おもひで屋台
寒空の下、ぽつんと暖かく光る屋台がひとつ。
ある男──岡島は引き寄せられるように、その屋台へと歩いて行く。
屋台の暖簾をめくると、その向こうではラーメンの湯気が立ちのぼっていた。
「いらっしゃーせー!」
屋台の店主の元気な声が響く。
岡島は言った。
「味噌ラーメンひとつ」
「あいよっ。味噌いっちょう!」
岡島は屋台の椅子に腰かけ、ふうと息を吐く。
それから、湯気の香りを顔に浴びながらフリースを一枚脱いだ。
すぐに味噌ラーメンが目の前にやって来る。
「はいっ、味噌ラーメンのお客様!」
その味噌ラーメンには、大量のもやしとわかめが乗っていた。チャーシューやメンマは見当たらない。岡島は緊張の面持ちで、その味噌ラーメンに口をつけた。
ズルズルッ。
生姜と、味噌の甘味があとを引く脂っこいスープ。それをまとった麺からは、微かに懐かしい卵の香り。
岡島の鼻が、過去の記憶を呼び覚ました。
「ああ。これは、母がよく作ってくれた味噌ラーメンの──」
思わず呟いた、その時だった。
「私も、いいかしら」
岡島の隣に、初老の女性が現れた。
彼は顔を上げて思わず呟く。
「母さん……」
「あらあら泰典、あなたも来ていたの?」
岡島は鼻をすすった。
「……うん」
「私もラーメンいただこうかしら。何がお勧め?」
ラーメン作りに夢中でもの言わぬ店主に代わり、岡島が応えた。
「味噌がいいよ、母さん」
「そう?そういえばあんた、味噌ラーメンが好きだったものね」
岡島は胸が詰まって何も言わず頷いた。
母が言う。
「すいませーん。味噌ラーメン、もうひとつ!」
「あいよっ。味噌ラーメン、もういっちょう!」
その間、岡島はふうふう言いながらラーメンをすする。
(これはあの頃、母の作っていた味噌ラーメンそのものだ)
岡島が感動していると、母の前にも味噌ラーメンがやって来た。
彼女もふうふう言いながら、麺をスルスルとすする。
「あら、懐かしいわねぇ」
母が言う。
「この味噌ラーメン、私がよく作っていたやつだわ。あの頃はお金がなくってね、チャーシューが買えないから大量のもやしとわかめで誤魔化したの。あんたはよく食べるから、どうにか嵩増しして」
岡島は鼻をすする。
「あん時はそういうのよく分からなかったけど……ありがとね」
「まあそのおかげか、あんたこんなに大きくなったじゃない!」
「……」
「あら、そういえば……ずいぶんやつれてるわね、泰典」
「……」
「こんなところで外食ばかりしているから老け込んじゃうのよ。自分でちゃんとご飯作りなさい。香織ちゃんがいなくなったからって、いい加減なものばかり食べてちゃダメよ」
母の、いつものお小言が始まった。
岡島は色々な感情に耐え切れなくなって、目の前の店主に言う。
「大将、お勘定。母さんの分も」
店主は頷くと、夢から醒めたようにこう言った。
「次はどうします?」
岡島は答えた。
「おでんがいいな」
「あいよっ」
母が言う。
「私の分まで払って貰って、悪いわね」
「いいんだよ。金なんか、そんなにあってもしょうがないし」
「ふーん、そう?じゃあ、お願いしちゃおうかな」
母は立ち上がった。
「先に出るわね、泰典」
「うん。じゃあ、また……」
屋台には、再び岡島と店主が残された。
ラーメンの湯気が霧のように拡散し、岡島の視界は再び靄に包まれる──
気付くと、岡島は再び屋台の光に誘われ歩いていた。
遠くから、懐かしいしょうゆの香りが漂って来る。
のれんには「おでん」と書かれていた。
そこをくぐると、父が待っていた。
「おう泰典。ここ、お前の指定席な!」
岡島は苦笑する。
「久しぶり、父さん。やっぱ……若いね」
「何だ?」
「……ううん、何でもない」
屋台の店主が問う。
「何になさいますか?」
岡島とその父は屋台の屋根に貼ってあるメニューを見上げた。
「俺、餅巾着と大根!泰典は?」
「俺……がんもとこんにゃく、あとカラシで」
「おっ?泰典、辛いの食べられるようになったのか~!」
そうだった。父はその頑固そうな顔に似合わず、ひょうきんな男だった。そんなことをふと思い出し、岡島の胸は詰まる。
父が言う。
「泰典、もっと頼んでいいぞ。ちくわぶも好きだっただろ?」
「……父さん。俺もう、ちくわぶは好きじゃないんだ」
「何でだ?」
「うーん……酒に合わないからね、ちくわぶ」
「何おっさんみないなこと言ってるんだ?……おっと。いつの間にか随分老けたな、泰典」
「……」
岡島は静かにその言葉を味わってから、小さく声を落とす。
「だって親父、俺が10歳の時に死んでるんだもの……」
