Ⅻー3 夢――十六歳の出会い
■少女フレイア
彪吾の無事帰還がラウ伯爵に報告された。ラウはホッと胸をなで下ろした。だが、彪吾の意識がはっきりしないという。レオンはしばらく彪吾に付き添うと言った。
レオンの部屋のベッドに彪吾が横たえられた。虚空が診察した。肝臓の数値が落ち、かなり衰弱しているが、容体は安定しており、まもなく目を覚ますだろうとのことだった。一同がホッとした。レオンと銀狼を残し、みんなが部屋を出た。二人きりにしたほうがいい。彪吾を一番心配したのはレオンなのだから。
彪吾は眠り続けた。夢の中で、彪吾は十六歳に戻っていた。
船が遭難し、両親の生死はわからない。どこかわからない孤島に流れ着いて目を覚ましたときには、絶望しかなかった。ただ、目の前で自分をのぞき込む少女の美しい瞳に胸が高鳴った。
フレイアという名だった。レオンを忘れたわけではない。なのに、少女フレイアの瞳にレオンの面影が重なる。
数日後、ずいぶん元気になった彪吾は、銀狼の毛並みを撫でながらこう言った。
「この子の名前は?」
「……レオ」
「レオ……。ボクの友だちを思わせる。レオンという名前なんだ。彼はボクに約束したんだ。天月の銀狼の子に会わせてあげるって……」
フレイアは、いつも静かに彪吾の話を聞いた。
「その子は死んでしまったって……。でも、ボクは信じてない。きっとレオンは生きてる。ボクを残して逝ってしまうはずはない」
「どうして?」
「いっぱい約束したのに、それを果たさないままで、レオンがボクを置いていくはずはないんだ」
彪吾の目には涙が浮かんでいた。フレイアは彪吾の手をそっと握った。
銀色の小雨が洞窟の外に降り注ぐ。二人並んでそれを眺めながら、彪吾がふとつぶやいた。
「ボク、ヘンなのかな? キミといると、まるでレオンと一緒にいるみたいだ」
フレイアが彪吾の横顔に尋ねた。
「どうしてそう思うの?」
「十五歳のレオンを想像すると、キミの姿が思い浮かぶんだ」
「ふうん。似てるの?」
「うん、似ているよ。男と女の違いだけかな。でも、顔かたちだけじゃないんだ。話し方も、しぐさも、ぜんぶがレオンを思わせる……」
「なら、わたしをレオンだと思えばいい」
彪吾は驚いてフレイアを見た。
「そ……そうか。そうすればいいのか……?」
「うん!」
フレイアはにっこりと笑顔を返した。二人の間に寝そべった銀狼がのそりと首をもたげた。フレイアはその首を撫で、彪吾はその背を撫でた。
「その人のことがすごく好き?」
「うん! 大好きだ」
彪吾の頬がほんのり紅く染まった。
「レオンに会ったときにこう言ったんだ。――初めてのたった一人の友だちだって。でも、今ならきっと違う言い方をする……」
「どんなふうに?」
「愛してるって……たった一人愛し続けている人だって、そう告白する」
「きっと、その人もあなたを愛し続けているはず」
「うん、ボクもそう思う。ボクたちは運命で結ばれているもの」
■古琵琶
風は冷たく、秋の訪れを感じる日だった。
夕食を済ませるといつもフレイアは彪吾を隠した洞窟に行った。闇夜を駆けるのは怖くなかった。いつも銀狼の背に乗っていたからだ。
満月が照らす風の中をひそかな音色が響いた。どこかなつかしい美しい調べだった。
彪吾は、琵琶を手にしていた。
「森の奥の小さな神殿で見つけたんだ」
「神殿?」
「うん。白い大理石でできた神殿だよ。ずっとほったらかしにされていたみたいで、半分くずれかけてるけど、内側には水晶が貼られていて、とてもキラキラしてきれいなんだ。その中央の祭壇らしきものの上にこの琵琶が置かれていた。まるで捧げもののように」
「ふうん。あなた、琵琶が弾けたんだ」
「うん。ボクの母方の祖母は、古楽器の研究者だった。祖母の家にはいっぱい古楽器が置かれていてね。祖母が亡くなったあと、母がうちに引き取ったんだ。ボクは子どものときから祖母に手ほどきを受けたから、琵琶も琴も弾けるよ」
「そうだったんだ。あなたはピアノの名手だとばかり思ってた」
「え? どうしてピアノのことを知ってるの? ボク、言ったことあった?」
「う……うん。言ってたはず……」
「そうかな? ボク、レオンがいなくなってから、人前ではピアノを弾かなくなったんだ。でも、レオンの曲だけは弾き続けたよ」
「レオンの曲……?」
「うん。さっきの曲もそう。レオンの曲を弾くと、ほら、森の動物たちがたくさん集まって来るんだ」
見回すと、鹿、ウサギ、狐、など、さまざまな獣たちが彪吾を取り巻いていた。
「レオンの曲は、森や生き物にとって生きるための音楽なんだ」
「生きるための音楽……? どういうこと?」
「ほら、この子の足を見て」
彪吾は、すぐそばにいるウサギの足を指さした。
