第19話 隠蔽工作
「さて、仕上げと行きましょう」
鼻を突く血の臭いと、焦げた脂の臭気が充満する洞窟前。
俺は足元に転がっていた、刃こぼれした長剣を拾い上げた。
ずっしりととした鉄の重み。
柄には、持ち主だった誰かの手脂と、まだ乾いていない血がべっとりと付着している。
俺はその剣を、呆然と立ち尽くすマックスへと差し出した。
「マックスさん。お願いします」
「……は?」
マックスが焦点の合わない目で俺を見る。
「偽装工作ですよ。見てください、この岩壁を」
俺はヴィオラが断ち切った岩盤を指差した。
鏡のように滑らかな切断面。
指で触れても引っかかり一つない。
ゴブリンの肉体も同様だ。
細胞単位で断裂したかのような、あまりに綺麗すぎる死体。
「異常すぎます。これでは『銀級冒険者が剣で戦った』という筋書きが通りません」
俺はマックスの手を取り、無理やり剣を握らせた。
「上書きしてください。もっと泥臭く、無様に、必死に戦った痕跡を」
「な、何を……」
「ほら、そこ。綺麗すぎる切断面を、その剣で叩き切るんです。……ゴブリンの死体も、もっとグチャグチャに斬り刻んでください」
俺はマックスの耳元で囁いた。
「あなたは冒険者なんでしょう? 激戦の末に勝ったんでしょう? なら、それ相応の傷跡が必要だ」
「ひっ、うぅ……」
「やってください。……今すぐに」
背後で、ヴィオラがわざとらしくヒールの音を鳴らした。
カツン。
その硬質な音が、マックスの背骨を凍らせたようだった。
「う、うあぁぁぁぁぁっ!!」
マックスが半狂乱で叫び、剣を振り上げた。
ガキンッ! ガギッ! ドゴッ!
彼が岩盤を叩くたびに、火花が散り、無粋な亀裂が走る。
美しい切断面が、ただの破壊痕へと汚されていく。
彼はそのまま、ゴブリンの死体にも剣を突き立てた。
ブジュッ。グチャッ
死体を損壊する生々しい音が響く。
飛び散る血肉。荒い息遣い。
マックスは涙と鼻水を垂れ流しながら、ひたすらに剣を振るい続けた。
自分の精神を削りながら、自分自身を共犯者という名の檻に閉じ込めていく作業。
俺はその無様な姿を、冷ややかに見下ろしていた。
同情はない。
あるのは、「これで言い訳が立つな」という、事務的な確認だけだった。
◇
夕闇が迫る街道。
ベルファストへの帰路は、葬列のように静かだった。
先頭を歩くマックスの背中は、老人のように丸まっている。
彼の鎧には、新しい返り血と泥がこびりつき、手は痙攣したように震え続けている。
物理的な汚れだけではない。
魂にこびりついた嘘と罪悪感の重さが、彼の歩みを鈍らせていた。
冒険者ギルドの扉を開ける。
熱気と喧騒が、冷え切った俺たちの肌に叩きつけられる。
「おい、あれ……『灰狼の牙』か?」
「ひでえ有様だな……」
マックスがよろめきながらカウンターへ向かう。
彼は震える唇を開いた。
「……報告する。ゴブリンの群れは……討ち取った……」
歓声が上がりかける。
直後、マックスは泣き崩れた。
「だが、俺のミスだ……! 同行した鉄級が一組全滅しちまった……俺が、俺がもっと上手くやれば……!」
それは演技ではなかった。
恐怖と後悔、そして逃げ場のない自己嫌悪が吐き出させた、本物の慟哭。
周囲の視線が、侮蔑と同情に入り混じる。
俺はその喧騒の陰で、小さく息を吐いた。
誰の目も、俺たち「運良く生き残っただけの雑魚」には向いていない。
完璧だ。
これで、俺たちの平穏は守られた。
そう、思っていた。
◇
その夜。ギルドマスターの執務室。
分厚い黒檀の机の上に、ゴロリと何かが置かれた音。
それは、布に包まれた肉塊――討伐証明部位として持ち帰られた、ゴブリンの死体の一部だった。
「……マスター。これを見てください」
解体場から上がってきた報告者が、ピンセットで肉塊の断面を開く。
ギルドマスターである初老の男が、眼鏡の位置を直し、それを覗き込んだ。
「表面は剣で乱雑に切られた痕跡があります。……ですが、中を見てください」
報告者の指先が、骨の断面をなぞる。
「骨の断面が、鏡のように光を反射しています。ヒビ一つ、欠け一つない」
マスターの眉間の皺が深くなる。
「ありえません。どんな名剣だろうと、骨を断てば『切る』か『砕く』痕跡が残る。摩擦で断面が荒れるはずです。ですがこれは……」
報告者は声を潜め、戦慄を含んだ声で続けた。
「あまりに鮮やかすぎます。摩擦の痕跡すらなく、細胞が斬られたことに気づいていないほどだ。まるで、そこにあった空間そのものが、最初から『断ち切られていた』かのような……」
