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第32話 獣王ガルノフ

 ガルノフはマコトの正面にある椅子を引く。


 そしてドカッと腰を下ろした。


 椅子が軋み、悲鳴のような音を立てる。


間者ネズミ共から聞いたぜ。共和国の『聖女』をボコボコにしたらしいな」

  

 ガルノフに敵意は無かった。


 そこにあるのは、純粋な好奇心だけだ。


 彼はニカっと笑う。


「あの堅物女とは因縁があってな。何度も殺し合いをした仲だったんだが⋯⋯獲物を横取りされた気分だぜ!」


 ガッハッハと、豪快な笑い声が庭園の空気を揺らす。


 ガルノフの視線が、マコトの背後に控えるヴィオラへ移る。


「だが、信じられねえな。嬢ちゃん、その細腕のどこにそんな力があるんだ?」


 ガルノフはテーブルの端に指を添える。


 大理石でできた、分厚い天板だ。


 彼はそれを親指と人差し指で軽くつまむと、


 バキッ


 乾いた音が響く。


 彼がつまんだテーブルが、そこだけ削り取ったかのように粉々になり、芝生に零れ落ちた。


 指先には傷一つない。


「どうだ? 俺と軽く手合わせでも」


 ガルノフは指についた大理石の粉をフッと軽く息で払う。


「なにも殺しあおうってワケじゃねえ。稽古に付き合ってほしいんだよ。この国にゃ、俺の相手になる奴がいなくて退屈してんだ」


 マコトはカップを置く。


 ガルノフの瞳を見る。


 曇りはない。


 裏表のない、武人としての渇望だけが見える。


 マコトは警戒を解き、少し安堵した。


 どうやら、この男は腹芸ができるタイプではないらしい。


「少し遊んでやれ」


 マコトはヴィオラに視線を流す。


「よろしいのですか?」


「ああ。……だが、殺すなよ?」


「かしこまりました」


 ヴィオラはスカートの裾をつまむ。


 優雅なカーテシー。


「マコト様のご命令です。心を込めてお相手いたしましょう」


 ◇


 二人は場所を移す。


 迎賓館の中庭だ。

 体育館ほどの広さがある。


 そこで二人は、十メートルほどの距離を取って対峙した。


 ガルノフがフーッと息を吐く。


 全身の筋肉が波打ち、膨張する。


 礼服の生地が張り詰め、はち切れんばかりに膨れ上がる。


 周囲の空気が熱を帯びる。


 獰猛な獣の臭い。


 放たれる濃厚なオーラが、俺の肌をチリチリと焼く。


 (やはり、こいつもミスリル級か……)


 マコトは過去の経験から、ガルノフの戦闘力を見積もる。


 そして、その予想は当たっていた。


 帝国最強の魔祭司ドルイド、『獣王』ガルノフ・バーゼント。


 彼は元ミスリル級冒険者にして、現在は皇帝直属親衛隊の隊長を務める男だ。


 そんなガルノフの臨戦態勢とは正反対に、ヴィオラは普段通りの自然体だ。


 構えすらない。


 ただ、そこに立っているだけ。


「では、行くぞ」


 ガルノフが腰を落とし、低く構える。


 その手に武器は無い。

 

 素手での戦闘を得意とするのだろうか。


 それに呼応して、ヴィオラも動く。


 たった一歩。


 彼女が前に足を踏み出した。


 その瞬間。


 ガルノフの視界が──歪んだ。


 世界から色が消える。


 闇に塗り潰される。


 目の前にいるのは、美しいメイドの少女ではない。


 天を飲み込むほどの、巨大な闇だ。


 深淵が大口を開けている。


 ギチチチ……


 不穏なイメージがガルノフの脳裏に浮かぶ。


 それは、巨大な顎だ。


 自分という存在が、噛み砕かれ、咀嚼され、虚無へと飲み込まれるビジョンが、ハッキリとガルノフの頭に浮かんだ。


「ッ!?」


 全身の毛が逆立つ。


 鼓動が脈打つ。


 口の中が一瞬で乾き、唾も飲み込めない。


 こいつは人間ではない。


 白金プラチナ級、ミスリル級などという尺度では測れない特異点だ。


 人の形をした災害だ。


 冷徹な死の塊だ。


 本能が叫ぶ。


 逃げろ。


 喰われる、と。


 ◇


「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」


 ガルノフはその場に膝をついた。


 芝生に脂汗が滴り落ちる。


 手合わせは、始まりすらしなかった。


 ヴィオラはガルノフに指一本触れていない。


 なのに、彼は全力疾走した後のように息を切らしている。


 ヴィオラが歩み寄り、ガルノフの前で足を止める。


 キョトンとした顔で首を傾げた。


「おや? どうなさいましたか? おもてなしはこれからですが⋯⋯」


「……いや、失礼した」


 震える手で顔を拭う。


 立ち上がる足がおぼつかない。


「どうやら貴殿は、私が触れていい領域ではなかったようだ⋯⋯」


 ガルノフは苦笑いを浮かべる。


 その顔色は青ざめている。


 彼はヴィオラから視線を逸らす。


 直視することすら、彼の生存本能が拒否している。


(戦えば、死ぬ。一秒も保たねえ⋯⋯)


 彼は本能で、彼我の隔絶した実力差を思い知った。


「……時間をとらせて悪かったな、客人殿」


 彼はマコトにそう告げると、逃げるように踵を返した。


 走ってはいない、が、その足取りは速い。


 最低限の礼儀だけは守りつつ、一刻も早くこの場を離れようとしていた。


 去り際、彼の独り言が風に乗って聞こえた。


「こいつは……バケモンだ⋯⋯!」


 マコトはその背中を見送る。


 呆れたものだ。


 帝国最強が戦わずして逃げるとは。


 いや、だからこそ強いのかもしれない。


 死地を察知できる嗅覚と本能こそが、彼の真価なのだろう。


 ふと、視線を感じる。


 マコトは顔を上げた。


 迎賓館の二階。


 バルコニーに人影がある。


 逆光で表情は見えない。


 だが、その影が今のやり取りをすべて見ていたことは分かった。


 じっとりとした、粘着質な視線。


「……また、面倒なことになりそうだな」


 マコトはぼそりと呟き、冷めた紅茶を飲み干した。


 苦味が、口の中にいつまでも残った。

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