野球親善大使 MLB選手 フランク・オドゥール
レフティ・オドゥールことフランク・オドゥールは、かのディマジオ三兄弟の師匠として有名だが、ヤンキースにもドジャースにも在籍したことがある強打者で首位打者にも2回輝いている。日本では日米野球の架け橋としての評価のみのきらいがあるが、MLBファンなら、彼がMLB有数の強打者であったということも知っておいていただきたい。現在大谷翔平が21世紀初の150得点に届くかどうかがMLBの大きなトピックの一つになっているが、オドゥールはこの記録の達成者でもあるのだ。
戦前戦後を通じて、日米の野球界の架け橋となったばかりか、野球というスポーツを通じて日米親善に大きな貢献を果たした大功労者である。
オドゥールが初めて日本の地を踏んだのは、昭和六年秋、全米オールスターチームの一員としてである。同年の日米野球で最大の話題となったのは、“スモークボール”で日本チームをなで斬りにしたレフティ・グローブの快投だったが、ミッキー・カクレーン(捕手)、ルー・ゲーリッグ(一塁手)、フランク・フリッシュ(二塁手)、アル・シモンズ(外野手)と殿堂入りのスーパースターがずらりと顔を揃えており、それまでの日米交流戦の中で最高の盛り上がりを見せた。
このシーズン、リーグ5位の三割三分六厘をマークし、二年前にはアメリカンリーグの首位打者に輝いたこともあるドジャースの強打者フランク・オドゥールも、これだけのスター軍団の中ではさすがに影が薄かったが、彼がこの時の来日で大の日本贔屓になったことが、日本球界の運命を変えることになろうとは神ならぬ身の知る由もなかった。
余り知られていないことだが、後のプロ野球コミッショナー、鈴木惣太郎に「日本でもプロ野球を発足させてみたらどうだ?」と最初に提案したのは、来日メンバーの一人フランク・フリッシュだった。フリッシュと鈴木は、鈴木のアメリカ留学時代からの付き合いで、鈴木はフリッシュの父や弟とも親しかった。そういうつながりもあってか、弟のマイクは後にGHQの将校として日本の駐留していた時分に日本プロ野球の復興に尽力してくれた。
話を戻すと、この時のフリッシュの提案は、彼が翌年にカージナルスの監督に抜擢されたことで身辺が多忙となり、具体的な話が進まないままうやむやになってしまったが、二人の話を傍で聞いていたオドゥールが「プロ野球をやるなら、是非私とやろう」と熱心に語りかけてきたことが、後にオドゥールを窓口に「野球王」ベーブ・ルース一行の来日が実現し、ひいては日本プロ野球の発足への伏線となった。
すっかり日本の事が気に入ったオドゥールは、翌昭和七年秋にも来日し、鈴木からベーブ・ルースを含めた全米オールスターチームの来日交渉を依頼された。自身もメジャーリーグのスターの一人であり球界にも結構顔が利くため、この話をまとめあげると、昭和八年秋に主催者である読売新聞社社長、正力松太郎と読売新聞本社で仮契約を結んだ。
かくして昭和九年秋のベーブ・ルース来日が実現すると、全日本軍のエース、沢村栄治の活躍などもあって、野球は空前の大ブームとなり、わが国でも職業野球のリーグ戦開催の機運が高まったのである。
昭和六年の日米野球も過去最高の来日メンバーということで大変な評判を呼んだが、日本人の多くが海外の情報に疎かった時代、「鉄人」ルー・ゲーリッグも「フォーダムの閃光」フランク・フリッシュも、ごく一部の熱狂的なファン以外には知名度が薄かった。しかも、最も人気があった東京六大学が全く歯が立たないことを見せ付けられただけで、本場のプレーには歓喜したものの、「日本にもプロ野球を」という段階には至らなかった。
そこをいくと、ベーブ・ルースの人気は桁外れで、わが国でも今日の大谷翔平並みの知名度があった。選手生活晩年とはいえ日本でのルースは各地でどでかいホームランを連発した他、サービス精神も旺盛で、子供たちにも大人気だった。加えて、ゲーリッグ、ルース、フォックスと並ぶ史上最強の来日クリーンナップ相手に旧制中学生の沢村栄治が六安打一失点、九奪三振という歴史的なピッチングを披露したとあっては、「日本にもプロ野球を」という声が出始めたのは当然の成り行きだった。
翌昭和十年にはオドゥールの招きでオールジャパンチームのアメリカ遠征が実現した。大学やマイナーチーム相手の試合ではあったが、アメリカ本土の日系人の間では大変な人気を呼んだ。
