第2話『帰還』
地上へ戻るまでの道中、誰も黒崎に話しかけられなかった。
第十三階層から第十階層までの撤退は、本来なら命懸けだ。
負傷者を抱えた状態ならなおさらで、わずかな判断ミスが全滅に直結する。
だがその日、その危険はひどく遠いものに感じられた。
理由は単純だった。
先頭を歩く男が、あまりにも圧倒的な強さで道を切り開いていったからだ。
魔物が現れる前に立ち止まり、角を曲がる前に刃の位置をわずかに変え、音もなく踏み込んで首を落とす。
曲がり角の陰で待ち伏せていた個体すら、こちらが視認する前に仕留めてしまう。
まるで、最初から全部そこにいると知っているみたいだった。
澪は重傷者の片腕を肩に回しながら、その背を見ていた。
広くもない通路の中で、黒崎の背中は決して大きく見えない。
むしろ、装備のボロさも相まって頼りなくすら見える。
だが一度その戦いを見てしまえば、誰もそんな印象を口にはできなかった。
この男が前にいる限り、死なない。
理屈ではなく、そう思わされる何かがあった。
「……雨宮」
隣から、小さく声が飛ぶ。
《グレイヴ》のリーダー、長谷部だった。
顔色は悪いままだが、どうにか意識は保っている。
「はい」
「お前、さっきの……見たか」
「……見ました」
「見間違いじゃ、ないよな」
「たぶん」
たぶん、という返ししかできなかった。
見間違いであってほしかった、という気持ちも少しだけある。
自分たちが総力を尽くしても勝てなかった変異種を、あの男はほんの数回の斬り合いで解体した。
あれを認めてしまえば、自分たちが立っている土台そのものが揺らぐ。
長谷部は乾いた唇を舐めた。
「黒崎蓮司……って、あの黒崎だと思うか」
「訓練校の資料室に、名前がありましたけど……」
「俺も見たことがある。初期攻略班の映像だ。十年以上前の……」
「でも」
澪はそこで言葉を切る。
でも、その人は死んだはずだ。
誰もが知る結論を、口にするのが妙に怖かった。
先頭を行く黒崎は、そんな会話など耳に入っていないみたいに歩いている。
あるいは、聞こえていても気にしていないのかもしれない。
第九階層へ上がる転移陣が見えたところで、全員の肩からわずかに力が抜けた。
緊急時用の青白い光が石畳の上に脈打っている。
協会管理下の転移陣が正常に稼働している証拠だ。ここまで来れば、地上側の救護班と合流できる。
「急げ」
黒崎が短く言った。
同時に、いま来た道の奥から甲高い鳴き声が重なる。追ってきている。
長谷部たちはほとんど転がり込むように転移陣へ向かった。
重傷者、後衛、前衛の順で乗せる。澪も最後尾へ回ろうとして、ふと振り返る。
黒崎は陣の外に立ったままだった。
「……黒崎さん!」
呼びかけに、男は目だけを向けた。
「早くこっちに!」
「お前たちが先だ」
淡々とした声だった。
「でも」
「陣が飽和する。今は人数を詰め込め」
感情の余地を挟ませない言い方だった。
転移陣の定員には限界がある。
魔力負荷が大きい状態で無理に人数を乗せれば、座標がぶれる危険がある。
そんなことは訓練で習う。習うのだが、現実にその判断をすぐに下せる人間は多くない。
澪が躊躇っている間に、黒崎は通路の奥へ向き直った。
闇の中から、小型魔物が群れをなして押し寄せてくる。
第十三階層で見たような爬虫類型、節足型、犬に似た異形。
数だけなら数十。撤退戦で最も嫌な形だ。
だが黒崎は、一歩も引かなかった。
刃が閃く。
先頭の一体が頭から断たれ、その死体を踏み台に次の個体へ踏み込む。
爪が掠めるより先に喉を裂き、跳びかかった二体をまとめて胴から両断し、背後へ回ろうとした個体には振り向きもせず短刃を放つ。
