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第9話 フィナーレ

 太陽が、落ちてきた。


 熱い通り越して、痛い。


 髪の毛先がチリチリと音を立てて焦げて崩れ、焦げ臭い匂いが鼻腔を満たす。


 ヴィオラの魔力障壁内ですら、吸い込んだ空気が熱をもって肺を焼き、呼吸が苦しくなる。    


 酸素が燃え尽き、世界が白一色に染まり、音すら消えた。


 その地獄の中で、ヴィオラだけが動いていた。


 彼女は虚空から大剣を引き抜くと、頭上へと掲げる。


 まるで降り注ぐ雨を傘で弾くかのような構え。


「マコト様の望むものは……『平穏』⋯⋯!」


 彼女の唇が動く。


 音のない世界で、その声だけが直接俺の脳裏に響いた。


 ヴィオラは無造作に、大剣を縦に振り下ろした。


 ズンッ!!


 世界に、黒いヒビが入った。


 剣の軌跡に沿って、空間そのものが裂けたのだ。


 そこから覗くのは、光も、熱も、時間さえも存在しない、絶対的な無――【虚空】

   

 裂け目は巨大な顎のように広がり、迫りくる太陽を待ち受けた。


 ゴォォォォ……


 衝突音すらなかった。


 山一つを消し飛ばすはずだった熱エネルギーの塊は、ヴィオラによってこじ開けられた次元の裂け目へと、まるで水が排水口に吸い込まれるように、呆気なく飲み込まれていく。


 光が、熱が、破壊が。


 この世界から強制退場させられていく。


 数秒の後。


 俺たちを襲った白い太陽は、完全に消失していた。


 裂け目が塞がり、景色が元に戻る。


 後に残されたのは、夜空に浮かぶ不自然に丸く削り取られた雲と、熱波の余韻だけだった。


「……ふぅ」


 ヴィオラは小さく息を吐き、大剣を下ろした。


 その顔には、汗一つない。息も乱れていない。  


 メイド服のフリルさえ、乱れなく整っていた。


 俺はへたり込んだまま、呆然と空を見上げていた。


 助かった。

 

 理屈は分からない。


 だが、彼女が理屈そのものをねじ伏せたことだけは分かった。


「……マコト様」


 ヴィオラが駆け寄ってくる。  


 彼女は俺の前に跪き、素早く俺の体を点検するように視線を走らせた。


「お怪我はありませんか? どこか痛む場所は……?」


「い、いや、大丈夫だ。俺は生きてるし、怪我も……」


 俺がなだめようとした時、ヴィオラの指先が、俺の前髪に触れて止まった。


 チリチリに焦げた、髪の毛先。


 それを見た瞬間、ヴィオラの表情が消えた。


「……あ」


 安堵も、焦燥も、全ての感情が抜け落ちる。    


 彼女は俺の焦げた髪先にそっと触れ、そのままゆっくりと立ち上がった。


 無言。


 ただ、空間が軋む音がした。


 ギチ……ギチギチ……!


 ヴィオラの全身から、制御できないほどの闇が溢れ出し、周囲の空気を黒く染めていく。  


 彼女は虚空から再び大剣を引き抜いた。


 その目は虚ろで、光がない。  


 ただ、底なしの殺意だけが、澱んだ泥のように渦巻いている。


 彼女は何も言わず、大剣を引きずりながら歩き出した。  


 その切っ先が地面を削り、不快な音を立てる。


 向かう先は、エレアノールが浮かんでいた場所だ。


 ◇


 上空のエレアノールは、自身の奥義が消失した空間を凝視していた。


 身体が、グラリと揺らぐ。  


 飛行を維持するための熱操作が、魔力枯渇によって機能停止し始めていたのだ。


「嘘、でしょ⋯⋯!?」


 彼女は震える手で、杖を握りしめた。


 私の最強奥義が。


 すべての魔力を注ぎ込んだ一撃が。

 

 跡形もなく、かき消された!?


「ありえない……あんなの、私の知ってる魔法じゃない……!」


 魔力回路が焼き切れ、視界が明滅する。

 

 浮力が消失する。


 重力が、容赦なく彼女の細く小さな体を地面へ引き摺り落とした。


「きゃああああああッ!?」


 エレアノールの身体が、小石のように落下する。    


 ドンッ!!!!!


