第17話 諦め
まどろみの中、後頭部を包み込む柔らかな感触があった。
硬い岩盤の上ではない。
人肌の温もりと、適度な弾力。
吸い込んだ空気に、洞窟特有のカビ臭さはなく、甘いバニラのような芳香が混じっている。
「……マコト様」
鼓膜を優しく撫でる声。
瞼を持ち上げると、視界のすべてをヴィオラの顔が覆っていた。
長い睫毛が落とす影まで数えられるほどの至近距離。
「申し訳ありません、起きてくださいますか?」
どうやら俺は彼女の太ももを枕に、意識を飛ばしていたらしい。
前にもこんな事があったな⋯⋯ふと俺は、この世界に来て初めて目にした光景を思い出していた。
しかしいくら彼女が側にいるからとはいえ、モンスターの巣穴の前でここまで気を緩めるとは、俺もどうかしていたようだ。
「すまなかったなヴィオラ。俺はどれくらい寝てた?」
「1時間ほどです。マコト様の寝顔があまりに愛らしく、永遠に見ていたかったのですが……どうやら洞窟に入った人間共が帰って来る気配がしたので、恐縮ながら起こさせていただきました」
「ん、そうか。ありがとうヴィオラ」
俺は慌てて身を起こす。
この失態を他の冒険者に見られなくて助かった。
クラスもない、スキルもない役立たずの男が、自分たちが命がけでモンスターを討伐してきたというのに、美女の膝枕で呑気に昼寝をしていた。
そんな光景を彼らに見られた暁には、ただでさえ低い俺の心証が地の底まで落ちるのは間違いない。
最悪の場合、この街での冒険者稼業を引退せざるを得なかっただろう。
「マコト様、襟元が乱れております」
ヴィオラが手早く俺の襟を直し、髪を整える。その手際は完璧なメイドのそれだ。
俺は咳払いを一つして、いかにも「しっかり見張りの仕事をしていましたよ」といった真面目な雰囲気を形だけでも整え、彼らの帰りを待った。
だが、どうも様子がおかしい。
洞窟の奥から響いてくる音が、凱旋の足音ではないことに気づく。
その時だ。
ギャアアアアアアアアアアッ!!!!
空気を物理的に震わせる絶叫が、鼓膜を殴りつけた。
洞窟の暗闇から、何かが転がり出てくる。
泥と血にまみれた銀色の塊。
銀級パーティー『灰狼の牙』のリーダー、マックスたちだ。
その後ろから、もう一組の鉄級パーティーが続く。
マックスは地面に手を突き、無様に這いずりながら太陽の下へ飛び出してきた。
だが、その姿に先程までの威厳ある戦士の面影はない。
瞳孔は限界まで開ききり、白目が血走っている。
口元からは泡が垂れ、呼吸は過呼吸でヒューヒューと笛のような音を立てていた。
そして何より、酷い悪臭が鼻をついた。
鉄の錆びたような血の匂い。
それ以上に強烈な、ツンと鼻を刺すアンモニア臭。
マックスの股間から太ももにかけて、濃い染みが広がり、地面を濡らしている。
「あ、あ、あ……」
彼は歯をカスタネットのように鳴らしながら、俺たちなど目に入っていない様子で、背後の闇を振り返った。
「マックスさん?」
俺が声をかけると、彼はビクリと痙攣し、焦点の合わない目で俺を見た。
「く、来るな……いやだ、食われる、食われるぅぅッ!!」
彼は剣を捨てていた。
人間としての尊厳も、プロとしての矜持も、すべてあの暗闇の中に垂れ流して逃げてきたのだ。
「マックスさん! 何があったんですか!? もう一組のパーティーは……?」
俺が駆け寄って問うと、マックスは血走った目で俺を睨みつけた。
「あァ!? 死んだよ! 全滅だ!」
「全滅……!?」
「この洞窟にいるのは群れなんて生易しいもんじゃねえ! ロードに率いられたゴブリンの『軍団』だ!」
死んだ。
先程まで顔を合わせていた、歴戦の鉄級パーティーが。
俺がヴィオラの膝枕で惰眠を貪っている間に全滅したというのか。
「それで、マックスさん達は逃げ帰ってきた、と?」
俺が呆然と呟いた言葉が、マックスの逆鱗に触れたらしい。
「あ!? 舐めてんのかお前!? クソが!」
マックスが俺の胸倉を掴み上げんばかりの勢いで怒鳴り散らす。
「ああそうだよ逃げたんだよ! これは金級以上の案件だ! あんなの相手にできるか!!!」
