第15話 涙の理由
買い物を済ませ、俺はヴィオラを待たせている広場へと戻った。
広場は休日を楽しむ人々でごった返している。
だが、俺はすぐにヴィオラの居場所を見つけることができた。
探す必要もなかった。
そこだけ、ぽっかりと不自然な空白地帯ができていたからだ。
広場の隅にあるベンチ。
そこに座るヴィオラを中心として、半径五メートル以内に人っ子一人存在しない。
彼女が何かしたわけではない。ただ座って俯いているだけだ。
だが、道行く人々は無意識にその場所を避け、視線すら向けずに通り過ぎていく。
本能が警鐘を鳴らしているのだ。
あそこには、触れてはいけない何かが座っていると。
「……はぁ」
俺は重い溜息をつき、その空白地帯へと足を踏み入れた。
俺が近づくと、肌を刺すような冷たい空気がふっと緩んだ気がした。
俺は彼女の隣に腰を下ろす。
「待たせたな」
「ッ! マコト様……!」
ヴィオラが弾かれたように顔を上げた。
その瞳に宿っていた虚無の闇が、一瞬で熱っぽい歓喜の色に塗り替わる。
「お戻りになられたのですね……! ご無事で何よりでした、我が主、マコト様……!」
「大袈裟だな。たかだか数十分だろ」
俺は苦笑しつつ、買ってきたばかりの小さな包みを彼女に放った。
「ほら、これ」
「……これは?」
ヴィオラが包みを空中で受け止める。
俺は視線を逸らし、ぶっきらぼうに言った。
「言ったろ。俺が買い物する間、大人しく待てって。……その褒美だ」
「頂いても、よろしいのですか……?」
「ああ、お前のために買ったんだ。開けてみてくれ」
そう聞くと、ヴィオラは歓喜に全身を震わせた様子で、包を優しく丁寧に広げていく。
「これは……ネックレス、でしょうか……」
「ああ、人にプレゼント贈ったことなんて今まで無かったし、まして女の子の好みなんかさっぱり分からなかったけど……なんとなく、お前に似合いそうだなって思ってな」
ヴィオラが手に持ち、直上から降り注ぐ日光にかざしたそれは、黄色いガラス玉があしらわれた、安物のネックレスだった。
決して高価な品ではない。先日の薬草採取クエストの報酬から夕飯の串焼き肉を買った残りの銅貨で買った、安物のアクセサリーだ。
もちろん、もっと高価なものを買おうと思えば買えた。本物の宝石でも買えるくらいの蓄えはまだある。
だが、ヴィオラへのプレゼントを死体から巻き上げた金で買うのというのは、何か違う気がしたのでやめた。
それに、たとえ安物でも、マコトがヴィオラのことを想って選んだというのは事実だった。
「あー、その、もし好みじゃなかったのなら申し訳ないが……」
俯き、ネックレスを眺めたまま無言のヴィオラに、マコトが言い訳をしようとした。
だが次の瞬間、俺は驚愕した。
ヴィオラが、泣いているのだ。
人外の特異点、人を人とも思わぬ怪物、数多の敵兵を殺し尽くし、王国の英雄すら相手にならなかった悪魔のメイドが、大粒の涙を浮かべ、顔をクシャクシャにして泣いている。
「ど、どうしたぁ!?」
この世界に来て初めての異常事態に、俺は慌てふためく。
すると、少し落ち着きを取り戻したのか、ヴィオラが目を赤くしながら答えた。
「申し訳……ありません……身に余る光栄に思わず感極まってしまい……本当に申し訳ありません……愚かで無能な私にこのような……」
どうやら彼女の涙の理由は嬉し泣きだったようだ。俺は胸を撫で下ろした。
「……馬鹿野郎」
「? マコト様?」
「愚かだとか無能だとか、自分で自分のことをそんなふうに言うなよ……」
ヴィオラの涙にあてられて、なぜだか俺も感情的に言葉を紡いでしまう。
「最初にお前と森で出会って、デカい熊の怪物から守ってくれたときも、夜を明かすときも、あの村で兵士共と戦ってくれたときも、消し炭にされそうになったときも、国境を越えるときも、この国に来てからも……ずっと俺はお前に助けられっぱなしで……無能で情けないのは俺の方だ……ヴィオラ、いつもありがとう」
こんなにストレートに他人に自分の気持ちを伝えたのはいつぶりだろう。
いや、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。気づかぬ内に俺の目頭も熱くなっていた。
「そのようなこと!」
ヴィオラが叫ぶ。行き交う人々が驚いてこちらを見つめているが、二人の視界には映っていない。
「以前にも申し上げましたが、マコト様はただそこにいてくださるだけでよろしいのです! 私の幸福は、マコト様がこの世界に存在すること。ただそれだけで、私は満たされているのです! マコト様が私に感謝など、もったいない……」
ヴィオラがそう叫ぶと、また涙目になる。
彼女は、市場に並ぶ本物の宝石類には見向きもしなかった。
なのに、今はこの安物のガラス玉を、小さく震える手で握りしめている。
まるでこの世にたった一つの、かけがえのない宝物かのように
俺はそんな彼女を胸に抱き寄せ、背中を撫でた。
「ありがとう、ヴィオラ――」
「あっ……」
俺達はしばらくそうして、無言の時を過ごした。
世界から切り離された、二人だけの閉じた時間を。
◇
「落ち着いたか?」
「はい……大変お見苦しい姿をお見せしました……ましてや主たるマコト様に背をさすっていただくなど……」
ヴィオラが今度は恥ずかしさと情けなさに耐えきれず泣き出しそうになる。
「気にすんなって……俺はお前にも涙を流す機能が備わってたことが知れて嬉しいよ……」
実際、彼女のこんな姿を見ることができるとは思わなかった。
「……先程から少々騒音が煩いですね。お耳障りでしたら、ここにいる全員、即座に排除いたしましょうか?」
いつの間にか普段の調子に戻っていたヴィオラが、平然とそう聞いてきた。
「いや、いい。たまにはこういうのも悪くない」
「……畏まりました。マコト様の御心のままに」
俺達はしばらくの間、お互いに無言でベンチに座り、景色を見つめていた。
目の前を、楽しそうに笑う家族連れや、腕を組んだ恋人たちが通り過ぎていく。
かつて俺が憧れていた、普通の幸せがそこにはあった。
しかし、俺はもうそちら側には行けない。
己の手を血で汚し、世界を敵に回す怪物を連れた自分は、ガラス一枚隔てた《《こちら》》側の存在なのだと痛感する。
だが、それでいい。今の俺には、この最愛の共犯者がついている。
「……そろそろ腹減ってきたな。ヴィオラ、今度は一緒に屋台を見に行こうぜ」
「はい! マコト様!喜んでお供します!」
ヴィオラが笑顔で答える。先程までの泣き顔が嘘のような、晴れ渡る青空のように爽やかな笑顔だった。
俺はヴィオラの手を引き、市場の通りを進む。
マコトにエスコートされ後ろをついて歩く彼女の胸元で、小さな黄色のネックレスが、陽の光を浴びて光り輝いていた――
◇
「……あれが報告にあった謎のメイドとその主人、か……」
都市の路地裏、日の光が届かぬ闇の中で、影が小さく言葉を漏らした。
その目は獲物を値踏みする蛇のように、冷たく光っていた。




