ⅩⅥー3 真実
■まさか?
ララが去った農家で、老夫婦は互いの手を取り合って、長く見つめ合った。
老女の手は震えていた。
「そなたは子どもの時のアリアしか知らない。あのアユという女性は、最後に見たアリアに生き写しだ」
「そうだったのか……」
「アリアの女官長の末妹がパドアだ。パドアは、四十年以上も前にミン国に嫁ぎ、夫を失ったあと、ラウ伯爵家の乳母になったはずだ」
「ならば、そのアユという女性は、アリアの娘、つまりわたしたちの孫ということか?」
「きっとそうだろう……」
「生きていたんだな」
「そうだ。生きていたのだ!」
シュンはファウンを抱きしめた。ファウンもシュンを抱きしめ返す。
皇帝ファウンは、娘アリアを即位させるために自分は死んだことにし、名も位もすべてを捨てて、夫君シュンのもとに来た。ファウン皇帝崩御の報を聞き、生きる気力を失っていたシュンに、ファウンは「蘇りの術」を使った。
――それから四十年。
いまふたりとも八十五歳を迎えた。穏やかでささやかな老後を送っているが、大きな悲しみを何度か経験した。
三十年前のカトマール内戦のとき、聖香華ファウンは皇宮まで空間移動して、娘一家を救おうとした。しかし、皇帝たる娘は夫君とともにこれを拒否した。皇帝が国を捨てるわけにはいかない。
娘は、子ども二人をファウンに託した。子どもたちには空間移動はできない。ヤオを護衛として、ミン国のファウンとシュンの許に二人の子を送り届けようとしたのである。
しかし、追っ手がかかり、子どもの行方はわからなくなった。ファウンは二人の孫の行方を必死で探した。だが、ようとして知れなかった。
シュンはファウンを慰め、二人で娘夫婦とその側近たちの冥福と孫たちの無事を祈りながら、この僻地で過ごしてきた。
「キミの努力は無駄にならなかったんだね」
「うむ。そう思いたい。だが、いまさら確かめたところでどうなるものでもなかろう」
「うん……名乗り出ても、わたしたちには伝えるものがない。でも、キミはきっと会いたいだろう? わたしもだ。名乗ることはできなくても、遠くからでいい。一目見たい。過ぎた欲だろうか?」
「そうだ、シュン。アリアの子に伝えるものはある!」
「え?」
「最期にアリアから預かったものがあるのだ。カトマール皇室の秘宝の在処だ。だが、それだけではない。姉が生きているとすれば、弟も生きている可能性が高い。わたしは下の孫を知らないが、アリアによれば聖香華の可能性があると……」
「じゃ、キミの後を継ぐ者ってこと?」
「そうなるな。もしその子が真の聖香華であれば、引き継がねばならないことがある」
「よし。二人で孫たちを探そう」
■夫君の決意
――六十年ほど前。
夫君シュンは、日だまりで憩う皇帝と幼い娘を見守っていた。幼い娘アリアがシュンに抱っこを求めて近寄ってくる。皇帝ファウンは美しい顔をほころばせて夫を見る。
皇帝ファウンと出会って十年近い。ファウンは多くのものを自分に与えてくれた。シュンもまたファウンに心からの愛を捧げた。
失ったものもある。故郷と家族だ。
シュンの父母は、息子シュンがファウン皇帝の夫君になることが決まってすぐに姿を消した。息子の幸せを邪魔しないように、シュンにも内緒でひっそりと村を出たのである。シュンには手紙が届いただけで、新しい住まいは書いていなかった。
シュンは両親の思いを知って泣いた。自分が得た恋と幸せは、両親と妹のささやかな生活を損なった。
学歴も財産もない一家だ。どこに行ってもまともな生活はできまい。だが、一家が村に残れば、いずれ夫君シュンのうわさが出回り、無関係な人びとがアリのようにたかってくる。それはシュンを苦しめ、皇帝を苦しめると両親は思ったようだ。
