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モラトリアム

作者: 大森ギンガ

コンビニの床って、こんなにも寝心地がよかったのか。

誰かが雑巾で拭いた後のようで、少し水気が残っている感覚だ。

でもそれはたぶん、わたしの背中の汗だった。


この状態で数分経った。

店員の青年は真上から、こちらを見下ろしていた。

あきらかに面倒くさそうな目をしている。

無理もない。

客が唐突にレジ前で倒れ、起き上がろうとせず、ただ「死にたい」とだけ呟いたのだから。


けれどわたしは別に、騒ぎを起こしたかったわけではない。

本当に、ただの気まぐれにすぎなかった。

バイトの面接に向かう途中で、暑くて、空腹で、眠くて、面倒くさくて、気がついたらレジ前で倒れていた。

それだけだった。


「救急車呼びますか?」


店員が訊いた。

返事をせずに、わたしは天井を見た。

何本かある蛍光灯、その中の1本がチカチカしていた。

意識が飛びかけているときでも、そういうどうでもいいことだけはよく見える。


「学生さんですか?」


彼は質問を変えた。

彼にはわたしがどう見えているのだろうか。

もしくは、どう見たいと思っていたのだろうか。

わたしは答えなかった。


本当は、どこにも属していない。

バイトもしていない。大学は辞めた。

でも、実家にも帰っていない。

逃げている、とも違う。

ただ、止まっているのだ。


()()()()()()


昔、どこかの誰かがそう呼んだ。

大人になるための猶予期間。

でもそれはたぶん、もっと健康的なものを指していた。

友人と議論し、本を読み、音楽に感動し、恋に破れ、それでもまだどこかで「いつかは必ず」と願っている人々。

そういう人たちのためのモラトリアム。


わたしのは違う。

わたしはもう、絶対に動かない。

人生の入り口で死んでしまった人間の、白骨化した影のようなものだ。

ただ、生き延びている。それだけだ。

電気もガスも止まって、スマホは壊れ、水道水すら出なくなった。

それでも死ねない。

それでも朝は来る。

それでも生きている。

それでも。


わたしはゆっくりと体を起こした。

床から背中を剥がすようにして、音を立てずに立ち上がる。

店員がわずかに後ずさった。

それを見て、少しだけ笑った。


「なんか、すみません」


久しぶりに出た自分の声は、自分のものではないように思えた。

口の中がからからで、呂律もまわらない。

彼は何も言わず、会釈のような、うなずきのような動作をした。

それを見て、わたしはレジ横の商品棚からパンを一つ取り、ポケットから小銭を出してカウンターに置いた。


「足りてないっす」


店員が言った。


わたしは頷いて、パンを戻した。


そして、店を出た。


外は眩しかった。

このまま面接に向かえば、まだ間に合うだろう。

でも行かない。

行けないのではなく、行かない。

行かなければ、すべては保留のままでいられる。


わたしが人生を選ばなかったのではなく、人生がわたしを採用しなかったのだ。


そんなふうに言い訳をしながら、いつまででもこの季節に、引きこもっていたい。

この暑さと、この空腹と、この中途半端な若さと、どうしようもない孤独と一緒に。


いつかすべてが許される日が来ると信じて。


絶体絶命の人生

モラトリアムの中で。


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