湧き上がり、そのあとに静粛が訪れた。雨の音のみがあたりを支配した。

 僕はそっと目を見開いた。三人が畳の上に倒れていた。そして、その三人を見下ろすようにして女がひとり宙に浮いていた。膝から下が、ぼうっとした白く長い尾になっていて、その数メートルはある尾が、うねるように円と曲線を描いて六畳の部屋全体に漂っていた。うなだれ、黒髪が前に被さっているため女の顔はわからなかったが、見られていることに気づいたのか、女の姿はふっとかき消えた。彼女の異形の姿を覗き見したような、ばつの悪い思いがした。

 僕はあらためて三人に目をやった。洋介が手足を伸ばしきって仰向けで中央に位置し、その右隣で、毬子が胎児のように丸まっていた。洋介の口はだらしなく開き、そこから涎がこぼれていた。毬子のパンツの股間が濡れていて、失禁しているのがわかった。その二人から少し離れて裕子の姿があった。横座りのまま気を失ったような倒れ方で、顔が下になっていた。

 窓枠のそばの柱を利用して、僕は足の裏に力を入れて立ち上がった。縛られた両手を柱にぶつけ、その反動で徐々に膝を伸ばしていく方法だった。両足で跳ねながら、玄関口の電話機のそばまでいった。口と顎で受話器をはずし、筆立てのボールペンを口にくわえて、一一九をプッシュした。垂れ下がった受話器の送話口に、上半身を折り曲げて唇をよせ、住所と名前を三度告げた。相手の反応を聞くことはできなかったが、たぶん通じただろう。

<お願い、裕子を助けて!>彼女の取り乱した声が頭にした。

<どうしたの>頭で聞き返す。

<いまのわたしにはできない。あなたならやれるからお願い。裕子を助けて。早く! 急いで!>

 切迫したようすに、僕は両足で跳ねて六畳の部屋に入った。裕子の姿がなく、四畳半の部屋の窓が開けっ放しになっていて、そこから雨がふり込んでいるのが目に入った。

 窓辺にいき外を見ると、暗い中を人影が井戸へと進んでいた。僕は、雨のふる表に飛び出した。ジャンプをしながら、裕子へと近づいた。泥がはね、顔じゅうに雨があたる。間に合った。重しの石に裕子は手こずっていた。

 僕は身体を裕子にぶつけた。裕子が倒れ、バランスを崩しそうになった僕は、井戸の縁でなんとか体勢をたもつことができた。そのまま井戸の蓋の上に体をのせ、僕は裕子を見つめた。雨粒が目にも鼻にも口に入ってくる。僕は頭を振った。滴が飛び散る。両手首を動かし拘束を解こうとするがうまくいかない。

 裕子が立ち上がり、僕に襲いかかってきた。体を捻じり裕子の手を避けると、縛られた両足で裕子の腰を力まかせに蹴りつけた。裕子は一回転し、背中からぬかるんだ地面に倒れた。上半身を起こし、泥をつかみ僕の方へ投げつけた。二人ともぐしょ濡れで、いやになるほど汚れていた。

「わたしにかまわないで! 死ぬんだから!」

 地面に手をついて裕子が叫んだ。頭上から雨がふり注いでいる。

「あのさ、かったくるしいことやめようや」僕は、さも面倒くさそうに言った。「死ぬの生きるのなんて、ドラマじゃないんだし、だいの大人のすることじゃないよ。雨んなかで二人してさ、馬鹿みたいじゃん」

「あなたになにがわかるっていうの」

 始末が悪い。自分のことしか頭にない。

「じゃあ、あんたになにがわかっているというんだよ」

 金切り声を上げて、裕子がつかみかかってくる。僕は足を使って、そんな裕子に抵抗する。暴力あるのみだった。テレビなんかだと、感動的な、相手の心を揺り動かすセリフなどが入るとこだが、そんな悠長はない。体と体のぶつかり合い、どちらかが疲れ果てるまでだ。裕子が僕の足を捕え、僕を井戸の上から引きずりおろした。僕はぬかるみと化した地面に転がり落ち、したたかに右腕を打ちつけた。わざと大きな声を張り上げる。裕子が反射的に僕のようすを見、すかさず腰から下を捻って、裕子の両脚をはらってやった。裕子が僕の上に重なるようにして倒れ込み、僕と裕子の身体がからみあった。二人とも泥だらけだった。右側を力まかせに持ち上げ、上の裕子の身体をひっくり返すと、僕は裕子に覆いかぶさり、体の重みで押さえつけた。裕子はもがいて抜け出そうとした。裕子の顔がほんの左横にある。

「いいか、よく聞け!」

 雨音に負けないように僕は怒鳴った。

「あんたを死なせるわけにはいかないんだ。生きてて欲しいんだ。古寺裕子は生きていた。なら、そのまま生きろよ。若原さんは、もう死んだんだぞ。俺にはあんたしかいないんだ」

 本音だった。若原さんを死なせたうえ、裕子まで死なせるわけにはいかなかった。これは僕の問題だった。僕にとっても裕子は大切な存在だった。若原さんは古寺裕子の幽霊として僕の前に現われた。そして僕は、古寺裕子として彼女と接した。僕には僕なりの裕子に対する思いがあった。若原さんの一番の親友が裕子であるのと同じように、裕子は、僕にとっても大切な人であった。

 裕子は首を左右に振り僕の頭を叩きだした。そして僕を押しのけようとする。

「俺だけじゃない。若原さんもだ。彼女もあんたに生きてて欲しいと思っている。彼女はいまでもあんたの親友なんだよ。あんたのことを心配しているんだ」

 裕子は僕の頭を叩くのをやめ、声を上げて泣きだした。僕の下で、子供のように泣きだした。雨で涙がつぎつぎと流されていく。それでも裕子は泣き続けた。すべてを流し、元に戻すように雨はふり続けた。裕子の両腕が僕の背にまわり、彼女は僕にしがみついてきた。ほんとうに子供だった。僕は泣きじゃくる裕子の耳元で息をついた。声をかけてやりたいが、喉がぜいぜい鳴るだけだった。

 救急車のサイレンの音が聞こえた。ようやくだ。幽霊と関わったりしたらろくなことはない。生気を吸い取られ、こんな大乱闘までやらされたんじゃ割が合わない。

 ふりしきる雨の中、僕もそろそろ限界だった。 

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