香華族でない自分が、この皇宮で皇帝や娘と過ごせるのはわずか数年。まもなく皇宮を去る時期。
ファウンは、皇宮のすぐそばにある外宮をシュンに用意していた。十五歳のとき、ふたりが出会い、語らった思い出の図書室があるファウンの私宮だ。皇宮からは地下通路を使って、いつでもファウンはシュンに会いに行ける。
ゆえに、ファウンはシュンが皇宮を去ることをさして懸念していなかった。これから先も、シュン以外を夫君にするつもりはない。
――はじめてファウンに秘密を持ってしまった……。
シュンは自分の決意を明かさなかったのだ。
香華族以外の配偶者が皇宮に留まれないのは、皇室に政治的混乱をもたらさないためだ。権力は蜜のように甘く、群がる者は後を絶たない。
山あいの小さな村に生まれ育ったシュンは、権力とは無縁の貧しい農民の子だった。ファウンと出会い、学ぶ機会を得て、いまここに居る。
シュンの生まれた村も出自も隠された。「平民」ということ以外はすべて伏せられた。シュンも両親もそう望んだからだ。その秘密を守るために、両親は村を捨て、行方も告げずにシュンから去った。
――両親の決断は正しかった。
夫君として暮らすほどにそう思うようになった。平民シュンには見向きもしなかった者が、皇帝の夫君シュンの機嫌をとろうとする。両親とその村がわかったら、両親は賄や脅しや懇願の渦に巻き込まれ、親しい村人たちとの関係も変わっただろう。
このまま外宮に留まれば、夫君と皇帝の蜜月が続く以上、シュンはさまざまな欲望のターゲットにされる。自分はいい。欲望に振り回されることなどない。皇帝もそれを信じている。
しかし、皇宮では守られたことも外宮では守られなくなる。いつなんどきスキャンダルを仕掛けられるかわからない。それは皇帝の名誉を損ない、皇帝の地位すら危うくしかねない。
――皇宮を出たら、ファウンのもとを去ろう。
シュンはそう決意していた。それまでのわずかな期間、愛する人と子どもを思う存分見ていたい。
■夫君の失踪
皇帝ファウンは青ざめた。女官長セイがもたらした一報は、夫君シュンの失踪だった。
すぐに秘密の通路を通って、外宮に駆けつけた。シュンの部屋に主はいなかった。一通の手紙が残されていた。
――愛するファウン。何も言わないで去るわたしを許せとは言わない。キミは怒り、悲しむはずだ。だが、わたしはこれがキミにとっても娘にとっても最善の選択だと信じている。わたしを探さないでほしい。キミに出会えて幸せだった。ファウン、キミをこころから愛している。これからもキミだけを愛し続ける。シュン――
ファウンは手紙を握りしめて泣き崩れた。こんな皇帝の姿を見たのは初めてだ。セイもまたなすすべなく立ちすくんだ。
セイには、シュンの気持ちが痛いほどわかる。
――もともと何も持たなかった人だ。
ファウン皇帝のそばにいても書物とファウン皇帝との語らい以外、何も望まなかった人だ。ファウン皇帝に出会わなければ、彼の知的好奇心を満足させる機会は乏しかったかもしれないが、故郷の村で人望を集め、指導者になっていただろう。
ファウン皇帝を選んだ結果、夫君シュンは多くのものを失った。これ以上、ファウン皇帝のそばにいれば、ファウン皇帝に仇なす結果を招きかねないと怖れたに違いない。夫君のすべての基準は、ファウン皇帝のために何が最善かだった。
ファウン皇帝は、皇帝としての務めをみだりに放棄するまい。それを知り尽くす夫君だ。香華族以外の配偶者は皇宮を追われる定め――このままでは、ファウン皇帝は必ず、伝来のルールを改め、夫君シュンを皇宮に呼び戻すだろう。
