忍者と卵焼き
かすみは悩んでいた。目の前の、漆塗りのこぢんまりとした弁当箱を、初めての任務に持っていくべきかどうか。ほかほかと湯気を立てる白米の隣で、だしをたっぷり含んだ卵焼きが、黄金色に輝いている。作る前は、そんなこと一ミリも考えていなかった。
今朝も、いつもと同じように目が覚めた。緊張で強張る体をほぐすように台所に立ち、慣れた手つきで米を研ぎ、味噌汁のだしを取る。そして、卵を三つ、手際よく溶きほぐした。とん、とん、と小気味よい音を立てて小ねぎを刻み、砂糖と醤油、そして母直伝の隠し味である少量の酒を加えて混ぜ合わせる。四角い卵焼き器に油を薄く引き、じゅわ、という心地よい音と共に卵液を流し込む。甘く香ばしい匂いが、小さな台所を満たしていく。この香りに包まれていると、不思議と心が落ち着いた。くるり、くるりと卵を返しながら、幾重にも焼き重ねていく。かすみにとって、この卵焼きを作る時間は、忍術の修練と同じくらい、心を無にして集中できる大切な儀式だった。
そうして出来上がった完璧な卵焼きを、つやつやと輝くご飯の隣にそっと収めた時、彼女ははたと我に返ったのだ。
「これを、持っていくのか?」
忍術学園では、実戦訓練の日に手作りの弁当を持参するのが恒例だった。仲間たちと木陰に集まり、互いの弁当のおかずを交換しながら食べる昼餉は、厳しい訓練の中のささやかな楽しみだった。だから、今朝もその習慣に従って、無意識のうちに弁当を作ってしまったのだ。
しかし、今日は違う。
今日、彼女が向かうのは学園の裏山ではない。本当の任務。本物の忍びとしての、最初の一歩。
「忍者ってやっぱり、最大限に身軽にしなきゃいけないのかな。」
ぽつりと呟いた言葉が、静かな部屋に吸い込まれていく。学園の教官たちの、厳しい声が脳裏に蘇った。
『忍びとは影なり。存在を悟られてはならぬ』
『食料は兵糧丸で済ませよ。無駄な荷物は命取りになると思え』
『感傷や習慣は、お前たちの刃を鈍らせる最大の敵だ』
その言葉の一つひとつが、ずしりと重い。この弁当箱一つが、生死を分けることになるかもしれない。懐に兵糧丸だけを忍ばせ、風のように去るのが、あるべき忍者の姿なのだろう。この黄金色の卵焼きは、まさしく教官が言っていた「感傷」や「習慣」そのものではないか。
それでも、かすみの心は揺れた。
今回の任務の詳細は知らされていない。ただ、腕利きの先輩と合流し、その指示に従うこと、とだけ聞いている。その先輩は、学園でも名の知れた凄腕だと噂だ。そんな人に、「初任務に弁当を持ってきたのか」と呆れられたらどうしよう。見習い気分が抜けていない、半人前だと侮られたくない。
だが、もし任務が長引き、冷たい夜を森で越さねばならないとしたら? 心細さと空腹に苛まれながら、硬い兵糧丸をかじる自分を想像する。その時、この温かいご飯と、ほんのり甘い卵焼きが一口でもあれば、どれほど心が救われるだろう。それは、ただ腹を満たす以上の、明日を生きるための力を与えてくれるはずだ。
障子の向こうで、柱時計が時を刻む音がやけに大きく聞こえる。集合時間は、刻一刻と迫っていた。
かすみは、己の忍者装束と、弁当箱を交互に見つめる。影に徹し、完璧な道具として任務を遂行するべきか。それとも、心の温かさを、弱さではなく力として信じるべきか。
彼女は、ギリギリまで悩んだ。
そして、ふっと息を吐くと、一つの答えにたどり着く。
まだ、自分は完璧な忍者ではない。恐怖もあれば、感傷もある。ならば、そんな未熟な自分を、今はまだ否定しなくてもいいのではないか。この卵焼きは、自分の弱さであり、同時に、自分を支えてくれるお守りなのだ。
かすみは、弁当箱を丁寧に風呂敷で包むと、音を立てないように、しかし迷いのない手つきで、背負い袋の奥深くへと仕舞い込んだ。ずしり、と感じた重みは、任務への覚悟と、自分自身でいることへの小さな誇りの重さだった。
玄関の引き戸に手をかけ、かすみは家を出た。
空は、初めての任務を祝福するかのように、青く澄み渡っていた。