第8話 紅茶以下
「……見つけた」
上空数千メートル。
あらゆる生命を拒絶する極寒の領域を、一人の少女が大気を揺らめかせながら飛んでいる。
眼下に広がる樹海の一角に、ドス黒い異質なノイズを見つけたエレアノールは、何のためらいもなく杖を振り下ろした。
実験動物相手に挨拶も、警告も必要ない。
彼女の周囲に展開されていた火球の一つが、音速を超えて地上へ急襲する。
ドォォォォン!!!
爆音。
森の一部が消滅し、巨大なクレーターが穿たれる。
だが、エレアノールの眉がピクリと跳ねた。
直撃の瞬間、黒い霧のようなドームが発生し、熱と衝撃を完全に遮断したのだ。
爆心地に、無傷の二つの影が残っている。
「……ふん。挨拶代わり程度なら耐えるのね」
エレアノールは高度を下げ、燃え盛る森の上にふわりと静止した。
「初めまして、実験サンプルさんたち」
真紅の瞳が、眼下の二人――腰を抜かしている男と、平然と立つ黒髪のメイドを見下ろす。
「私の名はエレアノール。レガリス王国筆頭魔術師にして、貴様らを灰にする者よ」
◇
空気が、沸騰していた。
上空に現れた少女の存在だけで、周囲の水分が蒸発し、視界が歪む。
「……ッ!」
呼吸ができない。
吸い込んだ空気が熱湯のように肺を焼く。
マコトはガチガチと歯を鳴らし、ヴィオラの背中に隠れることしかできなかった。
思考など回らない。
目の前にいるのは、人の形をした噴火する火山だ。天災だ。
ヴィオラは一歩前に出ると、無表情で上空を見上げた。
「マコト様の呼吸が乱れています。……不快ですね」
その言葉に、エレアノールが冷たい笑みを浮かべる。
「すぐに楽になるわ。灰になれば、呼吸なんて必要ないもの」
エレアノールが軽く杖を振るう。
瞬間、夜空が真昼のように輝いた。
彼女の背後に、千を超える火球が出現したのだ。
その一つ一つが、人間を骨まで溶かす熱量の塊。
それが空を埋め尽くしている。
(……あ、終わっ……)
マコトが絶望する暇もなかった。
「【ファイアボール・シンフォニア】」
千の火球が一斉に放たれる。
回避不能の火球の豪雨。
機関銃の乱射のような飽和攻撃。
だが、ヴィオラは動じない。
彼女は左手を前にかざし、闇の防御壁――【魔力障壁】を展開した。
ジュッ、ジュワワワワッ⋯⋯
殺到する火球が、黒い壁に触れた端から消滅していく。
ただ防いでいるのではない。空間ごと呑み込まれている。
(……空間干渉? 座標をずらして吸収しているのかしら)
エレアノールは初見の魔法を瞬時に分析した。
驚きはない。ただのデータ収集だ。
(なら、吸収しきれない質量で押し潰すだけよ)
彼女は杖を高く掲げる。
ゴオオオオオオ……!!!
上空の空気が渦を巻く。
先ほどとは桁違いの魔力が杖の先に収束していく。
エレアノールの背後に五つの巨大な魔法陣が展開され、そこからビルほどの大きさがある白色の超巨大火球がせり出してくる。
熱量により空間が歪む。
森全体を更地にするオーバーキルだ。
「【フレイムストライク・クインテット】!」
五つの火球が、同時に落下した。
逃げ場はない。防御も不可能。
マコトは反射的に目を閉じた。
しかし、
「問題ありません」
ヴィオラは右手に現出させた漆黒の大剣を構え、深く踏み込んだ。
足元の大地が、純粋な脚力だけで粉々に砕け散る。
「邪魔です」
ゴウッ!!!!!!
ヴィオラが、大剣を天へ向けてただ一振り、薙ぎ払った。
剣閃が届く距離ではない。
だが、そのデタラメな膂力と速度が、大気を物理的に切り裂いた。
発生したのは、凝縮された破壊の衝撃波。
目に見えるほどの衝撃の塊が、砲弾となって上空へ射出される。
ドォォォォォォォォォォン!!!!
