事件5~6
5
翌日、午前中に近くの写真屋に使い捨てカメラを出しに行った。どうせ訪ねるのなら、写真を見せたほうがいいと思った。そちらのほうが説得力があるだろう。
帰ってくると、脇道に入るあたりに見慣れた車が止めてあり、不動産屋の親父が玄関で僕を待っていた。
「あんたなにしているんだい」親父は困った顔で言った。「昨日古寺さんから電話があって、いろいろあんたのこと聞かれたよ。なんでも、スタジオに押しかけたらしいじゃないの」
洋介がどうやって僕の電話番号を知ったのかわかった。親父が教えたのに相違ない。
「押しかけたはひどいですよ。訪ねただけです。よかったらあがりませんか」
鍵を開け、僕は親父を六畳の部屋に通した。
座布団がないことを断り、珈琲かお茶かと尋ねた。玄米茶を湯呑に注いで親父に出した。
「で、どうなっているんだい」一口飲んで親父が言った。
「べつにたいしたことは。亡くなった奥さんのことを教えてくれないかって訪ねただけです」
「それが問題なの」親父がギロリと目を向けた。「借家人が大家のプライバシーに嘴を入れることはないだろう」
「でも、僕のプライバシーは、あちらの奥さんに侵害されているんですよ」
親父は左手で耳の下を掻いた。
「やっぱ出るんだってね。古寺さんに聞いたよ。あんたがそう言ってたって。で、いつ引っ越すの?」
僕はケタケタ笑った。親父が目を剥き、頬髭が引き攣った。
「勘違いしていません。そんなつもりはありませんよ」
「あんた、少し気が変になってきていることはない」
親父が僕の顔を下から覗き込んだ。
「いやだな。そんなことはないですよ。幽霊が見えるようになっただけです」
そう言って唇の左端を持ち上げてみせた。
親父がうす気味悪そうにする。
「じつは、いまも見えているんですよね」
目線を親父の背後に向けた。もちろん、そこに彼女がいるわけではない。おとなしく姿を消しているみたいだった。それでも、彼女が様子をうかがっている気配がありありと感じられた。見えざるとも、それがわかるぐらいまでに僕の霊感とやらは進化を遂げていた。
「そういうのはやめてくれないかい」
親父は居ずらそうに身をもじもじさせた。
「いや、ほんとうにいるんですよ。血みどろの恨めしそうな顔で、髪なんか、こうざんばらで、ひどいやら怖ろしいやらで」
目をつむって首を縮込める親父に僕は言った。
「少し教えてくれませんか」
「なにをだい。あたしゃなにも知らないよ」
「古寺さんのことをですよ。あそこはどういうご家庭なんですか」
「だから、あたしゃなにも知らないって」
わざとらしく、親父の背後に目をやる。
「幽霊に恨まれてもいいんですか」
親父は首をぶるっと横に振った。
「でしょう。それなら協力してくださいよ。洋介さんのことについて知っていることを話してくれませんか」
「あんたもしつこいね。なにを話せばいいんだい」
「洋介さんのことならなんでも。知っていることならなんでも」
「そうだね。どこから話したもんかな。――洋介さんは元は松宮という姓で婿入りして古寺になったんだよ。この家はその洋介さんの両親が建てたもので、ご両親は洋介さんが専門学校在学中に交通事故で二人とも亡くなられた。居眠り運転の車に、もろに正面から衝突されたというからひどいもんだ。ま、それはおいとくとして、洋介さんには六つ上の兄貴がいて、そのころ東京で職についていて家庭を持っていたもんだから、洋介さんがこの家を引き取ったんだね。他にも生命保険やら貯金などの遺産があって、それをどう分配したかまでは知らないけど、洋介さんも無事学校を卒業すると、写真スタジオのアシスタントとして東京に就職が決まり、この家を貸家にしたわけだよ。手放す気はなかったね。子供ん時からの家だし、いずれこちらに帰ってくるつもりだったみたいだから。そして三年後にこっちに戻ってきたんだけど、この家に借家人がいたこともあって、大橋にアパートを借りてフリーカメラマンとしてやり始めた。最初はかなり苦労していたみたいだったけど、東京のお客さんからの紹介なんかで、少しずつ伸びていったんだよ。あの人は誠実で人柄もいいから。しかし急速に事業が発展したのは、やはり裕子さんと結婚してからだね」
「というと」僕は合いの手を入れた。
「古寺貝蔵氏は知っているかい」
僕が首を振ると、親父は茶を飲んでから話を再開した。
「貝蔵氏というのは裕子さんの父親で、外食チェーン店で成功している人物さ。あんたも知っているだろう」
親父は地元ではよく耳にするファミリーレストランや居酒屋の名をあげた。
