ⅩⅢー2 十歳の日の真実
■十歳の日の真実
櫻館――。
目を閉じて横たわる彪吾に身体を重ね、レオンは次第に意識を失いながらも、逆に鮮明な記憶を取り戻しつつあった。
――十歳のあの日。
レオンは幸せに満ちていた。天月の山を下り、あれほど会いたかった彪吾と会い、彼のピアノ演奏を聴き、二人でおしゃべりし、同じベッドで手をつないで眠り、再会の約束もした。
準決勝の演奏は互いへのメッセージを込めた。レオンは彪吾に出会った喜びを捧げ、彪吾はレオンに再会の約束を伝えた。彪吾一家と一緒にとる予定の夕食は、レオンにとって一生忘れられない思い出になるはずだった。
だが、演奏を終えたレオンの前にある人物が現れた。いつも宗主の隣にいる天月修士――マルゴだった。彼はレオンにこう告げた。
「宗主が至急お呼びだ。三十分ほどで済む。ついてきなさい」
十歳の子に断れるはずがなかった。せめてミライに告げようと思ったが、ミライは来客があるとかでそばにいなかった。彪吾との約束まであと三時間……。ここから別院までは車で三十分ほどのはず。時間までには戻って来られるだろう。
レオンは天月修士マルゴが用意した車に乗った。
車は、天月本山とも天月別院とも違う道を進んだ。レオンが尋ねると、マルゴは言った。
「宗主は別のところでお待ちだ。もう少しで着く。安心しなさい」
車は、天月山脈のふもとにある小さな庵の前で止まった。中に入ると、宗主がいた。マルゴは部屋を出た。宗主は結界を張り、レオンとの会話が漏れないようにした。
レオンは身を固くした。宗主はいつも厳格な雰囲気でレオンを圧倒するが、今日はいっそう厳しい顔つきだった。
幼いながら、レオンは宗主に対して正式な礼をとった。
「顔を上げなさい」
宗主の声もまた、表情と同じくらい固かった。
「これはおまえが書いたものか?」
宗主は、仮綴じした書面を見せた。譜面だ。レオンが書き記した曲だ。
「そうです」
レオンが答えると、宗主の表情がいっそう固くなった。レオンは戸惑った。曲を書き留めるのはしてはいけない行為だったのだろうか……。だが、そのような禁令はないはずだ。
宗主は額に手を当てて考え込んでいる。レオンにはなすすべがなかった。
「いつ頃からだ? いつ頃からこれらの曲を作り始めたのか?」
「二年ほど前からです」
宗主の眉がピクリと動いた。
「それは、おまえが異能を発揮して、わたしの指導を受けるようになってからのことだな?」
虚言は禁じられている。
「その通りです。宗主さま」
レオンが答えた。
「おまえがその後、異能を発揮していないことはよく承知しておる。おまえなりに異能の抑制に努力しておるのであろう。……だが、このように曲を作り、楽器を奏でることもまたおまえの異能の現れであるとまでは思い至らなかったか?」
レオンは面食らった。思いのままに曲を作るのが、なぜ異能なのか?
黙ったまま大きく目を見開く美少年を、宗主は厳しく見つめた。
「おまえの曲は、ひとの心を惑わす力をもつ。しかも、抗うことができぬほどきわめて強い力だ」
レオンは驚いた。
いままで自分の曲を聴いた者に問題など起こったことはない。
「申し訳ございません。宗主のお言葉の意味がわたしにはわかりません……」
レオンは肩を震わせながら、精一杯の声を絞り出した。
宗主は冷たい声で言い放った。
「おまえの曲は、神曲ともなれば、邪曲ともなりうる。ひとを救い、喜びを与えることもできるが、人を死に至らしめることもできるのだ」
「そ……そんなまさか……?」
レオンの小さなきれいな唇が小刻みにブルブルと震えた。宗主が続けた。
「この力は、まぼろしの〈月読族〉の異能だ」
「月読族……?」
「おまえが知らぬのは無理もない。代々宗主にのみ伝えられてきた秘密だからな。〈月読族〉は古い一族――ルナ神族に最も近く、異能も最も強い。太古に滅んだとされるが、一部が命脈を保ったらしい。その筆頭が〈弦月団〉だ。強大な異能を恃み、非道を尽くしたゆえに、初代銀麗月が〈弦月団〉を滅ぼしたと伝わる」
レオンが蒼白になった。
「おまえはすべてにおいて秀でている。ゆえに、わたしは、おまえには銀麗月の素質があると見込んで指導を行ってきた。……だが、じつは銀麗月と〈弦月〉は表裏の関係にある。おまえが、〈弦月〉の傾向を強く示すとなれば、その傾向を断たねばならん」
レオンは震えを抑えて、気丈に宗主を見つめた。
「わたしは、生きていてはならない存在ということでしょうか……?」
宗主はレオンの美しい顔を見つめ、ゆっくりと首を振った。
「そうではない。ただ、〈弦月〉として生きることは許されない」
幼いレオンの秀麗な顔が苦悶にゆがんでいく。
「わたしはどうすればよいのでしょうか?」
宗主はそれには答えず、ひとり語りのように静かに話し続けた。
「おまえの異能を抑えるために二年間、わたしは指導してきた。おまえにとっては苦痛であっただろう。それはわかっていた。異能とは、ほとばしる生命の輝きのようなものだからだ。おまえの音楽も多くの人びとや森の生き物たちに大いなる喜びを与えてきたはず……。だが、その異能を抑えようとする者に対して、おまえの意思とは無関係に、異能が報復するのだ。これもまた弦月の異能のなせるわざだ。おまえの異能の力で倒れた少年たちの身体には明らかに良くない兆候が出ておる。おまえの異能を抑制しはじめてから、わたしもまた体調がすぐれぬ……」
レオンは真っ青になった。自分の力がそのような忌まわしい影響を及ぼしているとは……。
「わたしのことは良い。わたしは宗主としての務めを果たしているまで。おまえの責任ではない。だが、知っておけ。おまえの異能は、おまえが大切にする者の命を奪う恐れがある。相手がおまえを信じるかぎり、おまえの異能は報復の力に転じることはあるまい。だが、おまえが愛する者がおまえを裏切ったり、あるいは、おまえの異能がおまえの力を超えて暴走したりしたときには、おまえは殺人鬼と化す恐れが高い。それどころか、世界を破滅させる力すら持つかもしれぬ」
レオンは涙目になっていた。自分がだれよりも愛する者――彪吾。彼に害が及ぶ恐れがあるというのか?
