人食い用水路対策、不要だよ
我が家の傍を、何本も用水路が通っていて、それに沿って道路も通っている。
当然のことながら、用水路に蓋は無いし、柵さえなく、道路から少し外れてしまって、誰かが用水路に転落する事故が、毎年何回かは、我が家の近くでは起きていて、年に1回は人死にが出ている、と言っても過言ではない。
尚、転落事故の内容だが、用水路に歩行者が落ちることもあるし、自転車や車が落ちることもある。
(流石に車だと、基本的に脱輪事故程度で済んでいるのだが)
他所から転入してきた人に言わせれば、こういった用水路は「人食い用水路」と言うべきもので、こういった転落事故を防ぐ為に、蓋をするなり、柵を設けるなり、するのが当然だと言う。
だが、90年近く、この土地に住んできた自分や、同じように長年に亘って、この土地に住んでいる面々に言わせれば、何でそんな必要があるのか、と言わざるを得ない。
それこそ税金の無駄遣いではないか。
この土地は、元を糺せば江戸時代に行われた干拓工事によって陸地になったのであり、それ以前は海底と言って良かったのだ。
こういった土地を農地化して、其処で食べていくとなると、排水等の為に用水路を張り巡らせるしかないし、そう言った用水路に蓋をするなり、柵を設けるなりしては、それこそ農地に水の注排水を行うのに問題が生じるのは、自明のことなのだ。
更に言えば、本当に自己責任の話ではないだろうか。
キチンと用水路に転落しないように、自らが気を付けて歩行等をすれば済む話だ。
実際に自分は90年近く、そうやって生きて来たのだし、周りの同年齢に近い面々も、自分の意見に同意している。
「本当に恥ずかしい話だ。其処に用水路があるのは分かっていることだろうに」
「何で転落するのかねえ。幼児等に危険だ、と言われるけど、親が注意すれば済む話だ」
そんなことを私や周囲は言い交わしている。
尚、他所から転入してきて此処に住むようになった人の中には、少し目を離した隙に幼児、自分の子が用水路に転落して亡くなった人がいた。
その人は、市に対して用水路の管理が悪かったから、子どもが亡くなったとして、損害賠償の裁判を起こしたのだが。
それこそ村八分の目に遭うことになり、その人は裁判を取り下げて、この地を去って行った。
自分達からすれば、自業自得にも程があることだった。
この地で用水路に蓋をしたり、柵を設けたりしては、農地への注排水に多大な支障が生じて、農業が出来なくなり、この地に住む住民、農民に対して、農業を止めろというのに等しい話になるのだ。
自分が子どもから目を離さなければ、そんなことにならなかったのに、市に損害賠償を求めて、更に周辺住民に農業を止めろ、というのか。
と(自分も加担したが)周辺住民が憤って、村八分になって当然ではないだろうか。
そんなことを想いつつ、長年に亘って、この地で私は生まれ育っていたが。
ある日、老人会の暑気払いの会合で、つい、酒を呑み過ぎてしまい、ふらふらと千鳥足で町の集会所から自宅へと、私は一人で帰ることになった。
自宅の近所の者は数人いるのだが、用事があって欠席したり、早退したり、酒を呑み過ぎたと言って、集会所で寝込んだり、で、私は一人で歩いて帰る羽目になっていた。
用水路に沿った道路を歩いて帰ることにはなるが、何十年も歩いてきた道だ。
少々飲み過ぎて、千鳥足になったくらいで、用水路に転落する等、恥もいいところだ。
そんな想いをしながら、帰宅していたところ、用水路を渡る橋の上で、私は足を踏み外して、用水路に転落してしまった。
何と恥ずかしいことをした。
と自分が考えていると、人外のモノ、妖怪か魔物のような複数の声が、自分の脳内に響いてきた。
「年寄りは美味しくないけどねえ」
「まあ、生け贄にぜい沢を言ったら、キリがない」
「それに、そろそろ誰かの生命を頂かないと腹が空いてたまらねえ」
何者の声だ、と考えるが、その一方で、用水路の水に溺れかけている自分がいる。
それこそ冷静になって、脚を立てれば自分の膝程にしかならない水量なのだ。
だから、溺死等する筈がないし、危険も無い筈なのに、脚が滑って、どうにも立てない。
いや、何者かに脚を引っ張られて、立てないようにされている。
「ここが海の底だった頃は、多くの海の生き物が生まれ育って、そして、亡くなって、その生命を頂いて。本当にあの頃は良かったなあ」
「本当に数百年前のことだけど、あの頃は幸せだったなあ」
「それが、今やこんな生命で我慢しないといけないとはね」
「目立たないように、程々にしとかないと、こんな生命でさえ手に入らなくなるよ」
「確かにその通りだね」
何者の声だろう。
自分は溺れながら、懸命に考えたが、それも長くは続かない。
数分後に私は溺死の運命をたどっていた。
「溺死だな」
「老人会の飲み会の帰りに、用水路に転落死するなんて」
「自己責任だな」
そんな冷たい声が、自分の遺体に掛けられているのが、あの世にいる自分には見えた。
そして、自分の前には死神がいて、自分と対話していた。
「魂だけは救ってやった。感謝するんだな」
「私が聞いた声の主は何者なんです」
「妖怪とでも、魔物とでも、好きなように呼べばよい。儂に言わせれば、水神様だ。それなりの生命と引き換えに、その土地に豊饒を与えるモノだな。生命と魂は、細かに言えば、別の代物だ。だから、儂は救う事ができた」
「水神様が複数いるのですか」
「八百万の神がいるのだ。水神様等、複数いるのが当然だ」
私は死神と微妙にかみ合わない会話をしていた。
「あの水神様は生命を水を介して求める。だから、生け贄、溺死体が必要不可欠なのだ。更に神といえる存在である以上、人間の認識を歪める等は容易なことだ。それで、用水路を維持している訳だ。お前も、それに引っ掛かった一人だな」
「そう言う訳ですか」
魂になった為か、死神の言いたいことが、直に自分に伝わってくる。
あの水神様というか、妖怪、魔物は、生命を求めるのだ。
そういったモノが暗躍することで、人食い用水路がずっと放置されているという訳か。
「さて、あの世に行くぞ。儂の後を付いてくるんだ」
「はい」
私は色々と考えつつ、死神の声に従って、歩みを始めながら考え込んだ。
死神に言われてみれば、自分なりに気が付くことがある。
毎年のように、用水路のことで死人が出ているのに、自分を含めてだが、周囲の人はそれを当たり前のことだ、として何故に放置してきたのだろう。
どう考えてもおかしなことではなかっただろうか。
更に言えば、死人やその家族を、自己責任だ等と、更に鞭打つようなことまでしていたのだろうか。
冷静に考えてみれば、死人の家族が、二度とこういったことが起きないように動くのは当然のことなのに、自分達はそれを圧殺するように、ずっと動き続けて来た。
水神様というか、妖怪、魔物に自分達が完全に踊らされてきただけだ、と責任転嫁してしまうべきなのかもしれない。
だが、自分自身が90年近くも生きてきて、それなりに自分の人生を振り返ってみる程に、何故にこのことに気付かず、終には自分が死ぬ運命を迎えることになったのか、という想いが浮かんでならない。
死神は、神様だけあって、自分の想い、考えに気付いたようで、独り言を言った。
「自分でそのことに気付けたとは、真面な人間だったようだな。多くの人間がひたすら責任転嫁する」
その言葉を聞いて、私は更に悩んだ。
ご感想等をお待ちしています。