ⅩⅥー1 母と娘
■教え子
――十二年前、ミン国。
その女子学生は、なんとなくオドオドした様子で、周りに異様なほど気を使っていた。
安心するよう促し、紅茶を出すと、少しホッとした様子を見せた。まだ一回生。入学したばかりで、友だちもいないという。学生はなかなか本題に入らなかった。准教授ソン・ララは無理強いしなかった。
女子学生はファン・ヒョンジュと名乗り、ララの研究室の書架に置かれたルナ学の研究書に強い興味を示した。本を貸すと喜んで受け取り、数日後に返しに来た。そんなことが何度か続いた。
来るたびに、ヒョンジュはララにさまざまな質問をした。最初は初学者の素朴な質問だった。やがて突っ込んだ専門的な質問をするようになった。図書館でも本を借りて、ルナ学にはまり込んでいるらしい。
意欲的な学生の相手は楽しい。教師冥利につきる。ララもヒョンジュとの面談を楽しみにするようになった。
ある夕方、研究室に来たヒョンジュは暗い顔をしていた。ララの本をなかなか差し出そうとしない。ヒョンジュの手に握りしめられた本は、異様なまでに破られていた。
「すみません……。うっかり、破ってしまいました……。すみません」
ヒョンジュは謝るばかりで、顔も上げない。握りしめた拳の上に涙が落ち始めた。
ララは待った。ヒョンジュが気持ちを整理するのを待った。
しばらくしてララは声をかけた。
「本のことはいいのよ。新しいものを買えば済むことだから。でも、あなたが本を破ったとは思えない。なにか理由があるんじゃない?」
「……」
「いま言いたくなければ、言わなくてもいい。いつでもいいから言えるときに教えてちょうだい。でも約束して。今日を最後にここに来るのをやめるなんて言わないで。わたしはあなたとお話するのが楽しいもの」
窓の外がピカッと光った。夕立のようだ。激しい雨が窓を打ち付ける。
ヒョンジュは細い肩を震わせていた。
「先生……」
ヒョンジュは、ララの穏やかな瞳を見つめた。涙が止めどなく溢れてくる。
――いま、この人に打ち明けなければ、わたしは二度とこの人に会えなくなる。やっと巡り会えた人、ただ一人信頼できる人……。
「……母です。母が破ったんです」
「お母さん?」
「はい……ルナ学などしちゃいけないって、教祖さまに顔向けができないって……」
「教祖さま?」
「天志教団の教祖さまです。母は熱心な信徒で、わたしも入信させられました。でも、わたしは、教団の教義が信じられませんでした。先生からお借りしたご本でルナ学やウル学を学ぶと、わたしの疑念は確信に変わりました」
「それでお母さんに止められたのね……」
「そうです……でも、わたしは研究を続けたい。教団とは関係なく、考えたり、学んだりすることがなにより楽しいんです」
「わかったわ。あなたは研究を続けるべきよ。あなたには才能も根性もある。わたしもできる限りあなたの力になるから」
「……ありがとうございます」
「いつでもいいから、あなたのお母さんのことを少し話してくれる? ひょっとしたら、お母さんはあなたを精神的に支配しているのかもしれない」
「支配……?」
「そう。子は親に逆らえない。その上下関係を利用して、子を支配する親がいるの。親はそれを愛情とかしつけとかと思っているから罪悪感を持たない。子どもも他の親子関係を知らないから、それを当然だと思ってしまう……。でも、それは虐待――犯罪なの」
「虐待? 犯罪?」
「そうよ。逃げ出さなきゃ、子どもは親に潰されてしまう。子は親のものじゃない。一人の独立した人格。親は子を支配する権利などもたない」
「……そう……なんですか。そんなこと思ったこともなかった……」
「この本を読んでみて。お母さんには内緒でね」
渡された本は「毒親」の本だった。
教団の仕事で今夜は母の帰りは遅い。本を見つけたら母は激怒するだろう。ヒョンジュは、ララの研究室で本を読んだ。涙が止まらない。自分と母との関係そのものだった。
ララは黙ってヒョンジュを見守った。