エース沢村の快速球は本場のスカウトが触手を伸ばすほど素晴らしく、マイナーの捕手ではとても手に負えないほどの田部武雄の韋駄天ぶりも、排日ムードが漂うアメリカで暮らす日系人にとっては一服の清涼剤だった。
この時の日米野球の盛況ぶりが職業野球団結成を促す契機となったことを考えると、もしオドゥールがいなければ、プロ野球の発足は戦後まで先送りになった可能性も高い。
戦争によって日米は一時期袂を分かち合うも、戦後の両国の友好関係にも野球が大きく寄与している。
戦前の日本プロ野球は、太平洋戦争の勃発を機に、野球が敵性スポーツの烙印を押されたことで、国民的人気スポーツへと展してゆく途上で解散を余儀なくされている。
ところが戦後、人々が娯楽に飢えている時代に復活すると、昭和二十三年頃からプロ野球は戦前の人気を上回る盛り上がりを見せ始めた。この時の野球人気の牽引車が赤バットの川上哲治と青バットの大下弘である。
さらに戦後の野球人気を助長する起爆剤となったのが、昭和二十四年暮れのサンフランシスコ・シールズ(3A)の来日である。オドゥールが率いるシールズは、マイナーチームとはいえメジャーの卵がごろごろしており、全日本も全く歯が立たなかった。それでも本場のチームの久々の来日に人々は熱狂し、彼らのプレーは日本選手の質的向上にも大いに寄与している。
そのシールズ来日以上に日本の野球ファンを熱狂させたのが、昭和二十五年、二十六年のディマジオ来日である。
二十五年の来日は、初の日本シリーズ見学を兼ねてのもので、あとは各チームの打撃指導が主たる目的だったが、翌二十六年は、全米オールスターチームの一員としてプレーし、ヤンキースの現役四番打者の実力を随所で披露した。このルース以来のスーパースターの来日をとりなしたのもオドゥールであった。
というのも、オドゥールはディマジオのマイナー時代の監督であり、後にディマジオがメジャー屈指の人気者になってからも、師弟関係が続いていたからである。
オドゥールに連れられて初めて日本の地を踏んだディマジオは、師匠と同じく各地で大歓迎を受けたことで日本贔屓となり、翌二十六年に現役最後のユニフォーム姿を見せた後、二十九年の新婚旅行の際にも日本に立ち寄っている。
選手としての格はルースにかなわないまでも、ディマジオはルースと違ってプレーを見せるだけでなく、直接指導を行ったという点においてわが国の野球の発展に大きな役割を果たしている。理にかなったディマジオのバッティングと超一流の守備技術が専門家や野球関係者を啓発し、彼らによる技術研究が日本プロ野球の水準を向上させる一因となったのである。
そういう意味では、その後の日本野球の発展に与えた影響は戦前のオールスターチーム来日以上のものがあったといっていいだろう。
あの長嶋茂雄がプレースタイルからグラウンドマナーに至るまでディマジオを手本にしたというほど、その圧倒的な存在感はかつてのベーブ・ルースを除いては、いかなる来日メジャーリーガーも及ばないものがあった。
フランク・オドゥールは一九一九年、名門ニューヨーク・ヤンキースに投手として入団した。当時、左投手は珍しかったことから「レフティ・オドゥール」という呼称が定着したが、同時期にヤンキースに移籍してきたレッドソックスの左腕エース、ベーブ・ルースの陰に隠れ、投手としては全くの鳴かず飛ばずであった(投手としては4年間で1勝1敗の成績しか残していない)。
しかし、打者としても非凡なものを持っていたため、投手に見切りをつけてから野手として3Aで四年間修行を積み、一九二八年、ニューヨーク・ジャイアンツの外野手として再びメジャーのグラウンドに帰ってきた。
すでに三十一歳になっていたが、三振が少なくバットコントロールに秀でていたオドゥールは、本格的に打者としてメジャーキャリアを再スタートした初年度から三割一分九厘という好成績を残し、レギュラーの座を獲得した。ところが名将マグローは、何を思ったかオドゥールをフィリーズのフレディ・リーチ外野手と交換トレードしてしまう。
リーチは三年連続三割をマークしている左のアベレージヒッターで年齢も同じである。客観的に見るとあまりトレードする意味がないように思われるだけに、本人にとっては心外だったのかもしれない。
一九二九年のシーズン、フィリーズに追いやられた形となったオドゥールは猛然と奮起し、不振のリーチを見下すかのように打ちまくった。