「あれのオーナーが貝蔵氏なのさ。そしてそのひとり娘が裕子さんというわけだよ。洋介さんと裕子さんが知り合ったのは仕事がらみで、貝蔵氏の会社の宣伝部にいた裕子さんが、メニューの撮影をするのに、デザイナーから洋介さんを紹介してもらったのが最初だと聞いている。そんなことから知り合い、二人は恋仲に発展したわけさ」
「逆玉ですね」
「そうなるね。ただ貝蔵氏は最初二人の結婚については大反対だったらしい。婿養子を取っていずれはあとを継いでもらおうと思っていたのに、洋介さんのほうにそんな気はなく、あくまで写真をやっていくつもりだったからね。それでも、裕子さんの熱意にほだされて、洋介さんが婿養子になること、二人の間に子供ができたら、その子にあとを継がせることで承諾したらしい。洋介さんのほうも兄貴がいるから婿養子には問題がなかったし、裕子さんに惚れていたので、二人は愛でたくゴールインしたわけだよ。そしてそういう有力者を義父にしたことによって、洋介さんんもスタジオを構えるまでに成長できたのさ」
「羨ましいサクセスストーリーですね」
「いや、そう簡単ではないらしいよ。洋介さん自身は、人からそう言われるのを嫌っているし、貝蔵氏とはいろいろあったみたいだよ」
「嫁姑でなく婿舅みたいなもんですか」
「まあそういうもんだね。結婚祝いとかで貝蔵氏が近くに家を建てたんだけど、洋介さんはその家に住むことを嫌ってね。住む住まないでもめて、けっきょくは、せっかくの義父の好意だし年寄りの顔を少しは立てるものだというところで収まったらしい。それに貝蔵氏のおかげで財政界の人たちとのつながりができ有益な仕事が増えたのは事実だけど、資金的な援助などを洋介さんが一切断っているのも事実だよ」
洋介の気持ちが多少はわかる気がした。
「それで愛人ができたりしたわけですか」
「事件のことは、ほんとうによく知らないんだよ。この前話した程度さ」
「でも、その愛人が事件の第一容疑者でしたよね。貝蔵氏と洋介さんの確執は凄まじいものになったでしょう。なにしろひとり娘がその女に殺されたんですから」
「と思うだろう。ところが世の中の面白いとこはそこで、逆なんだよ。裕子さんが殺されて、かえって貝蔵氏と洋介さんの仲はよくなったみたいなのさ。なんていうか、お互いに大事なものを失った者同士というのかね。相手のことを気遣うようになったらしいよ。いまでは洋介さんのことを、貝蔵氏は実の息子みたいに思っているらしい。末は洋介さんに、自分の息子として再婚してもらうのが夢だそうだ。雨ふって地固まるというか、ある意味で美談だね」
親父はそう言って茶をすすった。
「なんのかんの言ってよくご存じじゃないですか」
「いや、あくまで聞いただけ。ほとんど洋介さんからの受け売りだから。第一あたしは、貝蔵氏や裕子さんと会ったこともない」
親父が髭面を僕のほうに向けた。
「それであんた、こういうことを聞いてまわってどうするつもりなんだい」
「お祓いみたいなもんですよ」
「お祓いって、エクソシストでもしようっていうの」
「悪魔祓いじゃなくて幽霊祓いですけど、ま、そんなもんです」
そのあと僕は親父に、遺体が両腕を切断されていたことを言ってみた。そうだったっけ、それにむごい話は嫌いなんだよ、という返事だった。どうやら、忘れていたのが半分で、言いたくなかったのが半分みたいだった。
くれぐれもトラブルだけは起こさないようにと言いおいて、親父は腰をあげた。そして、帰り際に親父が僕を見て言った。
「あんた、顔色悪くないかい。なんか前より生っちろくなっているんじゃないの」
ほんとうに心配そうだった。
「こう見えて、美白に気を遣っているんですよ」
僕は笑い飛ばしてみせた。
6
親父が家を出ると、さっそく彼女が現れた。
「どうだった。いまの聞いていたんだろう」
彼女はうなずいた。両手を胸の前でぶらぶらさせ、首を人形のように振って言う。
<血みどろの恨めしそうな顔で、髪はざんばらで、ひどいやら怖ろしいやらで。それってあんまりじゃない>
「わりぃ、わりぃ。ちょっと脅かす必要があったからじゃないか。それよりなにか思い出さないかい」
彼女は息を吐いた。そういうふうに見えた。
<話はわかったけど、思い出すことはないわ。どうやらわたし、お金持ちのお嬢様だったみたいね>
「それではまるで僕と同じだ。とりあえず話がわかっただけだ」
<そういえば>彼女の声が高くなった。
「なにか気づいたのかい」僕も鼻息が荒くなる。
<幽霊祓いとかも言ってたわ。そんなにわたし邪魔>
この世で最も始末が悪いのは、核兵器でもなく幽霊でもなければ、女じゃないかとさえ思えてくる。
「悪かったよ。言いすぎた。僕が悪かった」
彼女が目を伏せ小声で問う。
<体のほうはいいの?>
どうやら気にしていたようだ。
僕は右手で左手首を持ち、親指で動脈を探った。指の腹を押し返す手応えがある。そのまま腕をぐいと彼女に差し出した。
