第一章 7
「――カリエ、下がってて!」
心臓がうるさく鳴り響き、カリエはごくりと唾を飲み込んだ。
激しく揺れる茂みを凝視する二人の前に、それは現れた。
『――クウーン?』
飛び出してきて可愛らしい鳴き声を上げるのは、犬のような獣で。
茶色の長い毛はふわふわと風に靡き、つぶらな瞳がグエルダを見つめている。
「え……?」
カリエの口から呆けた声が漏れた。
大きな獣は、此方へと一直線に走ってきた。
素早く地を蹴りあげ、身軽に宙へ飛び上がる。
「――うきゃあッ!?」
「……え、えぇ?」
カリエが急いで横に逃げると同時、反応鈍く見上げていたグエルダへと獣は突撃した。
「ぁ、ちょ……わあぁぁぁッ!!!」
どさりと倒れたグエルダの上、獣は尻尾を楽しそうにブンブンと振りまくる。
カリエは恐る恐る近づき、そおっと獣を観察してみる。
「ただの犬、じゃないよね」
『わふわふ 』
その獣は大型犬と同じ姿をしているが、口からは鋭い牙が覗き、爪も鋭く尖っていた。
潤んだ金色の瞳でグエルダを見ている姿を見るに、どうやら凶暴な獣ではないようで。
警戒を解いて安堵の息を吐き、カリエはしゃがみこんだ。
下に潰されたグエルダは、両手で獣を押し上げようと踏ん張り頑張っている。
「グエルダ……大丈夫、じゃないよね」
「この獣、結構重い、んだ」
グエルダは苦しげに呟き、流石に疲れたのか腕を下ろした。
顔を擦り寄せる獣を指差して困った顔を浮かべる。
「あのさカリエ、この獣退かしてくれる?」
「えぇー、私が?」
「このままじゃずっと街に行けないけど、いいのかな? 俺は別にいいんだけどさ?」
「むう……それは嫌だし、しょうがないなぁ。グエルダを助けてあげます。借りだからね」
「カリエさん、先程のお話は何処へ?」
「それはそれ。これはこれ」
カリエは腕を伸ばし、尻尾を振り続ける獣に触れた。
あ、もふもふ気持ちいい。一瞬撫でくり回したくなったが、なんとか気持ちを落ち着かせる。
胴の大きな獣を両手でなんとか掴むと、思いっきり引っ張った。
「ぐ、ふぬぬッ!!」
「カリエ……顔が怖いよ」
「ぐぬぬぬ!? い、い、か、ら、グエルダは黙っててッ!!」
しかし、いくら全力で引っ張っても獣はまったく動じない。どころか獣も全力で反抗していた。
「ぐうぅ、本当に重いよ腕が抜けちゃう!」
『 グルル! ガウッ!! 』
突然、苛立ったのか獣はカリエに向かって牙を剥いた。
小さく悲鳴をあげて後ずさると、グエルダは目を見開いた。
「どうしたの!? 大丈夫?」
「う、うん。噛まれてはないから平気」
カリエが離れた後、獣は再度グエルダに潤んだ瞳を向けた。
その姿に、カリエは口をへの字に曲げる。この差は一体なんなのか。
「グエルダ、まさかこの獣とは知り合いじゃないよね?」
「勿論、初めて見たし初めて会ったと思うけど……。もしかして、カリエこの獣に嫌われてるんじゃ――」
「うるさい」
怒りを込めて地面を強く踏みつけると、グエルダは身を竦めて獣の影に隠れた。
「す、スミマセン」
『 グルルルル 』
獣はグエルダを虐めたと思ったのか、不満げにカリエを見て唸り声をあげた。
「もうーッ!! いい加減グエルダから退いてってば! 私達は用事があるの!」
『ガウガウッ』
抵抗する獣とカリエは、ジッと火花を散らして睨み合う。
しばらくのやり取りの後、カリエは手を離して荒く息を吐き出した。
「はぁはぁ……駄目、全然動かない」
『わふ 』
そんなカリエに、獣は満足気な顔を向けた。拳を握りしめて獣を睨みつける。
「くう~ッ!! いちいち気に触る獣ね!」
『わふぅ?』
と、突然獣は鼻をひくつかせ、丸っこい瞳で辺りを見回しだした。
「ん、なに?」
カリエはその姿に首を傾げる。
その時、木々の影から青髪の若い女性が現れた。露出度の高い服を身に付けた女性は、くびれた腰に手を当てて獣を見据えた。
驚きに目を見開くカリエとグエルダを一瞥し、女性は獣に向かって口を開く。
「――サリィ。今すぐその人から退きなさい」
『 クーン…… 』
サリィと呼ばれた獣はぴくりと身を揺らし、耳を垂らしてグエルダから離れた。
しょんぼりと獣は女性の側に向かう。