黒い血と腐臭が通路を満たす。
それでも黒崎の動きは変わらずに丁寧だ。
焦りも、高揚もない。ただ必要なだけ斬り、必要なだけ進む。
戦闘というより、作業に近い。
「雨宮、乗れ!」
長谷部に肩を引かれ、澪は転移陣の上へ引きずり込まれる。
視界の端で、黒崎が最後の一体の首を落とした。
そこで転移光が弾けた。
地上は、夜になっていた。
第七区ダンジョン前設営ベース。仮説証明が白く眩しく、救急車両の回転等が赤津明滅している。
忙しなく飛び交う怒号、運び出される担架、機材の駆動音。
緊急事態の空気が、冷たい夜の中で張り詰めていた。
「負傷者四名! 一名右肩欠損、二名重度熱傷、一名肋骨骨折!」
「後方テント空けろ、医療班急げ!」
「第十三階層で変異種確認! 記録映像の確保を――」
転移陣から現れた《グレイヴ》を見て、ベースは一瞬ざわめいた。
出発時の彼らを知っている人間ほど、その損耗具合に言葉を失う。
スポンサー付きの中継任務。華々しい成果を持ち帰るはずだったパーティが、半壊状態で戻ってきたのだから当然だ。
だが、そのざわめきはすぐに別の種類へ変わる。
直後に転移陣から現れた男を見たからだ。
黒崎蓮司は、地上の照明の中にあってもなお、どこかダンジョンの闇を引きずっているように見えた。
外套は裂け、装備は旧式どころか由来も分からない継ぎ接ぎだらけ。
肌に残る傷は古いものばかりなのに、不思議と衰弱しているようには見えない。
むしろ、ぎりぎりの均衡で形を保っている危険物のような印象があった。
「……誰だ、あれ」
「救援に入ったハンターじゃないのか?」
「登録コード確認できるか?」
「待て、協会装備じゃないぞ」
現場職員たちが緊張を強める。
すぐさま警備要員が前に出た。探索者用の対人装備を携えた二人、黒崎を半円状に囲む。
「そこのあなた、所属と身分証を提示してください」
「身分証はない」
黒崎はあっさり答えた。
「では武器を下ろしていただきます。確認が済むまで保護対象として――」
「待て」
低い声が割って入った。
現れたのは、災害対策部の現場監督官、霧島誠だった。
防刃コートの上からタブレット端末を抱え、いかにも寝不足そうな顔をしている。
「妙な刺激すんな。負傷者対応が先だ」
「しかし霧島監督官、身元不明の――」
「《グレイヴ》を生きて返したんだろうが。なら最低限、敵じゃねえだろうさ」
警備要員たちはなお警戒を解かない。だが霧島は黒崎へ向き直ると、値踏みするように目を細めた。
「名前は」
「黒崎蓮司」
「……は?」
霧島の反応は、澪たちとほとんど同じだった。
彼は一度だけ端末を見下ろし、それからもう一度黒崎を見る。
冗談を言われたと思ったのだろう。だが黒崎の顔には、冗談に付き合う様な空気は一欠片もなかった。
「その名前、殉職記録にあるぞ」
「そうらしいな」
「らしい、ってお前……」
霧島が言葉に詰まる。
黒崎はそこでようやく周囲を見回した。
強い光、無数の人の気配、夜気、車両の音。それらをひとつひとつ確かめるように、静かに視線を流す。
「ここは第第七区ダンジョンの前設営ベースで合ってるか」
「……合ってる」
「そうか」
それだけで会話を終えるつもりらしい。
霧島は深く息を吐き、額を押さえた。
「とりあえず医療班だ。見た目以上にボロボロだろ、お前」
「必要ない」
「必要かどうか決めるのはお前さんじゃない」
言いながら、霧島は警備要員に顎をしゃくった。
取り押さえろ、ではない。案内しろ、という合図だ。
黒崎は一瞬だけ拒絶の気配を見せたが、結局は何も言わなかった。
今の自分に地上側の常識がどれだけ通じるのか、測るつもりなのかもしれない。




