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第35話 死地

 深夜、帝国西方の荒野地帯。


 月明かりすらない暗闇の中に、場違いな空間が広がっていた。


 天蓋付きのキングサイズベッド。


 足元にはフカフカの絨毯。


 銀の燭台が揺らめき、最高級のアロマが焚かれている。


 王宮の寝室が、そのまま荒野に切り取られていた。


 ヴィオラのスキル【虚空の武器庫ヴォイド・アーモリー】によるものだ。


 もはやこの光景にも慣れたもので、俺は革張りのソファに深く腰掛け、優雅にワイングラスを傾ける。


 外では砂嵐が吹き荒れているが、この結界内は無風で快適だ。


「……相変わらず、スキルの無駄遣いだな」


「マコト様の安息のためです。無駄などございません」


 ヴィオラが完璧な所作でチーズを切り分ける。


 俺は苦笑し、ワインを喉に流し込む。


 芳醇な香りが鼻腔を満たす。


「国境も越えた。追手も撒いた」


 俺は空になったグラスをテーブルに置く。


「ここには俺たちしかいない」


 誰にも縛られない。


 誰にも脅かされない。


 ようやく手に入れた、束の間の平穏。


 だが、運命は彼らに安寧を許さなかった。


 過去が、因縁が、彼らに牙を剥く。


 ◇


 突如、ワインを注ぐヴィオラの手がピタリと止まる。


 俺も身体を強張らせた。


 悪寒。


 ガルノフのような、熱い殺気ではない。


 背筋を氷で撫でられるような、冷たく粘着質な視線を感じる。


「……上か?」


 俺は空を見上げる。


 そこには、何もない夜空が広がっているはずだった。


 だが。


 突如、空が赤く染まった。


 紅い流星が彼方から飛来し、俺たちの直上で停止。


 流星は、周囲に火球を展開している。


 雲が焼け、熱波が降り注ぐ。


 その中心。


 遥か上空、流星の正体は、空に浮く人影だった。


 真紅のマント、漆黒のローブ。


 エルフの象徴たる長く尖った耳。


 風になびくのは、以前のような長い金髪ではない。


 短く切り落とされたショートヘアだ。


 だが、その瞳だけは変わらない。


 いや、違う。


 一際変化していたのは、瞳に宿る炎だった。


 狂気に満ちた、紅蓮の殺意と無限の探求心。


 王国最強のミスリル級魔術師(メイジ)、エレアノールだ。


「見つけたわよ……世界の冒涜者⋯⋯!」


 風に乗って、上空から冷徹な声が降ってくる。


 以前、共和国への逃避行の最中で俺たちはこいつと戦い、圧勝した。


 奴の最大奥義をヴィオラが真正面から無力化し、二度と立ち直れないほどの屈辱を与えたはずだった。


 なのに。


「……なぜ、お前がここにいる? ここは帝国領だぞ」


 俺は動揺を押し殺して問う。


「愚問ね、ただの計算よ」


 エレアノールは嘲笑う。


「共和国の騒動。帝国の間者の動き……それと貴様らの思考と行動パターンを組み合わせれば、今頃は帝国からも追い出されてる頃だと思ったわ」


 俺は生唾を飲み込む。


 彼女は機嫌よく言葉を続ける。


「王国にも、共和国にも、帝国にも居場所がない貴様らが最後に辿り着くとしたら、大陸西方の未開地帯。案の定、そこを目指して旅行中だったようね」


 図星だ。


 だがまだ疑問は残る。


 なぜ、この広大な荒野で、俺たちをピンポイントで発見できたのか?


 その問いに、誰に聞かれるまでもなくエレアノール自身が答えた。


 彼女は自身の左目を指差す。


 その瞳は、異様な紫色に変色していた。


「そして何より……私の眼は、その不快な女の『闇』の魔力を捉えて離さない。逃げられると思って?」


 まさに狂気だ。


 狂気的なまでの執念だ。


 彼女は折れてなどいなかった。


 復讐のために国境すらも越え、俺たちの前に再び立ちはだかったのだ。


 ◇


 エレアノールがタクトを天高く掲げる。


「さあ、実証の時間よ!」


 彼女の周囲に、無数の火球が展開される。


 百、二百、三百……


 圧倒的な数の暴力。


 まさに魔術師の極致だ。


「私の研究成果、存分に味わいなさい!」


 ドォォォォォォン!!