報告者は顔を上げ、青ざめた顔で首を振った。
「これは、銀級冒険者の剣技ではありません。ましてや、マックスが使っているような安物の剣でできる芸当じゃない。……物理法則を無視した、もっと異質な力による痕跡です」
マスターは無言で肉塊から目を逸らし、もう一枚の書類――マックスへの聴取記録――を手に取った。
「マックスの様子はどうだった?」
「尋問官が少しカマをかけただけで、失禁して泣き出しましたよ。『黒い死神』『俺たちは何も見ていない』と、うわ言のように繰り返すばかりで……完全に壊れています」
マスターが重苦しい溜息をつく。
指で机を叩く。コツ、コツ、という音が、冷徹な計算の時間を刻む。
物理的な証拠と、生存者の異常な反応。
結論は一つしかない。
「マックスたちは囮だ。……本命は、後ろにいた『あの二人』か」
以前より目をつけていた怪しい二人組だった。
ここにきて馬脚をあらわしたということか。
マスターの瞳に、昏い光が宿る。
恐怖ではない。
強欲な商人が、危険だが莫大な利益を生む商品を見つけた時の、計算高い目だ。
「この力を野放しにはできん。国に知られる前に確保するべきか、いや……」
彼は更に思案を巡らせ、結論を出す。
「ここまで力を隠し、隠蔽工作までするような奴らだ。素直にこちらに応じはしないだろう。確実に処理して死体を研究すべきだな」
彼は手元の呼び鈴を鳴らした。
部屋に入ってきた職員に、短く告げる。
「彼らは帰還しているな? すぐに準備させろ。場所は『旧管理棟』だ」
◇
翌日の昼下がり。
宿の食堂で遅い昼食をとっていた俺たちのもとに、一人の男が現れた。
黒い制服に身を包んだ、ギルドの監査部の職員だ。
男は笑顔一つ見せず、一枚の羊皮紙をテーブルに置いた。
「マコト様、ヴィオラ様ですね。ギルド本部より、重要参考人としての出頭命令が出ています」
「出頭?」
俺は食事の手を止めた。
特別報酬だとか、祝いだとか、そんな甘い言葉ではない。
公的な権力を笠に着た、逃げ場のない呼び出しだ。
「昨日のクエストに関して、回収された死骸と討伐部位から、報告書と矛盾する痕跡が見つかりました。詳細な事情聴取を行います」
男の目は笑っていない。
その腰には、警棒のような魔導具が吊るされている。
拒否すれば、即座に公務執行妨害で拘束する構えだ。
「場所は『旧ギルド管理棟』です。……馬車を用意してあります。今すぐ、ご同行を」
旧管理棟。
街外れにある、石造りの堅牢な建物だ。
防音性は完璧。中で誰が悲鳴を上げようと、外には漏れない。
俺は、咀嚼していた肉を飲み込んだ。
味がしない。
胃の腑に、冷たい鉛が落ちたような感覚。
(……ああ、そうか)
バレている。
素人の浅知恵の偽装工作など、プロの鑑識眼の前では無意味だったのだ。
骨の断面、細胞の壊死。そんなミクロな痕跡まで、奴らは見逃さなかったのか。
そして、その上で俺たちを呼び出した。
話し合いのため?
いや、それならギルドの応接室でいい。
わざわざ牢獄のような隔離施設に呼ぶ理由は、一つしかない。
消す気だ。
社会的に、あるいは物理的にか。
俺はテーブルの下で拳を強く握りしめた。
この国に来れば、平穏が得られると思っていた。
金を払い、ルールを守り、目立たないように振る舞えば、普通に生きられると信じていた。
だが、現実はこれだ。
力ある者は搾取され、あるいは危険視されて排除される。
腐敗と暴力。結局、どこへ行っても変わらない。
「……はぁ」
俺の口から、乾いた息が漏れた。
失望。そして、奇妙な納得。
世界が俺たちを放っておかないのなら、こちらもやり方を変えるしかない。
「マコト様?」
ヴィオラが小首を傾げる。
彼女は紅茶のカップを持ったまま、微動だにしていない。
だが、その紫の瞳の奥で、どす黒い炎が揺らめき始めていた。
俺は彼女を見つめ返し、静かに頷いた。
もう、保身のために嘘をつくのは終わりだ。
降りかかる火の粉は、払うのではない。火元ごと消し去ろう。
「……分かりました。同行しましょう」
俺は立ち上がった。
その声には、もう怯えも迷いもなかった。
「やっぱりこの国は、どこもかしこも腐ってるな」
俺はぼそりと、冷たくつぶやいた。
「掃除の時間だ、ヴィオラ」
「御意」
ヴィオラが、満開の花のように美しく、そして残酷に微笑んだ。
俺たちは、用意された馬車へと乗り込む。
それは処刑台への護送車ではない。
この街を浄化するための、死神の巡行の始まりだった。