衝撃波が五つの巨大火球に直撃した。
魔法的な干渉ではない。
ただの衝撃波が、熱の塊を物理的に粉砕し、火球を空中で強制起爆させたのだ。
上空で花火のような爆炎が広がり、発生した熱波が森を吹き飛ばす。
ヴィオラが張った障壁が壁となり、マコトたちの周囲だけが無風地帯と化して守られていた。
煙が晴れていく。
ヴィオラは、剣身に残った余熱をふっと息で冷ますと、独り言のように呟いた。
「……ぬるいですね。マコト様の淹れてくださった紅茶の方が、よほど私の心を温めてくれました」
その一言が、静寂に響いた。
そして、彼女は俺に向かって、深く、深く頭を下げた。
「失礼いたしました。こんな幼稚な火遊びと、マコト様の淹れてくださった至高の紅茶を比べるなど、主に対する不敬の極みでした。どうかお許しください」
ヴィオラの声からは、敵に対する侮蔑など微塵も感じられない。
あるのは、己の失言に対する、心からの謝罪の念だけだ。
上空のエレアノールが動きを止める。
自身の魔法が防がれたことへの驚きではない。
自身の完璧な計算式が、ただの腕力という野蛮な力でねじ伏せられた。
そして何より、自身の魔法が「紅茶以下」と評価された事実。
彼女の瞳から、研究者としての理性が消え失せ、完全に感情が抜け落ちた。
代わりに、静かな、凍りつくような殺意だけが瞳に宿る。
「……なるほど」
エレアノールは低く呟いた。
「理解したわ。お前はただのモルモットではない。私の魔法を根底から否定する、排除すべき『敵』ね」
目の前のメイドは、放置すれば世界の理を崩壊させかねない、解析不可能の特異点。
もはや実験材料などではない。
ならば、手段を選んでいる場合ではなかった。
プライドも、魔力効率も、後のことなど全て度外視してでも、ここで完全に消滅させなければならないと決意する。
彼女は羽織っていた【不死鳥の外套】を強く握りしめる。
それは、この伝説級アーティファクトに頼らざるを得ないほどの切り札を行使する覚悟を決めた証。
あらゆる炎と熱から着用者の身を守るこのマントが無ければ、自身にすら被害が及びかねない奥の手の大魔法。
彼女は杖――【神火の指揮棒】を、天へと祈りを捧げるかのように両手で持ち、構える。
その先端に、極小の光球が発生した。
灯ったのは炎ではない。
白く輝く、極小のプラズマ球体。
キィィィィィィィン……⋯⋯!
不快な高周波と共に、周囲の空気が強制的に吸い上げられていく。
エレアノールのマナを、大気中の酸素を、全てを食らい尽くして、その光は膨張を始める。
最初は拳大。次は人頭大。
そして、瞬きする間に、それは雲を削り、上空を覆い尽くすほどの巨大な球体へと変貌した。
「ッ!?」
マコトは生唾を飲み込む。
「……冗談だろ!?」
俺は呻いた。
肌がチリチリと焼けるような感覚。
いや、実際に髪の毛の先が焦げ、炭化して崩れ落ちている。
息ができない。
酸素がない。
森の木々が、次々と炭化していく。
真空と超高熱の地獄。
「酸素濃度、マナ密度、臨界突破。火力を一点に固定、圧縮、更に圧縮……消えなさい」
エレアノールが、無慈悲にタクトを振り下ろす。
膨張した白色の破壊光が、世界を塗りつぶすように襲いかかった。
「消えなさい!【パイロブラスト】ッ!!!!!」
太陽が、落ちてくる。
(ああ、またか)
その熱を感じながら、俺はふと、前の世界の最期を思い出していた。
あの時は寒さで凍えて死んだ。今度は熱さで焼かれて死ぬのか。
どちらにせよ、ろくな死に方じゃない。
だが――不思議と恐怖はなかった。
隣にはヴィオラがいる。
あの時と違い、今は俺のために世界を敵に回してくれる共犯者がいる。
なら、悪くない。
もしここで燃え尽きるとしても、一人で孤独に凍え死ぬよりは、ずっとマシな結末だ。
音すら消滅した白い世界で、マコトはただ、目の前に圧倒的な死の光が迫るのを見つめることしかできなかった。




