Ⅻー5 エピローグ――二つの名
■二つの名
ホン・スヒョンは、〈アリエル・コム〉としてアカデメイア大劇場――「白き殿堂」――を見上げた。ここに来ることができるとは思わなかった。
半年ほど前、長く指導を受けてきたタユルに呼び出された。
国立芸術大学音楽学部への推薦入学が内定したという。
スヒョンは貧しい。
音楽活動に必要な学資など用意できない。奨学金や天志教団の支援でここまでやってこられた。国立芸術大学は、ミン国最高峰の大学。入るのは非常に難しい。その推薦入学を勝ち取ることは、スヒョンにとって最大の目標であった。さらに将来の成功を確実にするには、大学でトップクラスの成績を得ることが必須だ。
大学はミン国中部の首都ナジにある。実家からは遠い。学費も寮費もレッスン代もすべて免除の特待生にも選ばれた。タユルの指導の賜物だ。
めずらしく喜びを露わにしているスヒョンに、タユルはこう提案した。
-――大学入学前に、半年か一年間、アカデメイアで学んでみてはどうかね?
九鬼彪吾を中心に音楽学部が新設され、特別編入試験が行われるという。スヒョンはとまどった。国立芸術大学に入学が内定しているのに、アカデメイア編入試験を受けることなどできるのか?
スヒョンのとまどいを予想していたように、タユルはこう説明した。
「アカデメイア特別編入試験では、新入学・編入学・留学などの枠を自由に選べるんだ。普通、留学生に編入試験はないけれど、この試験はルナ・ミュージカル出演と学費全額免除の選考を兼ねているので、留学生も対象になる。きみは留学枠で申請すればいい。国立芸術大学に在籍しながら、アカデメイアで一時的に学ぶことができる」
スヒョンの眼が輝いた。
憧れの九鬼彪吾に学ぶことができるのか?――それならば迷うことはない。
タユルは、スヒョンの表情を見逃さなかった。しかし、わざと気づかないふりをした。愛弟子が、自分以外の音楽家に憧れるなど、おもしろいはずがない。
「ただし、条件がある。アカデメイアには〈ホン・スヒョン〉としてではなく、別の名で行くんだ」
スヒョンが怪訝な顔をした。
「〈アリエル・コム〉という名だ。性別は女性」
「別人になりすましてアカデメイアに行くということですか?」
「うむ」
「どうして……?」
「〈アリエル・コム〉は、神につながる名だ」
タユルは厳粛な表情で、弟子に諭した。
「教団に仕える者は、現世の自分と決別せねばならん。キミが生来の名〈ホン・スヒョン〉として音楽活動をするのをやめる必要はない。だが、教団には、〈アリエル・コム〉として仕えてもらいたい」
「なぜ、〈アリエル・コム〉なのですか?」
「それこそが、神の啓示を受けた音楽家の名だからだ。キミはその名を継承し、音楽家として生まれ変わるんだ」
「生まれ変わる?」
「うむ。キミならばできるはずだ」
「キミは選ばれたんだよ。〈アリエル・コム〉としてアカデメイアに行き、学ぶとともに、教団に奉仕するがいい。〈ホン・スヒョン〉も〈アリエル・コム〉も同一人物だ。二つのペルソナをもつだけだ。ゆえに、試験でなりすましなどの不正をするわけではない。アカデメイアにはその旨も伝えた上で受験できるよう手配しよう。アカデメイアではさまざまな地域や文化の若者を受け容れる。複数の名を使い分けることは権利として認められている」
「なぜ、アカデメイアで〈アリエル・コム〉と名乗る必要があるのでしょうか?」
「〈アリエル・コム〉の名で、神のためにある重要な役割を果たさねばならんからだ」
「役割?」
「神のための音楽を集めることだ」
「神のための音楽?」
「そうだ。九鬼彪吾の音楽だ」
驚いたような顔をしたスヒョンの目を覗き込むように、タユルは続けた。
「九鬼彪吾はほとんどの曲を公表していない。だが、隠された曲の中には、神の心に叶う音曲が多数含まれている可能性がある」
「神の心に叶う音曲?」
「そうだ。最新の〈五月の歌〉を聞いたか?」
「はい」
「あの曲を神がたいそう喜ばれたという。これまで鳴ったことのない神琵琶の弦が〈五月の歌〉に共鳴して音を出したんだ」
「九鬼彪吾はもっと多くの音楽を隠しているはずだ。キミはそれを調べ、九鬼彪吾からそれらの音楽を得るのだ」
「音楽を盗めと?」
「神のためだ。そして、それは信徒のためになり、キミのためにもなるだろう」
スヒョンは困惑した。音楽を盗むなど、自分のプライドに照らしても、彪吾への敬意を考えても、絶対にありえない。
だが、タユルは、スヒョンのとまどいを完全に無視した。
「〈アリエル・コム〉という名は、教団ではパスポートのように通用する。あちこちで、教団幹部の多くが〈アリエル・コム〉に協力してくれるだろう。だが、〈ホン・スヒョン〉など、だれも見向きもしない。国立芸術大学で学ぶのは、〈ホン・スヒョン〉の実力次第だ。思う存分、キミの好きにすればよい。だが、教団に関わるミッションを果たすときには、必ず〈アリエル・コム〉と名乗れ。〈アリエル・コム〉の名にふさわしくないと判断されれば、二度と〈アリエル・コム〉を名乗ることはできない」
