第37話 暗黒騎士
まるで時間が止まったかのようだ。
ドクンッ
心臓の音が、やけに大きく響く。
それ以外の音――迫りくる火球の轟音も、ガルノフの咆哮も、遠い世界のことのように霞んで聞こえる。
目の前には、すべてを切り裂く黒い巨爪。
頭上には、夜空を白く塗りつぶす無慈悲な火球。
今度こそ、本当に逃げ場はない。
ああ。
ここが、俺たちの旅の終点か。
不思議と恐怖はなかった。
俺は視線を横に向ける。
そこには、ボロボロになって倒れているヴィオラがいる。
意識を失っているのか、彼女は動かない。
死を覚悟した時、目の前にはいつも彼女の背中があった。
その小さな背が、常に俺を守り続けてくれていた。
どんな時も、彼女は俺の手を握ってくれた。
充分だ。
俺はこの世界で、彼女に救われ続けてきた。
今度こそ、彼女と一緒なら、ここで終わるのも悪くない。
満ち足りた諦観と共に、俺は目を閉じ、静かに死を受け入れた。
◇
はずだった。
ドンッ!
思考よりも早く、身体が跳ね起きた。
死を受け入れたはずの心が、細胞が、本能が、それを拒絶した。
俺はヴィオラの前に躍り出た。
両手を広げ、彼女を背に庇う。
「マコト……様……!?」
ヴィオラが、声にもならない吐息のような言葉を漏らす。
背後で、息を呑む気配がした。
それは、あり得ない光景。
あってはならない光景。
守るべき主人が、従者の盾になっている。
世界の理が反転した瞬間だった。
◇
「なっ!?」
マコトの眼前に迫っていたガルノフが、驚愕に目を見開く。
彼は急激に身体を反らし、ブレーキをかけようとする。
だが、遅かった。
巨大な質量が乗った慣性は、簡単には止まらない。
同時に。
ドガガガガガッ!!
頭上から白い閃光が降り注ぐ。
エレアノールの火球だ。
彼女は、ガルノフごとマコトたちを焼き尽くすつもりで炎を放っていたのだ。
だが、それは届かない。
皮肉にも、ガルノフの鋼と化した背が、意図せずしてマコトたちを守る傘となっていた。
炎が弾ける。
だが。
火球は防げても、既に放たれた鋭利な凶器は止まらない。
ズシュッ
生々しい音がマコトの鼓膜を伝う。
熱い液体が飛び散り、顔にかかる。
視界が、赤く染まる。
ボトッ
湿った音がして、地面に何かが落ちた。
それは、マコトの腕だった。
マコトの左肩から先が、切り裂かれていた。
脳の処理が追いつかない。
痛みを感じるよりも先に、視界が明滅する。
ヒュー、ヒューッ
喉から、壊れた笛のような呼吸音が漏れる。
膝から力が抜け、マコトはその場に崩れ落ちた。
◇
「マコト殿、な……! なぜ⋯⋯っ!」
ガルノフが凍りつく。
火球をその背に受けたことなど意に介さず、ガルノフは目の前の惨状に愕然としていた。
俺は何も答えられない。
ただ、全身が痙攣している。
ブチッ――
その時。
何かが切れる音がした。
血管か、神経か。
いや、もっと根源的な何か。
ヴィオラの心が、壊れる音。
「チッ……やっぱり帝国の犬は無駄に頑丈ね」
エレアノールが、不快そうに舌打ちする。
「どきなさい! 邪魔よ! 次は出力を上げて焼き尽くして──」
杖を振り上げる。
巨大な魔法陣が無数に展開され、空中を覆い尽くす。
その刹那。
ドォォォォォォォン!!!!!
ヴィオラの足元から、爆発的な『闇』が噴き出した。
それは荒野を、空を、周囲のすべてを飲み込み、エレアノールの声を強制的に遮断した。
◇
意識が遠のく中、俺は見た。
ヴィオラから溢れ出す、どす黒い、泥のような、蠢く『闇』を。
それは魔力ではない。
粘着質で、底知れない、世界そのものを侵食する『闇』。
「魔力反応がない!? なんなのよその黒い泥は!」
エレアノールの悲鳴が聞こえる。
彼女の完璧な理論が、理不尽な闇に飲まれ、圧殺されていく。
黒い泥が、俺の傷口を覆う。
冷たい感触。
止血されているのが分かる。
残りの黒い泥が、ヴィオラ自身を包み込んでいく。
彼女の傷が塞がる。
赤く焼け爛れた肌が、白磁の陶器のような美しさを取り戻す。
焼け焦げ、原型を留めていなかったメイド服が再生する。
だが、それだけでは終わらない。
漆黒のメイド服の布地の上から、さらなる闇が重なり、硬質化していく。
ギチチチ……
鋼鉄を捻じるような、不気味な音が響く。
そして──
深淵を吸い込んだような、黒く輝く装甲板。
禍々しくも美しい、暗黒の全身鎧が具現化した。
魔法使いとしてのヴィオラは死んだ。
今ここにいるのは、別次元の存在だ。
◇
ガルノフが後ずさる。
百戦錬磨の獣王の顔が、恐怖で引きつっている。
「これは……」
彼の野生の勘が警鐘を鳴らしている。
今すぐ逃げろ、と。
薄れゆく意識の中で、マコトは独白する。
ああ……そうだった。
俺は思い出していた。
初めて会った時、彼女が発した言葉を。
悪魔のメイド、ヴィオラ。
彼女のクラスは――『暗黒騎士』。
その真のエネルギー源は魔力ではない。
崇高なる主人への『愛』だ。
◇
ヴィオラが一歩、踏み出す。
ズンッ。
たったそれだけで、周囲の重力が歪み、踏み込んだ地面が陥没する。
彼女が虚空へ手を伸ばす。
引き抜かれたのは、身の丈ほどある漆黒の大剣。
だが、以前のそれとは違う。
剣が闇を纏っているのではない。
『闇』そのものが、剣の形を成している。
彼女は切っ先をガルノフに向ける。
顔を覆う兜の奥。
その紫の瞳が、殺意の炎で燃えている。
「……死ね」
地獄の底から響くような、無機質な宣告。
暗黒騎士が、剣を振り上げる。
世界が、闇に染まった。




