第25話 テスト
本来ならこの部屋には、安宿特有の、カビと饐えた油の混じった匂いが漂っているはずだった。
だが今、俺の鼻腔を満たしているのは、最高級のラベンダーから抽出されたアロマの香りだ。
肌に触れているのは、安宿のせんべい布団ではない。
極上のシルクで織られたシーツと、雲のように柔らかな羽毛。
頭上を見上げれば、雨漏りのシミがあるはずの天井を、金糸の刺繍が施された豪奢な天蓋が覆い隠している。
六畳一間の安宿に、王宮の寝室が強引にねじ込まれていた。
「マコト様、紅茶が入りました。茶葉は首都一の商店から仕入れた、一級品のアッサムです」
ヴィオラが音もなくベッドサイドに現れ、湯気の立つカップを差し出す。
彼女のスキル【虚空の武器庫】。
本来は大量の武器を収納する亜空間だが、彼女はそれを「俺の生活環境を整えるためだけ」に使用していた。
外からはスラム特有の怒号が聞こえるが、厚手のベルベットカーテンがそれを遠い世界の出来事のように遮断している。
快適だが、狂った光景だ。
俺がカップに口をつけようとした、その時だった。
カツッ、カツッ
廊下から、足音が近づいてくる。
不規則な酔っ払いの足取りではない。
定規で測ったように正確で、不気味なほど均一なリズム。
ヴィオラの眉が、わずかに動いた。
彼女が指先を軽く鳴らす。
シュンッ――
空気を切り裂くような音がした瞬間、世界が裏返った。
豪奢な天蓋が、ペルシャ絨毯が、ベルベットのカーテンが、一瞬で虚空へ吸い込まれていく。
後に残ったのは、剥き出しの現実だ。
黒ずんだ壁紙。 踏むだけで軋む、腐りかけた床板。 そして、ゴツゴツと硬い、藁の飛び出した安ベッド。
ふわりとした温かさが消え、代わりに湿った冷気が足元を撫でる。
コン、コン。
直後、ノックの音が響いた。
ヴィオラは何事もなかったかのように扉の前に立ち、俺の指示を待っている。
俺は硬くなったベッドの上で姿勢を直し、顎で扉をしゃくった。
「……開けてやれ」
ヴィオラが鍵を外し、錆びついた蝶番を鳴らして扉を開ける。
そこに立っていたのは、この安宿には場違いに身綺麗な男だった。
整えられた口髭。
高価そうなコート。
そして、顔に貼り付けたような薄気味悪い笑み。
男は鼻を小さく鳴らした。
この部屋の悪臭に、侮蔑の反応を示したのだ。
「夜分遅くに失礼します」
男はジロジロと俺たちと部屋を見渡すと、優雅に一礼した。
「私、この国の評議員であるザガン伯爵の代理人を務めております、ガレインと申します」
ガレインは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
カサリ
乾いた紙の音が、静寂の中でやけに耳障りに響く。
「単刀直入に申し上げます。貴方が連れているその美しいメイド――ヴィオラさんの『所有権譲渡契約書』をお持ちしました」
「……は?」
俺の口から、乾いた声が漏れる。 ガレインは悪びれもせず、さらに数枚の書類を重ねた。
「調査させていただきましたよ。あなた方の身分証、偽造ですね? 裏の業者が作った粗悪品だ」
「それがどうした」
「本来なら重罪です。投獄、あるいは鉱山送り。……ですが、伯爵は慈悲深い。この契約書にサインをいただければ、偽造の件は不問に処すと仰っています」
俺の中の血液が、急激に温度を失っていくのが分かった。
怒りではない。もっと底冷えする、諦念に近い感覚。
「断る、と言ったら?」
俺が低い声で問うと、ガレインは大げさに肩をすくめた。
「おや。賢明な判断を期待していたのですが」
その瞬間だ。
ドォンッ!!
