ⅩⅣー2 聖香華
■変性体
目を覚ました少女はフレイアと名乗った。セイは彼女に薬湯を飲ませ続けた。
フレイアの心身のダメージを癒し、子も流れぬように。フレイアはセイに何者かとは聞かなかった。フレイアも本当の名を名乗らなかった。互いの香りで信頼関係は結ばれていた。
ようやく起き上がれるようになったフレイアに、セイは言った。
「あなたさまも、わたしの香りにお気づきでござりましょう。わたしは香華族の一人……。あなたさまからも、香華族の香りがいたしまする」
フレイアはセイをじっと見た。セイは続けた。
「真の名はレオンさまとお見受けいたしまするが、いかがでござりまするか?」
フレイアはいったん目を伏せ、そして目を上げた。
「はい……わたしの名はレオンです。ただ、わたしが香華族かどうかまでは、わたしにはわからないのです」
「さようでござりまするか……」
「わたしは二歳の頃に姉によって天月に預けられたそうです。姉の名もわかりません。姉はわたしを天月に託すとすぐに姿を消したとのこと……」
セイは頷いた。あの内戦の惨禍を潜り抜け、身の安全をはかるとすれば、天月こそ最も安全な場所――。賢い姉皇女はそう考えたのであろう。
「姉上はあなたさまより十歳ほど年上であられますのか?」
「はい。そう聞いています」
セイはレオンにひれ伏した。
「まちがいござりませぬ。あなたさまはカトマール皇子レオンハルトさまでございまする。姉上は皇女リリアンヌさま。よくぞ生きておられました……」
セイはひとしきり泣いたあと、涙をぬぐってレオンに向き合った。
「わたしは、かつてカトマール皇帝に仕えた者でござりまする。あなたさまは亡きファウン皇帝にとてもよく似ておられまする」
「ファウン皇帝……? 処刑された皇帝の前帝のことですか?」
「さようでございまする。あなたさまの祖母君にあたりまする」
レオンは尋ねた。
「教えていただけますか? いろいろなことがわからないのです。わたしはどうやってここに来たのでしょうか? わたしは男子として育ちましたが、いまは女体で、子を孕んでいます。どうしてこのようなことが起こったのでしょうか?」
セイはふたたび涙ぐんだ。
「あなたさまが、われわれ香華族が待ち望んだお方――〈聖香華〉だからでございまする」
「〈聖香華〉……?」
「香華族最高の異能者のことでございます。〈聖香華〉の中には「変性体」の者がおり、性別を変えることができると伝わりまする。空間を超えることもできまする。あなたさまがお子を助けたいと強く念じられた結果、ここに運ばれたのでござりましょう」
「変性体……? 空間を超える……?」
「さようでござります。あなたさまがご存知ないのも無理はござりませぬ。香華族のごく一部にのみ伝わる秘密でござりますれば」
■孫娘
セイは、村人にはフレイアの存在を伏せた。谷に住むのは、本香華からの離脱を余儀なくされた人びと――。これゆえ、虐殺の対象からはずれ、貧しいながらも、命を長らえている。
〈本香華〉の中核に位置するフレイアの存在は村人にとっても、村そのものにとっても非常に危険だった。だが、セイは、何としても香華族のためにこの本流の血筋を残す必要があると考えた。そこで、ひそかにかくまったのである。
フレイア=レオンもまた孤島のことと彪吾のことは隠した。万が一にも彪吾に危害が及んではならない。
帝国崩壊時の内戦はいったん収まった。だが、今度は反政府運動が高まり、ふたたび紛争が激化しつつある。それにつけ込むように、国境地帯では、隣国バルジャが部族紛争を煽っている。
部族紛争は拡大し、多くの死傷者が出ていた。NGO「国境を超える医療団」も近くに来て、救助活動にあたっていた。ある日、村の子どもが大けがを負った。薬草では対応できず、手術が必要だった。担当したのは恭介。恭介の執刀で子どもはいのちをとりとめた。