九月一日まではベーブ・ハーマン(ブルックリン・ロビンス)が四割をキープしていたため、この時点で三割八分九厘のオドゥールは二番打者ということもあって打数も多く、シーズンを通じてコンスタントに打ち続けるハーマンを捉えるのは困難かと思われたが、最後の十五試合の全てで安打を放ちライバルを抜き去った。
シーズン残り二試合の段階ですでに首位打者が決定的となっていたオドゥールにはあと二つの目標が残っていた。一つ目が当時のナ・リーグ記録、ロジャース・ホーンスビーの二五〇安打である。
ここまで二四八安打で迎えた最後のダブルヘッダーは因縁のジャイアンツ戦である。マグローは、エースのカール・ハッベルを先発させたが、オドゥールの勢いを止めることは出来なかった。三打席連続安打であっさりとホーンスビーを抜き去ると、四打席目は場外ホームランで記録に花を添えた。
こうなると残るは打率四割への挑戦である。第二試合も二安打したオドゥールは、最終五打席目にヒットを打てば四割到達というところだったが、最後はセンターへの大飛球をファインプレーで抑えられ、打率三割九分八厘でシーズンを終えた。余程マグローの仕打ちが頭に来ていたのだろう。オドゥールにとって現役時代最高の思い出が、この日のダブルヘッダーで記録した九打数六安打だったそうだ。
当時のメジャー記録はジョージ・シスラー(セネタース)の二五七安打で、これを九十年後に抜き去るのがイチローだが、オドゥールの二五四安打は現在でもビル・テリー(ジャイアンツ)と並ぶナ・リーグ記録である。しかも、シスラー、イチロー、テリーのいずれもが中距離打者であるのに対し、オドゥールはシーズン三十二本塁打をマークした長距離打者というところが凄い。しかも長打を狙いながら喫した三振がわずか十九個という少なさである。長距離打者で三振が少ない点はディマジオと双璧であり、さすがにディマジオの師匠だけのことはある。
名実ともに一流メジャーリーガーの仲間入りを果たしたオドゥールは、翌年も三割八分三厘と絶好調。
七月にはキャリアハイとなる月間五十六安打を記録し、八月中旬までは四割キープするなど前年とほぼ同じペースで安打を量産していたが、怪我のため終盤は尻すぼみになり、ナ・リーグ最後の四割打者となったビル・テリー(四割一厘)に連続首位打者の夢は阻まれた。
九月にはスタメン出場は三試合に留まり、それ以外は全て代打出場だったため前年のように大幅に打率を伸ばすことは叶わなかったが、代打に回ってもオドゥールは恐ろしい打者だった。
終盤十一試合に代打起用され、十一打席十打数五安打八打点(一四球)という数字もさることながら、九月九日のパイレーツ戦での代打同点3ランに続いて、十三日のカブス戦では代打決勝2ラン、十五日のカブス戦でも代打でシングルヒットの後、そのまま守備につき二打席目にはサヨナラホームランと代打出場した三試合ともに自らのバットで勝利を引き寄せているのだから凄い。ちなみに十五日のダブルヘッダー二試合目でも代打でタイムリーヒットを放っている。
代打での生涯通算成績は一○六打数三十二安打(三割二厘)で、投手時代にも代打に起用されたこともあるほど、一打席勝負には強かった。ジャイアンツの選手として生涯唯一出場した一九三三年ワールドシリーズはたった一打席の代打起用だったが、見事2点タイムリーヒットを放って監督の期待に応えている。
ブルックリン・ロビンス時代の一九三二年には、三十五歳にして三割六分八厘で二度目の首位打者に輝いたオドゥールも、年齢には勝てず二年後には引退を余儀なくされた。
一九三五年からは3Aシールズで指揮をとることとなったが、その時シールズにいたのが前年に膝の怪我で不振をかこっていたディマジオで、新監督オドゥールの下でディマジオは見事復活を果たしている。
オドゥールのメジャーでの選手生活は十一年と短かったが、通算打率三割四分九厘は、三千打数以上のMLB歴代選手中第四位という堂々たる記録で、ヤンキースOBの中ではルース、ゲーリッグ、ディマジオのビッグ3さえも凌ぐ歴代一位となっている。
生涯成績 三割四分九厘 一一三本塁打 六二四打点 一一四〇安打
オドゥールは二刀流の選手だったが、同じチームのルースのようにはなれなかった。それでも指導者としては一流だったので同じ左打ちの大谷を指導したとしたら、ディマジオ以上の強打者に育て上げることができただろうか。