「宗主さま。わたしにできることは何でしょうか?」
宗主は哀しそうな眼をした。
「この曲譜はわたしのほうで保管し、だれの目にも触れぬようにする。だからせめて、おまえは二度とピアノを弾くな。決して曲を作ってはならん。よいな?」
「……はい」
「おまえが〈弦月〉の異能を自身で抑制できるようになれば、おまえはだれをも傷つけずに済むだろう。だが、それまでにはまだ何年もの修業が必要だ。その修行の間、だれとも接触してはならん」
レオンは頷いた。……もう彪吾には会えない。彪吾との約束も果たせない。
宗主の命令を受けて、修士マルゴはレオンを庵の外に連れ出した。宗主が指示した場所にこの少年を送り届けねばならない。
――それは天月本院から遠く離れた秘密の場所。
ひとたびそこに行けば、戻って来られるかどうかすらわからない。非常に苛酷な修行――事実上の監禁生活――が始まる。
■宗主の決断
道中は道なき道だ。渓谷の脇にある獣道を通る。
突然、何人かの者が行く手をふさいだ。
マルゴは驚愕した。この秘密の道に賊が出るなど考えられない。マルゴも天月修士――天月最高の武術者の一人であり、天月宗主の護衛も兼ねるほどだ。だが、相手は三人――しかも三人ともマルゴと同格かそれ以上の力を持っていた。
マルゴは気を失った。殺害の意図はなかったようだ。
気が付くと、レオンの姿はなかった。
レオンが拉致されたと聞いた宗主は、レオンを事故死に仕立て上げ、レオンの異能と拉致の事実、そしてレオンという存在を世間に対して隠すよう、マルゴに指示した。
レオンの異能は天月宗主と最側近の天月修士マルゴの二人だけの秘密だった。レオンを養育してきた天月士ミライはレオンに異能があることに気づいたが、それ以上のことは知らないはずだ。
――では、いったい誰がレオンを拉致したのか?
その者たちは、レオンの異能に気づいたのか?
天月幹部の中に、密偵がいるかもしれない。宗主はマルゴに極秘の捜査を命じた。だが、皆目手がかりはなかった。
三年後、天月宗主は、病に倒れた。
宗主の症状は、本人の希望もあって隠され、宗主は隔離状態で看護を受けていた。まもなく、天月を悲報が覆った。現役の天月宗主が、天月にて「臓腑に致命的な損傷を負った結果それが回復することなく」死んだのである。
宗主の早すぎる死は、天月に混乱をもたらした。すでに引退していた大尊師が復位した。
大尊師は、気ままな旅から戻ってきた時、腕に赤子を抱いていた。彼は赤ん坊をカイと名付けた。
レオンの異能の復活・再来を怖れた前宗主は、大尊師にのみ真実を伝えた。レオンの楽譜をすべて集め、禁書室の奥深くに封印したことも。
しかし、封印を解除する方法は伝えず、大尊師にはこう伝えた。
――自分とともに曲譜そのものも闇に葬られた方が良い。
前宗主は、自らの病の中でそう決断したのである。
春先の一千年ぶりの稀な月蝕は、その異能の「再来」を予知するものであった。しかし、大尊師は、前宗主とは異なり、その異能には両義性があると考えていた。ゆえに、カイに真実を調べさせるとともに、古代資料に解決の手掛かりを求めさせた。
だが、大尊師は、カイには曲譜の存在を教えなかった。前宗主の遺志を無視できなかっただけではない。それは世に出るべきではないと考えたからである。
カイは気づいた。
――曲譜は、レオンの天才ぶりを遺憾なく発揮するものであった。それゆえに善と悪へ向かう力がともに非常に強く、カイもまたこの秘密をどこまで明かすかには慎重にならざるを得なかった。