 火球の爆撃が開始される。


 紅蓮の流星群が夜空を舞う。


 そして、豪雨のように俺たち目がけ降り注ぐ。


 新月の闇夜が、真昼のように明るくなる。


 回避不可の弾幕。


 だが、ヴィオラは動じない。


 彼女は左手をかざし、【魔力障壁ヴォイド・オーラ】を展開する。


 黒い魔力のドームが俺たちを覆い、火球を防ぐ。


「相変わらず品のない芸ですね」


 ヴィオラが冷たく吐き捨てる。


「過去から学ぶ知能すらないのですか? 三流以下のゴミ風情が、二度もマコト様の平穏を妨げるとは――今度こそ、確実に殺します」


 余裕の表情だ。


 これまでの戦闘と同じく、全ての攻撃を防ぎきれる――はずだった。


 だが。


 エレアノールは不敵に笑う。


「学習しないのは、どちらかしらね?」


 火球の雨の中に、別の術式が混ざっていた。


 それは、氷河を切り出したかのように透き通った青い炎弾。


 それが障壁に着弾した瞬間。


 ジュッ……!


 漆黒の魔力障壁が、青白く凍りついていく。


「起動――【魔力完全凍結術式アブソリュート・マナロック】!!!」


 ピキッ……


 乾いた音が響く。


 障壁に、亀裂が走る。


 そして――


 パリンッ!!!


 ヴィオラの絶対防御の象徴が、無残に砕け散った音がした。


 ◇


 障壁が消える。


 この世界の、あらゆる強者たちの攻撃を防ぎきってきた、ヴィオラの『盾』。  


 それが、消滅した。


 同時に、火球が周囲の家具に着弾、そのすべてを焼き尽くした。


 ヴィオラの膝が、ガクンと折れる。


「力が……入らない……?」


 彼女は自身の手を見つめ、愕然とする。


「お前の異常な身体能力も、障壁も、空間干渉も、全て『闇のマナ』の循環によるもの。ならば、その循環そのものを凍結させれば――お前はただの無力な『人形』よ!」


 解析完了。


 エレアノールはヴィオラの強さの根源を暴き、完全に無力化したのだ。


『銀翼の竜剣』の結界とは次元が違う。


 あれはただ「魔法の行使」を封じただけ。


 だが、エレアノールはヴィオラの力の源――『闇のマナ』そのものを解析し、凍結させたのだ。


 エレアノールが、さも楽し気に杖を振るう。


 追撃の火球が放たれる。


 ヴィオラは障壁を出せない。


 彼女は咄嗟に、俺に覆いかぶさった。


 ドォン!!


 爆発音。


 熱波がヴィオラの背中を焼く。


 メイド服が焼け焦げ、白い肌に赤い火傷ができる。


 初めての被弾。


 初めての負傷。


 それでも彼女は悲鳴一つ上げず、俺を守り抜く。


 ヴィオラはその身を震わせながら立ち上がる。


 闇の力を封じられてなお、彼女の身体能力はミスリル級だ。


 だが、それだけだ。


 上空の爆撃から俺を守りながらでは、あまりに分が悪すぎる。


 なにより、相手は世界屈指のミスリル級魔術師なのだから。


「ハハハハ! 見たか! 脆い! 脆すぎる! それが貴様の正体よ!」


 狂喜乱舞するエレアノール。


 そして冷静に、次なる弾幕を装填する。


 千の火球が、今度こそ二人を消し炭にしようと狙いを定めている。


「ヴィオラ、逃げるぞ!」


 俺は叫んだ。


 だが、ヴィオラは首を横に振る。


「いいえ、マコト様」


 彼女はボロボロの体で、俺の前に立ちはだかった。


「私が盾になります。あの女は、刺し違えてでも必ず殺します。マコト様だけでも、どうかお逃げください」


 彼女の辞書に、諦めるという言葉はない。


 あるのは、主人への命がけの献身と覚悟のみ。


 だが、それは俺が認めない。


「ふざけるな!」


 俺はヴィオラの腕を引いた。


「一緒に逃げるぞ!」


 俺が主導して走り出す。


 ヴィオラも従うしかない。


 今の彼女に普段の走力はない。


 泥臭く、無様に、荒野をひた走る。


 ドガガガガガッ!!


 上空から火球が降り注ぎ、大地を抉る。


 爆風に煽られながら、俺たちは必死に走った。


 どうにか岩陰に滑り込む。


 ヴィオラの背中は火傷で爛れている。


「逃げるな! 実験動物風情が! もっと私を楽しませろ! 醜く焼き爛れた顔を見せろ!」


 爆撃は止まない。


 背後の大岩が削られていく。


 最悪だ。この世界に来て初めての、正真正銘のピンチだ。


 だが、悪夢はまだ終わらない。


 遠くから、地響きが近づいてくる。


 帝国の軍勢だ。


 その先頭には……『獣王』ガルノフ。


 前門の魔女、後門の獣王。


「申し訳ありません……私の不手際で、このような……」


 彼女は何よりも、俺を危険に晒してしまったことを強く悔いている。


 ヴィオラが力なくうなだれる。


 その姿に、かつての絶対的強者の面影は無い。


「謝るな。まだ終わってない」


 ヴィオラの肩を抱く。


 俺の目は、まだ死んでいない。


「まだ手はあるはずだ――」


 絶体絶命の闇の中で。


 俺だけが、逆転の可能性を信じていた。

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