翌日から、ヒョンジュは母から自立する道を探し始めた。
母の支配が及ばない大学への留学。奨学金の確保。すべて母には秘密裡に行った。ララが保証人になった。
一年間の準備を経て、ヒョンジュはアカデメイアへの留学を果たした。特技は何もなかったが、成績優秀のため、授業料免除、返済不要の奨学金を得ることができた。
ファン・ヒョンジュからファン・マイに名前も変えた。寮生活はプライバシーを守るのが難しいため、格安のアパートを借りた。マリおばさんのアパートだった。
■母娘の悲劇
ヒョンジュ改めマイは勉強に励んだ。すべてが楽しく、刺激的だった。
大学院に進学した頃、ララもまたアカデメイアに教授としてやってきた。ただ、マイの指導教授にはなれなかった。専攻が違ったからだ。
マイはララから事実上の指導を受けながら、さらに研究に励んだ。博士課程に進学し、博士論文をまとめたときもララが協力した。
それを快く思わない者もいた。マイの指導教授とその子飼いの兄弟子たちである。
マイの最初の論文は高く評価された。マイは正直にララへの感謝を捧げた。指導教授が激怒した。失礼だと。明らかに、アカデミック・ハラスメントだ。だが、母に隠れるように研究をしているマイに対抗する術はなかった。
マイが二本目の論文を発表しようとした寸前、兄弟子がマイの研究成果を横取りする形で論文を発表した。共同研究グループなので、互いの研究は知っている。だが、論文発表にはルールがあり、盗作や剽窃は認められない。
兄弟子の論文公表を知らされないまま、論文を発表したマイは「盗作」と指弾された。マイは学界から追放された。ララはマイのために奔走し、マイの無実を信じて、法廷闘争に訴えるべきだと諭したが、マイは断念した。
マイの情報を流したのは、母だったからだ。
傷心のマイに、ララはアカデメイア中等学校教員の職を紹介した。博物館研究員の地位も保証した。研究を続けるよう期待したからだ。
だが、マイは母との戦いに疲れ果てていた。
母はマイに教団への復帰を強い、罪滅ぼしのために信徒との結婚を強いたらしい。マイはレズビアンであることを母に明かしたが、母はそれを絶対に認めようとしなかった。教義に反するというのだ。
母と小競り合いになり、マイは母の手を振り払った。母は道路に投げ出され、車に挽かれて亡くなった。マイは母殺しの嫌疑をかけられた。マイは嫌疑を否定しなかった。もうどうなってもよいと思った。
ララは奔走した。
――教え子は無実だ。
たとえ、本人が生きる希望を失っていても、助けるのが教師の務めだ。無実を晴らし、再びマイが前を向けるよう支えなければならない。大学時代の友人に弁護を頼んだ。
人権派として有名な弁護士リュ・アンだ。彼女は、ク・ヘジンの娘――イ・ジェシンの母だった。リュ・アンは、無罪を勝ち取った。ララは、マイに新しい職を紹介した。〈蓮華〉教員だ。マイは、〈蓮華〉寮の寮母として住み込むようになり、研究も再開した。
二度の事件を通じて、マイは研究成果の公表に慎重になった。亡くなったとき膨大な資料を残していたことはララにすら知らされなかった。
ララは、マイが飲酒運転をしたとは思っていなかった。何らかの陰謀を感じ取っていたが、何の手掛かりもない。天志教団の可能性はあるが、動機が不明だ。
やがて、〈蓮華〉同僚のモエギ・サキという教員が、マイの遺体を引き取ったと知らされた。マイが最後に愛した人なのだろう。
今回、突然、ラウ伯爵が自分をルナ大神殿の調査責任者に指名した理由はわからない。アカデメイア側のルナ調査団は、長らく、博物館副館長のマルゴが率いてきた。マルゴはいい顔をしなかった。
仲介役となったラウ伯爵の筆頭秘書レオンとも初めて会った。噂通りの美青年で、抜群の切れ者だった。
この調査はマイの弔いを兼ねた調査だ。調査が成功すれば、マイの名誉回復につながる。マルゴに気を遣うつもりなどない。
ララは、いつも以上の闘志を秘めて、調査に出向いた。