 「カハッ!!!」


 空の支配者たる彼女が、焦土と化した大地へと無様に叩きつけられた。    


 全身を襲う激痛。

 

 美しいマントとローブは泥と煤で汚れ、誇り高い黄金の髪は乱れ、頬の擦り傷からは血が滲んでいる。


 だが、彼女はまだ「ミスリル級魔術師」だった。  


 無様に這いつくばりながらも、その瞳から闘志までは消えていない。


「……まだよ。まだ、終わってない……!」


 彼女は気力を振り絞り、必死に上体を起こす。


 しかし、その視界に入ってきたのは、漆黒の絶望だった。


 ザッ、ザッ、ザッ


 土を踏む音が近づいてくる。    


 ヴィオラだ。  


 彼女は能面のような無表情で、大剣を引きずって歩いてくる。


 言葉はない。罵倒もない。  


 ただエレアノールを処理しに来た、執行人の目だ。


「っ……!」


 エレアノールは咄嗟に杖を構えようとした。  


 だが、指に力が入らない。魔力が空っぽだ。


 ヴィオラが、エレアノールの目の前で立ち止まる。


 彼女は大剣を高々と振り上げた。


 エレアノールは歯を食いしばり、その刃を睨みつける。  


 命乞いなどしない。誇り高き死を選ぶかのように。


 大剣が、風を切る音と共に振り下ろされた――


「待て! ヴィオラ!!」


 俺の声が、寸前で刃を止めた。


 ヴィオラの剣が、エレアノールの鼻先数ミリで静止する。  


 剣圧の余波だけで、エレアノールの前髪が数本、ハラリと切り飛ばされた。


「……マコト様」


 ヴィオラが首だけを回して俺を見る。  


 その目は未だドス黒く濁ったままだ。


「なぜ止めるのですか。この女はマコト様を傷つけました。その罪は万死に値します。生かしておけば、また必ずやマコト様に害をなすでしょう」


「それでも殺すな。ここでこいつを殺せば、俺たちが損をする」


 俺はヴィオラの横に並び、へたり込んだエレアノールを見下ろした。


「国の英雄である『筆頭魔術師』を殺せば、レガリス王国は総力を挙げて俺たちを潰しに来る。弔い合戦という大義名分を与えることになるからな」


 俺は淡々と続けた。


「だが、生かしておけばどうだ? 無様に敗北し、力を失った元・最強魔術師。死んだ英雄は軍を団結させるが、生きた敗北者は軍を混乱させる」


 前の世界でもそうだった。


 失敗したプロジェクトリーダーが居座り続けると、派閥争いが起きて組織が腐る。


 こいつが生き恥を晒して戻れば、軍内部での責任追及や派閥争いが起きるだろう。  


 その混乱こそが、俺たちが国外へ逃げ、身を隠すための好機になるかもしれない。


「こいつに殺す価値はない。生かして恥をかかせた方が、俺たちの逃走には都合がいい」


 俺の言葉に、ヴィオラは瞬きをし、ゆっくりと大剣を下ろした。


「……なるほど。あえて生かし、死よりも重い屈辱を与えて利用する、と。流石はマコト様。合理的かつ、残酷な判断です。感服いたしました」


 ヴィオラは納得したように頷き、殺気を収めた。

   

「命拾いしましたね、三流魔術師。マコト様の慈悲に感謝しなさい」


 ヴィオラは剣を虚空に収めると、冷たく言い捨て、俺の元へ戻ってくる。


 俺はエレアノールを見た。  


 彼女は泥まみれの顔で、屈辱に唇を噛み締めながら、こちらを睨み返している。


「……情をかけたつもり?」


 彼女の声は震えていたが、その瞳の奥にはわずかな光がともっていた気がした。


「覚えておきなさい……この借りは必ず返すわ」


「返す必要はない。二度と俺たちの前に現れるな」


 俺はそれだけ言うと、彼女に背を向けた。  


 プライドの塊のような女だ。 


 だからこそ敗北の屈辱で、当分は立ち直れないだろう。⋯⋯この時は、そう思っていた。


「行くぞ、ヴィオラ」


「はい、マコト様」


 俺たちはへたり込むエレアノールを放置して、東へと歩き出した。


 背後で、彼女が何かを叫んでいた気がする。


 だが、風の音にかき消され、俺たちの耳には届かなかった。


 ◇


 森と平野の境目。


 マコトとヴィオラは、朝日の中を歩いていた。


「マコト様。あの関所を越えれば、リブラ共和国です」


 ヴィオラが指差す先には、石造りの国境検問所が見えている。


「ああ⋯⋯」


 木々の密度が薄れ、前方に朝日に照らされた石造りの関所が見えてきた。


 その向こうには、自由と商業の国、リブラ共和国が広がっている。


 俺は足を止め、背後を振り返った。


 遠く、森の方角から煙が上がっている。


 故郷のない俺にとって、この異世界の王国もまた、故郷にはなり得なかった。


 俺はどこへ行けば、誰にも脅かされず、静かに暮らせるのだろう。


「マコト様?」


 ヴィオラが、心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。


 彼女だけだ。


 この世界で、俺を必要としてくれるのは。


「……なんでもない。行こう」


 俺は前を向いた。


 リブラ共和国。


 そこが問いの答えであることを信じて、俺たちは足を踏み出した。

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