外宮に置くことすら、例外中の例外だったのだから。私情のために伝統を変えたと謗られるのは皇帝だ。そうなると、香華族の中に離反者がでる。帝国の根幹が揺らぐ。
ファウンはたびたび、秘密の通路を使って外宮を訪れた。そして夫君の部屋で泣いた。セイは、外宮に自分の住まいを置き、外宮に光が灯ることが不自然でないように取り計らった。生前譲位は原則として禁じられている。娘アリアが婚姻し、娘を産み、皇帝の補佐になれてきた頃、ファウンは突然病に倒れた。
ファウン皇帝はまもなく外宮で身罷った。葬儀は、セイが盛大に取り仕切った。一週間、殯部屋に安置された棺は、皇室の専用墓地に葬られた。
すべてを見届けて、セイは皇宮を辞し、どこかに消えた。
■シュンの行方
皇宮を出てからシュンは親のもとへ向かった。
両親の居場所は突き止めていた。母が行商仲間の情報網を使って見つけた場所らしい。ミン国の僻地だった。
突然現れた息子を両親は何も聞かずに温かく迎え入れた。夫君であったことを世間に隠し、シュンは老いた両親を看取るまで農夫として働き続けた。だれもが見向きもしない荒れた土地を開拓民として耕し、実り豊かな畑に変えたのである。
農閑期には出稼ぎで働き、十歳下の妹をカトマール帝国大学で学ばせた。妹はすぐれた美術史家となり、画家としても活躍している。妹の娘は、ルナ学の研究者になった。マイを救った恩師ソン・ララだ。ミン国の国立大学に勤めていたララは、五年前にアカデメイア教授となった。
両親を看取り、一人になっていたシュンは四十五歳を迎えた。長い間の無理がたたったのか、病に倒れた。伯父危篤の報に、ララもララの母も驚いて駆けつけた。
小さな家には、見たことのない美貌の女性がいた。彼女は、ララたちを振り返り、伯父の妻と名乗り、いったん離縁したが、復縁したと語った。
目を開けた伯父は、そばの女性を見つめてつぶやいた。
「ファウン……キミなのか?」
「そうだ、シュン。目覚めてよかった」
「夢なのか……? それとも、ここは天国か?」
「現実だ。わたしはここにいる」
「ファウン! キミにまた会えるなんて……。キミが死んだと聞いて、わたしも一緒に逝こうと思ったんだ」
「ばかだな。わたしはひとりでは逝かないし、そなたを一人で逝かせたりもしない」
ララと母は伯父の家をそっと出た。あの女人に任せれば、伯父は大丈夫だ。
ファウンとシュウは語り合った。かつていつもそうしていたように。手を取り合い、肩を抱き合い、離れていた時間のことを語り合った。
「どうしてここがわかったんだ?」
「古本屋の情報網だ。そなたなら、どこに行こうが必ず地元の古本屋に定期的に出向くと思った。旧知の古本屋に頼み、カトマールとその周辺国の古本屋で常連客を探してもらった」
「キミらしい発想だな」
「そなたらしい行動だ。数年かかったが、場所は特定できた。だが、国と娘を置いてそなたのところに来るわけにはいかぬ」
「そうだな」
「だから待ったのだ。アリアが成人して婚姻し、帝位を任せられるようになるまで」
しかし、帝位に就いて十年ほど後、アリアは内戦の犠牲になった。ファウンは狂ったように泣いた。
「わたしのせいだ。アリアはわたしの身代わりになってしまった。わたしが皇位にとどまっておれば、アリア一家を逃すこともできたはずだ」
「ファウン、自分を責めてはいけない。アリアはキミを置いて逃げたりしなかっただろう。アリアが選んだんだ。アリアは皇帝にふさわしい最期を選んだ。そのための準備もしていた。わたしたちが誇る賢い娘だ」
ファウンはシュンの胸に顔を埋めて泣いた。愛する夫を得るために、愛する娘を失った。生きる
とは、ときに苛酷な選択を強いる。これからも荊の道が続く。だが、二人で手を取り合い、ともに歩んで行こう。