「ちゃんと打っている」
――その後、ワープロにこれまでのことを記録したり、今夜のことをずっと考えたりした。壁の、ポスター利用のホワイトボードをじっと見たりもした。
四時を過ぎたころになって背広とネクタイに着替え、写真の仕上がりを取りにいくため早めに家を出た。
自転車を押しながら脇道から往来に出ると、男が通りがかった。二十五、六の大男だ。角刈りの頭と顔に幼さが残り、筋肉が盛り上がっているさまが服地の上からでもよくわかる。男は僕が脇道からなのを見ると、感嘆したような声を上げた。
「もしかして、あの家に住んでいる人ですか」
目を丸くして、僕のことを見つめてくる。
知らない男に声をかけられ、戸惑いながらも僕はそうだと答えた。
「いやあ、たいしたもんですね」
男は白い歯並びを見せて破顔すると、会釈してそのまま僕の前を通りすぎていった。
ほんのすれ違い程度であったが、僕は目をしばたたいた。いきなり声をかけて去っていく男のうしろ姿は不思議なものに映った。狐にでもばかされたような気すらした。近所の住人みたいだったが、幽霊の家に住む男として、知らぬうちに僕は有名になりつつあるのかもしれなかった。
古寺貝蔵の邸宅に着いたのは、約束より十五分ほど前だった。鋲の打ちつけてある門の脇にインターホーンがあり、そこで名前と用向きを伝えた。機械音がし、門が真ん中から内側へと開いた。この手の門で自動式のは初めてお目にかかった。
玉砂利を敷いた道が現れ、僕は邸内に入った。左手に垣根があり、池のある庭が広がっている。あちこで常夜灯が点いているが、午後六時の夕方の光の中ではまだぼんやりとしていた。石灯籠があり、大きな庭石がある。いまにも鹿威しのカーンという音色が聞こえてきそうだったが、それはなかった。右を見ると、樹木が林立した奥に離れと思われる家屋があった。茶室やらとかかもしれない。
垣根の横に自転車を止め道を先に進んだ。間口の広い玄関が見え、そこに女がひとり佇んでいた。玄関前の石段を上がり女に近づいた。
「お待ちしていました」
そういって女は引き戸を開け、僕を中に通した。
僕と同年配に見える女だった。直毛のショートヘアーで、Vネックの水色のニットとパンツをスマートに着こなしていた。黒縁のメガネをかけ、それがやや不釣り合いな印象がした。動作に、茶道や華道に慣れ親しんだ者の品位があった。
女が揃えてくれたスリッパを履き、玄関を入ってすぐの左手の部屋に通された。フローリングの床で広さは十畳ほどあった。中央にテーブルがあり、それを揃いのL字型のソファが囲んでいた。
「どうぞお座りになってお待ちください」
僕をひとり残して女が扉を閉めた。
座れって、どこに座ればいいんだ。そう問い返したい心境だった。場違いもいいとこだった。金持ちの屋敷に運悪く迷い込んだ気がしている。緊張し、落ち着かない。汗で両腋が濡れている。こういう時、礼儀としてどこに座るのか決まりみたいなものがあるのは知っていたが、それがどの位置なのかがわからない。しかしこのまま、電柱のように立っているというのもどうかと思う。扉に背を向ける形で、ソファの真ん中あたりに腰をおろした。礼儀にかなっているかはどうであれ、そこが一番落ちつけそうだった。
部屋を見まわした。左は窓で、たぶん庭の眺望が楽しめるのだろうが、いまは襞のたっぷりしたベージュのカーテンが閉じられている。右はグランドファーザー型の大時計と扉が二つあるだけで、正面の壁に大きな油絵がかけられていた。
絵には夕暮れの海岸が描かれていた。波頭の白さが一際目立ち、空が朱色に染まりつつあるのがグラッデーションになっていて雲がたなびいている。右側の岩場にぽつんと、背中を向けた赤い服の女が点景していた。その赤が画面を引き締めていた。具象だが、どこか幻想画のような雰囲気をたたえている。女が、いまにもこちらを振り返りそうな気がしてくる。そしてなにかを言おうとする。女がゆっくりと振り返った。女の顔を見て僕は驚く。意外な人物だった。女は、二人で一人、一人で二人――。奇妙な空想に僕は頭を振った。たぶん名のある人の筆による絵なのだろうけど、僕にはわからなかった。
上を見ると小ぶりのシャンデリアが二つ天井から吊るされ、あとエアコンが設置されていた。夏場なんか電気代だけでも相当なものだろうなと、貧乏人らしいことを考えた。対外的なことに使われる応接間なのだろうが、よそよそしい部屋である。僕の借家が無性に慕わしく思えた。ボロでも狭くても、幽霊がいても、あの家のほうが僕は好きだった。
扉が開く音がし、さきほどの女がお茶を運んできた。湯呑と和菓子ののった皿を置いて頭を下げて出て行った。湯呑には蓋と受け皿が、和菓子には紙袋に入った楊枝が添えてあった。