「ボクを試すということなのですか?」
「そうだ。教団幹部会で決定された。キミに〈アリエル・コム〉の資格があるかどうかを見極めるための機会を与えると」
「それが、九鬼彪吾の音楽を盗むということなのですか?」
「盗むというのは語弊がある。九鬼彪吾が隠している音楽を探り、それを〈アリエル・コム〉がアレンジして神に捧げる音楽に仕上げ、〈アリエル・コム〉が演奏して神に奉納するという役目だ。この役目は、九鬼彪吾に匹敵する音楽家でなければできない務めだ。だから、キミに白羽の矢が立ったということだ。これまで恵まれなかった〈ホン・スヒョン〉の人生は、神の祝福に包まれるだろう」
■神曲
ホン・スヒョンは、〈アリエル・コム〉として試験控え室で順番を待っていた。
だれもが緊張の面持ちで重い雰囲気の中、ひとりの少女はまったく傍若無人だった。輝くばかりの美少女だった。ついつい盗み見ていると、少女に声をかけられた。正体を見破られたかと緊張した。だが、そんなことはなかったようだ。
試験室に入ったとき、中央の美青年に眼が釘付けになった。九鬼彪吾だ。彼に会うためだけにここに来た。スヒョンにとって「神」も「天志教団」もホントはどうでもよい。
だが、九鬼彪吾は大切だ。彼の音楽に救われ、彼の音楽に導かれてここまで来たのだから。
アカデメイアでの生活は楽しかった。九鬼彪吾といられるだけで幸せだった。だが、ある日、衝撃を受けた。
――あの美青年はいったいだれだ?
彪吾がうれしそうな顔をして、青年と連れだって去って行った。〈アリエル・コム〉など存在しないかのように……。
すぐに、彼がラウ伯爵の筆頭秘書レオンだと知った。レオンに嫉妬を感じたとき、スヒョンは気づいた。
――ボクは九鬼彪吾に恋している。
彪吾の拉致を持ちかけられたとき、ほとんど迷わなかった。ほんの数日とはいえ、彪吾を独占できる。彪吾の身に危険はなく、彪吾自身はその間の記憶を残さないという。それでも良かった。どんなに焦がれても触れることができない九鬼彪吾に一度でも触れることができるのであれば……。
驚いた。
〈アリエル・コム〉の名が、これほどの力をもつとは……!
計画を実現するための体制がすぐに作り上げられた。何人もの協力者が現れた。
だが、もくろみ通りにはいかなかった。意識をコントロールされているはずなのに、彪吾はかたくなにピアノを弾くのを拒み続けた。
タユルが切れた。スヒョンは必死で彪吾をかばった。いささかなりとも彪吾を傷つけないように。
期待通り、彪吾に触れることはできた。口づけすることもできた。彪吾は意識朦朧であったからだ。だが、計画は失敗した。
彪吾は取り戻された。何が起こったのかわからない。気がつくと、彪吾の姿が消えていた。
そのときスヒョンは意識を失ってしまったようだ。記憶はない。だが、かすかに、ルルの声を聞いたような気がする。
――おまえを許さん!
アカデメイアから〈アリエル・コム〉は消え、〈ホン・スヒョン〉としてミン国の本来の居場所――国立芸術大学――に戻った。平穏な学生生活が始まった。名だたる教授たちがいて、同級生のレベルも高い。
だが、物足りない。アカデメイアで感じたような強烈な刺激も焼けるような焦りもない。この場所であれば、たいして努力をせずともすぐにトップに立てる。
ほどなく、教団幹部会から連絡があった。
〈アリエル・コム〉としての活動を続けよ――その任務は改めて指示する。
見切られなかったことを喜ぶべきかどうか、わからない。確実なのは一つだけ。
――九鬼彪吾を忘れられない。
あるとき、彪吾が一回だけ弾いた曲をスヒョンは記憶して封印した。譜面には書き留めず、タユルにも伝えていない。九鬼彪吾と自分をつなぐ唯一の絆のような気がしたからだ。
いま、スヒョンは、九鬼彪吾の曲をすべて分析し、彪吾のフレーズを用いながら、オリジナルな曲を作っている。それは、彪吾とつながる証だった。ピアノの前に座り、スヒョンは遠く東の日の出にまなざしを向けた。
また一日が始まる。彪吾のいない一日が始まる……。
○ルルとアリエル・コムのアカデメイア受験については、下記をご参照ください。
「銀月の島と緋月の村――異なる月がかかる二つの世界」第七章 六月の転校生 Ⅶー4 アカデメイアと〈蓮華〉
https://ncode.syosetu.com/n4114kl/36
○彪吾が弾く楽曲の力については、
同 第十一章 〈天月の子〉Ⅺー2 レオンの秘密
https://ncode.syosetu.com/n4114kl/55