二人の前に、ほかほかのおでんがやって来た。
金物のボウルからはみ出しそうになりながら、こんにゃくとがんもどきが熱い出汁に浸かっている。ボウルのへりには、べとっと黄色いカラシが塗られていた。
「おっ、美味そうだな!」
「……いただきます」
二人は熱々のおでんをほくほくと食べた。
「うんめぇっ。久々に屋台で食べたなぁ、泰典!」
「……」
「お前、覚えてるか?駅前のおでん屋台。あそこで俺たち、よく買い食いしたよなぁ」
「……」
「あの頃のお前はよく太ってて、店の親父がおまけにこんにゃくくれたもんだよな!」
「……」
岡島はしみじみと、おでんの香りと父の声に思いをはせる。
すると。
「岡島さん、そろそろお会計ですか?」
岡島のおでんが無くなった頃を見計らって、店主が声をかけて来た。
「そうか、20分間の約束だもんな。……じゃあ次はたこ焼き屋台で頼むよ」
「へいっ、たこ焼きいっちょう!」
再び視界が靄に包まれる。父はずっと、隣で笑ったままだ。
次は香ばしいソースの匂いがして、靄が晴れた。
岡島はソースの匂いを全身に浴びながら、目の前でリズミカルにひっくり返されるたこ焼きをじっと見つめていた。
背後から、懐かしい声がする。
「あなた、せっかくのお祭りだからここでたこ焼き買いましょうよ」
振り返ると、そこには妻の香織が立っていた。
「香織……!」
「どうしたの?鳩が豆鉄砲喰らったような顔して」
岡島は思わず泣き出しそうになるのを、ぐっとこらえる。
「……うちでもよく作ったよな、たこ焼き」
「そうね。学生時代、タコパ流行ったもんね~」
そう言いながら、香織はたこ焼き屋台の店主に言った。
「たこ焼き六個入。それを2パックちょうだい」
「はいよっ」
店主は手際よく、プラ容器にまあるいたこ焼きをポンポンポンっと軽快に乗せた。
その上に甘辛いソースを刷毛でザっと塗り、かつぶしと青のりをまぶして躍らせる。
二人はそれぞれたこ焼きを受け取ると、すぐそばにある簡易椅子に腰かけた。
「あなた、しばらく見ない間に老けたわね?」
「そうかもな」
「私が死んだあと、また結婚しなかったの?」
岡島は怒りが溢れるように目を丸くしたが、胸に手を当てて暴れ出しそうになる胸の内を制した。
「しないっ。香織以外なんかと……」
「ふーん」
香織は簡単にそう言ってたこ焼きを頬張ると、
「あっ」
と急に大きな声を出した。岡島は慌てて彼女のたこ焼きを覗き見る。
たこ焼きの中に、とろけるチーズが入っていた。
香織が嬉しそうに言う。
「懐かしい!私たちのゼミ、タコパでよく、とろけるチーズ入れたよね~」
岡島もつられるように、ぱくりと食べてみる。
「あつッ。でも美味い……」
「島田教授の研究室でよく焼いたよね」
「うん。そんで、文献が全部油くさくなった……なんて、教授愚痴ってたな」
岡島はしばらくそのたこ焼きを食べていたが、最後の一個になると、どうしても迷いが生じた。
店主に声をかける。
「この屋台だけ、制限時間を延長出来ませんか」
店主は、少し憐れむようにこっちを見て答えた。
「20分が限界なんで、すいません。これ以上となるとレンタルは出来なくて、機材をお買い上げいただく形になります」
香織はぽかんとこちらを眺めている。その目線が懐かしくて苦しくて、岡島の心は暴れた。
「買う……そうか、それしか」
「お客さん、そろそろ時間ですよ」
涙で視界がぼやける。それと共に、たこ焼きを頬張る愛らしい香織が靄にかかって消えて行く。
いつの間にか靄は晴れた。
岡島はVRゴーグルを外すと、眠りから醒めたようにぼうっと目の前の店主の顔を眺めた。
先ほどまでねじり鉢巻きをしていたはずのたこ焼き屋の店主は、コック姿に戻っている。
「アトラクションは以上になります。お疲れさまでした」
「……」
「どうでしたか?当店〝おもひで屋台〟のお味は」
岡島は降参するようにゆるゆると首を縦に振った。
「すごかった。完璧に思い出の味を再現していたよ」
「それはお客様の〝味覚記録〟が正確だったからですよ。我が社の開発した〝味覚AI〟はお客様の記憶と舌に残る味の感覚から味を再現し、そのためのレシピを出力できます。ですから、お客様の味覚こそが重要なんですね」
「なるほど……」
「誰にだって〝思い出の味〟はありますが、正確に舌から再現できる人ってなかなかいないんですよ。私たちの力というより、むしろ岡島様の舌のおかげで完全再現となったのですね!」
店員のリップサービスを浴びせかけられても、岡島の心は晴れなかった。