「グエルダ、大丈夫?」
「な、なんとかね」
カリエはグエルダを助け起こし、警戒心を込めて女性を眺める。
土を払い落とし、グエルダも眉間に皺を寄せて女性を見つめた。
女性は無言で切れ長の瞳でジロジロと二人を交互に見てくる。カリエは唇を噛み締めた。
先程グエルダとの話を思い出す。
こんな森で、しかも偶然にもさっきの出来事の後に現れた女性はあまりにも怪しかった。
女性は自分達と殆ど変わらない年齢に見えるし、グエルダの言っていたような悪意は見当たらないけれど……。
「あの、貴女は一体……?」
緊迫した空気の中で、意を決してカリエは唾を飲み込み問うた。
すると一瞬の間を開けて、女性はふわりと満面の笑みを顔に浮かべた。
「いやはや、本当にごめんなさいねぇ~。ウチの子が迷惑かけちゃってさ!」
まったく、と言いながら女性は獣を軽く叩いた。垂れた耳がさらに落ち込む。
女性のその笑顔はあまりにも優しげで明るく、思わず拍子抜けしてしまう。
「あ、いえ……大丈夫です、けど」
「本っ当にごめんなさいね? ちゃんとサリィには言い聞かせるわ」
明るく笑う女性の姿に、緊張の糸を張っていたカリエとグエルダは脱力した。
無意識に止めていた息を吐き出す二人に、人の良い笑顔を浮かべた女性は首を傾げる。
「あらら、そんなに驚かしちゃった? あぁ、それとももしかしてーー」
にやりと笑い、口元に手を当てた。
「二人がイチャイチャしてたのを邪魔しちゃったのかしら? もう、サリィったら!! 駄目よ〜?」
『わふわふ 』
ケラケラと高らかに笑い声を上げる女性に、カリエは顔を一気に朱に染め上げた。
「ば、ばばば、バカな事言わないでください!! 断じて違います! なんでそうなるの!?」
「えー、違うの? 照れなくてもいいのに可愛いわね」
「ち、ちが……ッ」
「あはは、本当に違いますよ。俺とカリエとは友達だし、幼馴染ですから」
カリエが恥ずかしさで全力で否定する隣で、グエルダは普通に平然と応えた。
えぇ、よーく分かってましたとも。グエルダが鈍いってことぐらい。
ふ、と口元を歪めて笑うと、女性は苦笑して親指を立てた。
「ファイトよ!」
「ふふふふ……あぁ、ありがとうございます」
小声の応援にどんよりと虚ろに応える。と、グエルダが横から顔を覗きこんできた。
「カリエどうしたの? さっきから赤くなったり暗くなったり」
「うん、馬鹿グエルは黙っててくれる? 私は怒ってます」
「なんで!? 何かした?」
驚きに叫ぶグエルダを、キッと睨みつけた。
「グエルダが阿呆だから。自分でそのくらい分からないのかな!?」
「だからなにが? ていうか、俺はカリエより勉強出来るし、はっきり言うとカリエの方が頭悪い――」
「そーゆう話をしてんじゃないのよッ!!」
「え……違うの? じゃあどういうこと?」
「もうやだ。だからグエルダは馬鹿グエルなの!!」
カリエはがしりと肩を掴み、グエルダを激しく揺する。
「ちょ、か、カリエ……死ぬぅ」
がくがくと頭を揺すられるグエルダに、女性はお腹を抱えて噴き出した。
「ぷッ! あはははは! ちょっと貴方達最高! 面白すぎるわ!」
「面白くありません!」
ひーひーと笑い続ける女性に、カリエはムスリと叫ぶ。
「ふふ、ご、ごめんなさいね……くふ」
ようやく落ち着いたのか、乱れた呼吸を整えて口を開いた。
「ねぇねぇ、実は貴女達にちょっと聞きたいんだけれど」
「ん、なんですか?」
力尽きて目を回すグエルダから手を離し、カリエは女性の方を向いた。
「貴方達ってルーム村から来たのよね?」
「そうですが……なにか?」
「やっぱり。じゃあこれから街に行くの? それとも帰宅途中?」
「いえ……行く途中です」
カリエが質問に不審そうに答えると、女性は顎に手を当てて目を閉じた。
チラリと辺りを見回し、女性は大きく頷く。
「よし! ならウチも一緒に街まで行くわ」
にこにこと言う女性に、カリエははぁッ!?と叫んだ。
「な、なんで!? どうしてそういう答えになるんですか!」
「なんでって実はウチ、街に住んでるのよ。それで、貴方達も街に用事があるから今から行くんでしょう?