フレイアを守り切れないと判断したセイは、恭介にあることを恃んだ。
――孫娘フレイアをこの地から連れ去り、安全に子を産ませてほしい。
若すぎて、子宮の発達も不十分。本来は、子を産むに安全な年齢ではない。非常な難産になる恐れが高い。
そう付け加え、特別な薬草を恭介に手渡した。ただ、セイは恭介にフレイアや香華族の秘密は明かさなかった。
医療団が置かれた地区にも危機が迫った。撤退が決まった。
フレイアはセイを置いていけないと頑として動こうとしなかった。セイが滾々(こんこん)とフレイアを諭した。
――子を安全に産みたければ、恭介についていけ。彼ならば信頼できる。
■恭介
フレイアは麗鈴と名を変えた。
日本に入るにあたり、戸籍上、彼女は恭介の妻となった。
四国のひなびた無医村で、恭介は診療所を開いた。村人には感謝された。妻の麗鈴は、病弱としてまったく人前に出ず、数か月後に子を産んだ。
予想通り、非常な難産だった。
恭介は大学時代の友人である産婦人科医ウツミを呼び寄せた。恭介がセイから託された特別な薬草を敷き詰めると、得も言われぬ高貴な香りが漂った。その香りがお産の苦しみを和らげたようだ。
無事、女の子が産まれた。だが、母親は目覚めず、昏睡したままだった。ウツミ医師は恭介に注意事項を伝えて、山を去った。
恭介は治療時以外、麗鈴に指一本触れたことがない。だが、麗鈴を愛していた。麗鈴も恭介の想いを知っていたが、その想いに応えることはなかった。麗鈴の心には彪吾しかいなかったからだ。
女の子は育った。だが、麗鈴の身体は出産後、外見はあまり変わらなかったが、内性器から次第に男性化していった。
一年の授乳期間が終わった頃、麗鈴が息をひきとった。
谷の老女に言われていた通り、恭介は遺体を一週間、冷暗所に安置した。
一週間後、遺体は消えていた。恭介は驚愕したが、妻を「病死」として届け出た。土葬文化が残る地域であったことが幸いした。石を入れた空の棺を土葬した。
恭介は麗鈴=フレイアの行方を探さなかった。これも老女との約束だった。老女は子が乳離れするときまでの期限付きでフレイアを恭介に託したのだから。
フレイアはあの老女の許に戻ったのだろう。恭介はそう考えた。カトマールの政情はまだ不安定だ。国境地帯の紛争も落ち着いていない。谷に平穏が戻ったわけではなかろう。
だが、彼女はここを去った。
――二度とフレイアに会うことはないだろう。
娘にも叔父にも、そして友人ウツミ医師にも、母(妻)は病死と伝えた。
■五歳の凛空
恭介は医師団には復帰せず、子育てに専念した。叔父の虚空も手伝いにやってきた。
凛空と名付けた子が三歳のとき、異変があった。川のせせらぎにいた魚の命をリクが救ったらしい。その夜、リクは熱を出し、三日三晩寝込んだ。
その後、五歳になったリクは、原因不明の高熱を出し、生死の境をさまよった。リクは山で瀕死になったフクロウの子を助け、その代わりに自分も命の危機に陥ったのである。
恭介も虚空も、リクが何かを助ける引き換えに高熱を出すと気づいた。医師二人の力をもってしても、リクの熱が下がらない。このままでは肺炎が悪化する。
虚空は旅先の奥地で学んだ呪術を使ってリクの力を封印した。熱が下がり、なんとか危機を乗り越えた。だが、リクは一変した。表情と快活さをなくしてしまったのである。引きこもりがちになり、村の子たちとも仲良くやっていけなくなった。
虚空と恭介は、このままリクを村の学校にやるのを躊躇した。
虚空が提案した。
――アカデメイアの〈蓮華学院〉に行こう!
〈蓮華〉は、リクのような子を受け容れている。
ちょうど、虚空の旧知であった岬の上病院が医師を募集していた。恭介と虚空はリクを連れてアカデメイアに移った。
虚空は、母の遺産であるぼろい屋敷で動物病院を開いた。