すぐそこのバケツに、岡島が亡き者と食べたものの食器が打ち捨てられている。
岡島はそれを眺めながら、舌にまだ残るいくつもの電極クリップの感覚を思い出していた。
この屋台に入るには、事前に脳と舌のデータを取らなければならない。様々な電極をくっつけられ、思い出の味を何度も思い出す。その信号から、レシピを出力する。〝おもひで屋台〟の出す食事は、そうして作られるのだ。
更に写真からAI動画を作ってVR化、会話も事前に依頼者から与えられたデータでAI作成し、客が〝会いたい〟と思う人と喋りながら共に食事をすることも出来る。岡島は亡き人を選んだが、好きな人や、憧れのアイドルと食事することも可能なのだ。
この屋台。使いようによってはとても楽しいものなのだろう。
しかし──
「ごちそうさま、楽しかったよ」
「またのお越しをお待ちしております!」
岡島は陰鬱な顔で遊園地の一角にあるアトラクションを出ると駐車場に向かい、自身のバイクにまたがった。
「父さん、母さん、香織。出会ってくれてありがとう」
外はすっかり日が暮れている。岡島はぶつぶつと呟いた。
「これで……この世に悔いはない」
バイクで真夜中の道を走る。この世に未練はないが、あの世には未練がある。
口の中には、先ほどの思い出の味が充満している。
「この味が、舌に残っている内に──」
岡島はバイクで山道を走るとスピードを上げ、ガードレールの隙間から崖へと突っ切った。
バイクは宙を舞い、岡島はダムにダイブする。
──死のう。
父も母も妻も死んだ。子はいない。生きていてもつまらないし、苦しいだけだ。
勢いよく水の中に入水する。
これでいい。
冷たい水の中で死のう──
岡島は目を覚ました。
視界には、見知らぬ、天井。
看護師がこちらを見下ろしている。
「あ、起きました起きました!」
「?」
「先生、岡島さんが起きました」
ふらりと医師が室内に入って来る。
「あ、起きましたか?大丈夫、失神しただけで外傷はなく、命に別状はありませんからね。残念ながらバイクはお釈迦になりました。事故?事故ですよね。あなたが崖から落ちたって、釣り人から証言がありましたよ!」
岡島は苦笑いする。
自殺は失敗に終わった。
おもひで屋台を予約したのも、自殺する前に懐かしい味を体験しておこうと思ったからだった。ここ2年ほどで最愛の妻と母を立て続けに亡くし、彼は自暴自棄になっていた。そういった病院に通ったことがないので何とも言えないが、実のところ彼は、うつ状態にあったのかもしれない。
腕には点滴の管が差し込まれている。
それを見ると、岡島は急激に腹が減って来た。
ぐう、と腹が鳴る。
看護師がクスクスと笑って言った。
「病院食の用意がありますよ。まずは、流動食から始めますけど」
「……食べたいな」
「もう食欲が出て来たんですか?すごいですね。そろそろ病棟は食事の時間ですし、持って来ましょうか」
「……お願いします」
死ねずに食べる流動食。
岡島は自嘲気味に笑った。死にたいのに腹は減る。きっと無様に水から引き上げられ、病院で干されたのだ。釣り上げられた魚のように。
しばらくして流動食がやって来た。
どろんとした、半透明の液体である。
「少しづつゆっくり食べて下さいね」
配膳のおばさんはそう言うと、部屋から出て行った。
トレイには〝岡島様専用流動食〟とある。
とりあえずスプーンですくって一口味わう。
岡島はどきりとした。
とても懐かしい味がする。
(これは何の味だろう……)
岡島はすぐに食べ切ってしまい、どきどきしながら配膳が下げられるのを待った。
再び配膳のおばちゃんがやってくる。
岡島は「ごちそうさまでした」と頭を下げてから、急いでおばちゃんに聞いた。
「あのっ。これ…どこかで食べた気がするんですが……一体何の味なんでしょうか」
すると彼女はこともなげにこう答えた。
「これは10倍粥のすりつぶしです」
岡島が目を見開いていると、おばちゃんは更に言う。
「ふふっ。どこかで食べたとしたら、きっと離乳食の時ですよ……岡島さん、まさか赤ちゃんの時に食べた記憶でもあるんですか?」
岡島は愕然として呟いた。
「離乳食……」
「日本の赤ちゃんなら、誰しもまずこの味からお食事を始めますよね。老いも若きもみんな、お食事はこの味からスタートしますよ」
きっと母は赤子だった自分に、苦労して離乳食をあげたに違いない。
どの味も、自分を生かすために作られたものだ。
(それなのに、俺は……)
配膳のおばちゃんが食器を下げて部屋を去って行く。
ひとり取り残された岡島は、声を上げて泣いた。