目的地は同じなんだからいいじゃない。別に取って食ったりはしないわ」
「う、まあ確かにそうだけど……。ねぇ、グエルダはどう思う?」
口を尖らして小声で聞くと、目を回していたグエルダは女性を横目に肩を竦めた。
「別にいいんじゃないかな。一応悪い人には見えないし、視線の主とは違いそうだし……それに街なら下手なことは出来ないだろうしね」
「成る程ね」
カリエは少し頬を膨らませ、女性に向かって頷いた。
「別にいいですよ。まぁ、街に行くまでですけど!」
カリエが釘を指すと女性は首を縦に振る。
「分かったわ。んじゃあ決まりね!」
女性は手を叩き、己を指差した。
「そういえば自己紹介まだだったわね。ウチはターシャ、ターシャ・ロディアスっていうの。よろしくお願いね」
握手を求められ、カリエは渋々握り返す。グエルダも後に続いた。
「私はカリエ・リーナです。短い間だけどよろしく……です」
「グエルダ・ソルグです。よろしくお願いします」
「うん? あれ、グエルダ・ソルグ……?」
「えっと、俺のことを知ってるんですか?」
「あ、ううん! 聞いたことあるような気がしただけ。二人はカリエにグエルダって言うのね。
あ、この子はサリィって名前よ。この子はウチの大切な家族なの」
『 わふ!』
同意するように吠え、サリィはグエルダに潤んだ瞳を向けた。
ターシャは苦く笑い、頭を掻く。
「いつもは知らない人になつかないのに珍しいわねぇ。きっとグエルダが好きなのね、サリィは雌だから」
「な、なに言ってるの!? 駄目だよ駄目!!」
「うふふ、ちょっとした冗談よ。サリィがグエルダを好きなのは事実だけど」
慌てて叫ぶカリエに、ターシャはひらひらと手をふる。
横でその様子を見ていたグエルダは、ふと浮かんだ疑問を口にした。
「あの、ところで貴女は此処で何してたんですか?」
「え、ウチ? えーとね、まぁ色々と。あはははー」
不自然に顔を反らすターシャに、グエルダは緩みかけていた表情をすっと硬くした。
「まさか、ルーナ村から来たわけじゃないですよね?」
「いいえ、村には行ってないわ。ウチが用事あったのは森だもの」
「本当ですか?」
「ええ。本当よ」
真剣な表情を浮かべるターシャの目を数秒見つめ、グエルダは息を吐いた。
「ならいいんです。疑ってすみません」
「……もしかして、何かあったの?」
首を傾げて問うターシャに、グエルダはかぶりを振った。
「いえ、何でもないです。ね、カリエ」
「あ、うん。何でもないかな。今のところは」
「カリエ」
「……ぁ」
カリエが視線を反らすと、ターシャはスッと目を細めた。
「ふーん、まぁいいけどね。秘密ぐらいあるだろうし。ていうか……」
ずびしとグエルダとカリエを指差し、ターシャは腰に手を当てる。