安宿の薄いドアが、蹴破られる勢いで開かれた。
蝶番が悲鳴を上げ、錆びた鉄屑が床に散らばる。
湿った夜風と共に飛び込んできたのは、白い聖職衣を泥で汚した女――テレシアだった。
肩で息をしている。雨に濡れた金髪が頬に張り付き、彼女特有の清潔な石鹸の香りに、生温かい汗の臭いが混じっていた。
「その書類は……無効です……ッ!」
喉を焼くような喘鳴。
よほど急いで駆けつけてきたらしい。
だが、俺は彼女の必死な形相を見ても、眉ひとつ動かさなかった。
代わりに、喉の奥から冷たい笑いが込み上げてくる。
カフェで彼女と決別してから、まだ一日も経っていない。
このタイミングでの到着。
偶然であるはずがない。
「……また会えましたね、聖女様」
俺は椅子に深く座ったまま、氷のような声で口にする。
「……いつから見ていた?」
「っ……」
テレシアの身体が硬直する。
「私には……貴方が道を誤らないよう……保護観察の義務が……」
「市民の尾行と監視。それが聖女様のお役目か」
「違います! 私はただ、貴方を守りたくて……!」
「正直に言えばどうだ? 俺には信用がない、と」
俺は彼女の言葉を遮り、吐き捨てた。
守る? 違う。
こいつは俺が暴発しないよう、首輪を握っておきたいだけだ。
その欺瞞が鼻につく。
「まともな人間は、嫌がっている相手の寝室に押し入ったりしないんだよ、聖女様」
「……」
彼女が唇をわななかせ、反論しようとした時――
「おやおや。犯罪者と聖女様が痴話喧嘩ですか? 微笑ましいですねぇ」
パチ、パチ、パチ
乾いた拍手の音が、張り詰めた空気に割り込んだ。
ガレインだ。 彼は今のやり取りを、極上の喜劇として楽しんでいたらしい。
ニヤニヤと笑いながら、硬直するテレシアの前に歩み出る。
「ですがユースティア様。貴女の監視もここまでだ」
「……どういう意味ですか」
「こういうことですよ」
ガレインは懐から、もう一枚の紙切れを取り出した。
ヒラリ、と見せつけられた書類には、赤々とした蝋の印章が押されている。
「これは評議会の決定事項です。本件に関し、聖女テレシアの管轄権を一時凍結。以降、ザガン様に全権を委任する」
「な……っ!?」
テレシアが書類をひったくるように掴む。 視線が紙面を走り――そして、絶望に揺れた。
「そ、そんな……評議会の承認なんて、一日で下りるはずが……」
「手続きは適正に行われましたよ。全て、ルール通りです」
ガレインの声は、事務的ゆえに残酷だった。
「貴女が彼を監視していたように、我々も貴女を監視していた。……貴女の動きは、全て筒抜けだったんですよ」
テレシアの手から、書類が滑り落ちる。
カサリ、と床に落ちたその紙切れは、彼女の信じる「法」そのものだった。
彼女はマコトを守るために監視していた。
だが、その行動すらもザガン側に上回れ、先手を打たれたのだ。
「公務執行妨害で告発されたくなければ、そこを退いていただきましょうか」
「…………ッ」
テレシアは握りしめた拳に爪を食い込ませていた。
白く美しい肌が裂け、じわりと赤い血が滲む。
彼女は俺を見た。
何かを言いたげに口を開き――けれど、何も言えずに俯いた。
俺に拒絶され、法に裏切られた彼女には、もはやこの場に立っている資格すらなかった。
部屋には、ガレインのあざ笑うような声だけが響いている。
俺は冷めた紅茶を一口すすり、どこまでも無機質な声でヴィオラに告げた。
「ヴィオラ、ペンを貸せ」
「マコト様……?」
「サインすればいいんだろう? さっさと終わらせようぜ」
俺はテレシアを一瞥もしなかった。
これ以上、彼女の顔を見ていても、胸糞が悪くなるだけだからだ。
「……賢明なご判断です。これで、貴方の命は保証されました」
ガレインは俺がサインした書類を丁寧に折りたたみ、懐にしまった。
まるで宝物でも扱うかのような手つきだ。
それが俺たちの「首輪」であると誇示するかのように。
「では、明日の朝八時にまたお会いしましょう。――ユースティア様も、お引き取りを。これ以上は『公務』の妨げになります」
ガレインが扉を開ける。 吹き込んでくる夜風は、先ほどよりも湿り気を帯びていた。雨の匂いが濃くなっている。
テレシアは動かなかった。
濡れた前髪の隙間から、俺を見ている。
その瞳は揺れていた。
謝罪、後悔、あるいはまだ諦めきれない正義感。
だが、今の彼女にかける言葉など、俺は持ち合わせていない。
「……行けよ。邪魔だ」
俺は短く吐き捨て、視線を外した。
テレシアの肩がビクリと震える。
彼女は唇を噛み締め、部屋を出て行った。
ガレインの軽やかな足音と、テレシアの重い足音が遠ざかっていく。
部屋に、安宿特有の静寂とカビ臭さが戻ってきた。
俺はカップに残っていた冷たい紅茶を、一気に飲み干す。
苦い。渋い後味が舌に残る。
だが、これでいい。
この不快感こそが、俺に必要な燃料だ。
「マコト様」
ヴィオラが、音もなく背後に立っていた。
彼女の声は弾んでいた。
まるで、待ちに待ったプレゼントの箱を開ける直前の子供のように。
「あの男の背中、無防備でしたね。首をねじ切るのに一秒もいりませんでした」
「ああ、そうだな」
「女の心臓を止めるのも容易でした。……なぜ、見逃したのですか?」
ヴィオラが不思議そうに首を傾げる。
俺は空になったカップをテーブルに置き、答えた。
「テストだ」
「テスト、ですか?」
「この国に、俺たちが従うべき『正義』が存在するのか。それを確認したかった」
結果は出た。
法は腐り、正義は無力。
ミスリル級の聖女ですら、紙切れ一枚で沈黙させられる。
ならば、結論は一つだ。
俺は立ち上がり、窓の外を見下ろした。
雨に濡れたスラムの街並みが、どす黒く澱んで見える。
「ヴィオラ。俺は法を守ろうとした。手続きに従い、対話を試みた」
「はい、マコト様」
俺は窓ガラスに映る自分の顔を見た。
笑っていた。 怒りで歪んでいるのではない。
これから始まるテストの採点結果を想像して、口元が自然と吊り上がっていたのだ。
「明日の朝、いや、恐らく今晩にでも奴らは俺たちを回収に来る」
俺は振り返り、ヴィオラに命令を下した。
「準備しておけ。――次の予定は『大掃除』だ」
その言葉を聞いた瞬間、ヴィオラは満開の笑顔を咲かせた。
そしてスカートの裾をつまみ、優雅なカーテシーを披露する。
「御意。……明日が待ち遠しいですね、マコト様……」
部屋の隅で、蝋燭の火が怪しく揺れる。