俺の不用意な発言が彼のプライドを傷つけてしまったのだろう。
いや、それ以上に彼は錯乱状態だった。
「すみませんでした……では、すぐにギルドに戻って報告したほうが良さそうですね」
俺がなだめるように言うと、マックスはハッとして後ろを振り返った。
「ああ……!? クソッ! あいつら追って来やがった!」
洞窟の入口から、どす黒い波が溢れ出そうとしている。
ズズッ……ズズズッ……
奥から無数の足音が響いてくる。
ゴキブリの群れが床を這い回るような、生理的な嫌悪感を催す音。
溢れ出してきたのは、緑と黒の津波だった。
錆びた剣、手斧、そして人間の千切れた手足を武器代わりに持ったゴブリンの大群。
その数は百を下らない。
先頭の個体は、まだ新しい血肉を口の周りにこびりつかせ、ケタケタと耳障りな笑い声を上げている。
その後方。
岩盤を砕く重厚な足音と共に、身の丈三メートルを超える巨体が現れた。
ゴブリンロードだ。
その手には、ひしゃげた鉄鎧を着たままの「肉塊」が握られている。
ついさっきまで鉄級冒険者だったモノだ。
マックスが喉の奥でひきつけを起こし、白目を剥いた。
絶望的な状況。
死の行進。
だが、俺の隣に立つヴィオラだけは、心拍数一つ変えていなかった。
彼女は、なんの動揺も無く虚空を見つめている。
俺は小さく息を吐き、彼女に問いかけた。
「……ヴィオラ。気づいてたな?」
責める口調ではない。ただの確認だ。
彼女の探知能力なら、この洞窟に潜むモンスターの総量など、最初から分かっていたはずだ。
ヴィオラは俺の方を向き、悪びれもせず肯定した。
「はい。洞窟内から、不快な害虫の羽音が多数確認できました」
「……」
「ですが、マコト様に害が及ぶ気配はありませんでしたので、あの人間共が処理されるのを待ってから、私が掃除すればよいと判断いたしました」
やはりそうか。
俺は怒る気にもなれなかった。
彼女にとって、俺以外の人間は風景でしかない。
それが壊れようが死のうが、報告に値しないのだ。
その狂った論理が、今の俺にはストンと腑に落ちる。
「……そうだな。お前なら、そう判断するよな」
俺は諦めと共に、微かな安堵を覚えた。
この怪物が、マトモな基準で動くはずがない。
そのズレこそが、俺たちが共犯者である証だ。
俺は視線を前方に戻す。
ゴブリンの群れが、涎を垂らしながらこちらへ殺到しようとしている。
このまま放置すれば、俺たち以外は全滅する。
俺たちも襲われる。
ヴィオラがいれば逃げるのは容易だ。
だが、ここで逃げれば、「仲間を見捨てて逃げた無能」として、後で面倒な尋問を受けることになるかもしれない。
俺たちの「平穏な潜伏生活」に、傷がつく。
それだけは避けたい。
(……掃除の時間だ)
俺の中で、スイッチが切り替わる音がした。
善意ではない。
これは、俺の平穏な生活を守るための、事務的な処理作業だ。
「ヴィオラ」
俺は短く彼女の名を呼んだ。
「あの汚物共を片付けろ」
「御意」
ヴィオラが微笑む。
それは慈愛の笑みではない。
獲物の首筋に牙を突き立てる直前の、捕食者の歓喜の笑顔。
彼女が右手を、何もない空間へと突き入れた。
ズガガガガガッ……!
大気が悲鳴を上げる。
空間そのものがガラスのようにひび割れ、その裂け目から、光を吸い込む漆黒の大剣が引きずり出された。
「な、なんだ……あれ……?」
その常識外れの光景を、マックスをはじめとする他の冒険者たちは、ただ呆気にとられた様子で見上げていた。
迫りくるゴブリンの恐怖など忘れたかのように。
ゴブリンたちの笑い声が止まる。
ロードが足を止める。
彼らは本能で理解したのだ。
自分たちが「捕食者」から、ただの「餌」に成り下がったことを。
「貴様らのような下等モンスターに、マコト様の視界に映る資格などありません」
ヴィオラが大剣を構える。
その周囲で重力が歪み、小石が浮き上がった。
俺は眩しさに目を細めるように、空を見上げた。
雲ひとつない青空。
これから始まる一方的な蹂躙劇には似合わない、突き抜けるような蒼穹が広がっていた。




