第23話 再会
爽やかな朝の陽ざしが、宿屋の窓から差し込んでいる。
部屋の古びた木製のテーブルには、安っぽい皿とナイフ。
そして赤い果実が一つ。
ヴィオラがナイフを動かす。
刃先が滑るたび、薄い皮が音もなく剥がれ落ちていく。
果肉には一切傷をつけず、果汁は一滴もこぼれない。
その所作は恐ろしく精密で異常だが、美しい。
「おはようございます、《《お兄様》》……」
ヴィオラが、剥いたばかりの果実を差し出す。
彼女はいつもの漆黒のメイド服を脱ぎ捨てていた。
代わりに身に纏っているのは、白を基調とした儚げなドレスだ。
胸元のリボンは慎ましく、スカートの丈は足首まである。
どこからどう見ても、ただの淑女にしか見えない。
「……おはよう、《《メアリー》》」
俺はため息交じりに答えた。
慣れない偽名を呼ぶ舌が、どこか上滑りする。
「ふふっ。この呼び方は新鮮ですね⋯⋯」
ヴィオラが口元を隠して笑う。
その動作一つとっても、この安宿には不釣り合いな気品が漂っていた。
ふと、外から規則正しい足音が響いてくる。
窓から通りを見下ろすと、銀色の鎧を着た憲兵隊が行進していた。
法治国家の象徴。 秩序の番人。
治安維持局に所属する兵士たちだ。
「法や秩序は、弱者を守るためのものだ」
俺は独りごちた。
だが、本当に追い詰められた時、ペンは剣に勝てない。
それは前世で味わった無力感であり、今世で手に入れた確信だった。
視線を戻し、ヴィオラを見る。
この圧倒的な暴力装置さえあれば、俺はどんな理不尽もねじ伏せることができる。
「行くぞ。……いや、行きましょうか、妹よ」
「はい、お兄様」
ヴィオラが恭しく頭を下げる。
設定はこうだ。
病弱な貴族の令嬢、メアリー。
その世話をする苦労人の兄、ジョン。
これなら、変装で隠し切れないヴィオラの気品も美貌も誤魔化せる。
俺たちは部屋を出た。
ヴィオラが咳き込む演技をし、ハンカチで口元を押さえる。
その指先の角度、伏せられた睫毛の震え。
すれ違った宿泊客が、思わず足を止めて見惚れていた。
「……目立ちすぎだ」
俺は小声で呟いた。
◇
大通りは活気に満ちていた。
馬車の車輪が石畳を叩く音、露天商の呼び込み、香辛料と焼き菓子の匂い。
リブラ共和国首都、メリクス。
人口二十万を誇る、この国最大の都市だ。
「人間が多くて、不快ですね」
ヴィオラが日傘の下で呟く。
その紫の瞳は、楽しげに行き交う人々を、屠殺場に並ぶ家畜を見るような目で見つめていた。
「間引きましょうか?」
「やめろ」
俺は即答した。
その時、近くで子供の泣き叫ぶ声がした。
露店の飴をねだって、癇癪を起こしているようだ。
ギャァァァァ!
耳をつんざく金切り声。
ヴィオラが立ち止まった。
彼女は子供の方を向き、聖母のように慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
彼女は俺を見上げ、潤んだ瞳で囁いた。
「お兄様、あのお子様、喉が辛そうですね。……指先で少し突いて、二度と音が出ないようにして差し上げましょうか?」
俺は笑顔を崩さず、彼女の二の腕を強くつねった。
「……メアリー。人前で物騒な冗談はよしなさい」
小声で警告する。
周囲からは、兄が妹を諌めているようにしか見えないはずだ。
俺たちは逃げるようにその場を離れた。
これでは猛獣に首輪をつけず散歩させているようなものだ。
平穏なはずの散歩が、綱渡りのような緊張感に変わる。
◇
大通りに面したオープンカフェ。
俺たちは周囲を観察できるよう、店の奥の席に陣取った。
店内は平和そのものだ。
談笑する貴婦人、紅茶を嗜む老紳士。
「お兄様、ミルクはいかがですか?」
ヴィオラがポットを持ち上げる。
その動作は優雅で、無駄がない。
通りがかりの給仕係が、ヴィオラの所作に見惚れて足を止めた。
だが、次の瞬間、彼女はビクリと身体を震わせ、慌てて目を逸らして去っていった。
ヴィオラが微笑みの裏で放った、針のような眼光に射抜かれたのだ。
「……妹よ、もう少し気配を抑えてくれ」
俺はカップを受け取りながら小声で注意する。
「申し訳ありません。これでも抑えているつもりなのですが、つい……」
ヴィオラは謝罪し、俺のコーヒーにミルクを垂らした。
白が混ざり合い、渦を巻く。
俺はカップを口に運び、席から通りを眺める。
無防備だ。
誰も武装などしていない。
誰も背後を警戒していない。
この無防備で愚かな羊の群れ。
その喉元に、いつでも牙を突き立てられる狼が紛れ込んでいるというのに。
「完璧だ」
俺はコーヒーを飲み干し、深く息を吐いた。
「誰も俺たちを知らない。俺たちはこの街で、誰よりも自由に振る舞える」
俺たちを縛るものはもうない。
ここがようやく辿り着いた、旅の終着点だ。
その時だった。
フワリ。
風が変わった。
街の雑踏、食べ物の匂い、人々の笑い声。
それらが一瞬で掻き消える。
代わりに俺の鼻をついたのは、陽だまりを煮詰めたような、過剰なまでの光の匂い。
「っ……?」
本能的に口元を押さえた。
思わず吐き気がした。
カチャッ
ヴィオラが、カップをソーサーに戻した。
その手が、微かに強張っている。
「……マコト様」
彼女の声から、演技の色が消えた。
「不快な存在が接近してきます」
ざわめきが消えていく。
カツ、カツ、カツ
鎧を纏った硬質な足音が、鼓膜ではなく、俺の心臓を直接叩いているように響く。
その音が近づくたびに、脈拍が強制的にそのリズムに同期させられていく。
拒絶反応による不整脈。
生物が、天敵の足音を聞いた時に流す冷や汗が、背中を伝った。
通りを走り回っていた子供が、母親のスカートに顔を埋めて震えだす。
誰もが、彼女の放つ眩しすぎる光を直視できず、本能的に道を譲っていた。
王族すら凌駕する、有無を言わせぬ圧迫感。
俺の防衛本能が、けたたましく警鐘を鳴らした。
「完璧な変装」
「誰も知らない場所」
その前提が、音を立てて崩れ去る音がした。
顔を上げるのが怖い。
胃の腑が鉛のように重い。
俺はこの気配を知っている。
世界で一番、俺たちと相性の悪い相手だ。
逃げ場はない。
既にロックオンされているのが、肌で分かった。
俺たちのテーブルに、一人の影が落ちた。
「相席、よろしいですか?」
聞き覚えのある声だ。
凛とした、しかしどこか慈愛に満ちた、あの声。
俺は恐る恐る顔を上げた。
逆光の中、白銀の髪が輝いている。
そこには、『聖女』テレシアが立っていた。
彼女は、周囲の人間が思わずひれ伏したくなるほどの、圧倒的な光を撒き散らしながら、俺たちだけを見つめている。
その慈愛に満ちた笑顔が、俺にとっては何よりも恐ろしく見えた。
彼女の唇が動く。
「……またお会いできましたね、マコトさん」