「この子は、足をケガして、死にそうになっていたんだ。でも、レオンの曲を聴かせたら、元気になって、足も治った。もう走れるよ」
フレイアのきれいな瞳からとめどなく涙があふれた。彪吾がビックリして、フレイアの細い肩を抱いた。
「ど……どうしたの?」
「うれしくて……とても、とてもうれしくて……」
「キミはやさしいんだね」
彪吾は、フレイアがウサギの回復を喜んでいると思ったようだ。
「日本でピアノを弾いたときには、こんな反応はなかった。たしかに、周りにいるひとみんながすごく喜んでくれたけど。きっと、この琵琶の力もあるんじゃないかな。レオンの曲をこの琵琶で弾くと特別な効果があるみたい」
琵琶はずいぶん古いもののようだった。けれども、見事な象嵌細工を施された美しい楽器で、つま弾くと、得も言われぬ豊かで優美な音が奏でられる。
「こんな琵琶ははじめて見たよ。祖母は相当価値の高い古楽器をたくさん集めていたけれど、これほど見事な音が出る楽器はなかった。何か特別な楽器じゃないかな?」
音曲は、弾き手と楽器で命を救うものになりうる……。フレイアの涙は止まらない。
月明かりに浮かぶフレイアの横顔は、レオンに似て、あまりに美しかった。
気が付くと、彪吾は、フレイアの頬に口づけていた。フレイアの目が大きく見開かれた。
「ごめん……。キミがあまりにきれいだったから」
フレイアは彪吾の頬に白い手を差し伸べた。ふたりはそっと顔を寄せ合い、くちびるを重ねた。
■ためらい
いつもの洞窟の中で、二人はぎこちなく月を見上げた。
彪吾が妙によそよそしい。触ろうと手を伸ばすと、すっと避ける。見つめようと覗き込むと、さっと目を逸らす。隣に座ろうとすると、するっと距離をとる。
理由がわからず、フレイアは落ち込んだ。
嫌われたのだろうか……。口づけなどしてしまったから……? 彪吾はそんなこと望んでいなかったのかもしれない。
それでも、フレイアは洞窟に出かけた。彪吾に会いに出かけた。
そのたび一瞬うれしそうな顔で迎えてくれるのに、すぐに彪吾はフレイアから顔をそむける。なすすべがなく、銀狼の毛並みを撫で続けると、彪吾の視線を感じる。ひょいと目を上げると、彪吾はさっと目を伏せる。あれほど楽しいおしゃべりで満ちていた時間が、沈黙に変わった。彪吾は何か言いたそうにしながら、口を閉ざしてしまう。
そんな二人を、銀色の月の光が包み込む。
「わたし、ここに来ない方がいい?」
思い切って尋ねた。彪吾は目を見開き、大きくかぶりを振った。
「ちがう……ちがうんだ!」
彪吾は紅くなって、言葉を詰まらせた。フレイアがじっと見つめると、彪吾は思わず顔を背けた。
「……帰るね。もう来ない……」
立ち上がったフレイアの手首を彪吾がつかんだ。
「……待って!」
彪吾の顔が苦しそうに歪んでいる。
立ったまま、二人が向き合った。彪吾が絞り出すような声で言った。
「行かないで……」
だが、それ以上何も言わない。
「うん、行かない。座ろう」
フレイアが座ると、隣に彪吾も座った。彪吾はじっと森の奥を見つめた。そして、しばらくして自分の膝の間に顔を埋めた。フレイアは黙って彪吾を見守った。
そんな夜が何日か続いた。
激しい雨が降りしきる。これまでも強い雨の夜は洞窟には行かなかった。銀狼に無理はさせられない。ずぶ濡れになった姿を誰かに見られ、不審に思われてもまずい。
フレイアは物憂い顔で窓の外を眺めた。
――この森の奥に愛しいひとがいる。なのに、二人の間に、見えない壁ができたみたい。彪吾には愛してもらえないのかもしれない……。
三日後、からりと晴れあがった。このところ、午後に森に行くのは避けていた。どうも見張られているような気がする。だが、しばらく会えなかった分、少しでも早く彪吾に会いたい。慎重に後を振り返りながら、森の奥へと駆けて行った。
洞窟の前に人影が見えた。彪吾だ。彪吾がこちらを見ている。待ってくれていたのだろうか?
思わず走り寄ると、彪吾も駆けてきた。手を差し伸べると、彪吾がその手をつかんだ。引き寄せられるように彪吾の胸に抱きしめられた。
「会いたかった……!」
喘ぐように彪吾が耳元でささやいた。
「わたしも……」
そう答える唇がふさがれた。ふたりの身体がやわらかな草むらに倒れ込んだ。
「愛してる……何度言っても言い足りないほど」
彪吾は、腕の中のフレイアを見つめた。
「わたしも愛してる。こころから愛してる……」
フレイアはそう答えて、彪吾を強く抱きしめた。
「ごめん……」
「何が?」
「キミを避けたりして……」
「どうしてだったの?」
「自分がわからなくなったんだ……。レオンだけを愛していたはずなのに、いま胸に浮かぶのはキミの姿ばかり……。ボクは、キミのことも、レオンのことも裏切っているみたいだ。そんな自分が許せなくて……」
フレイアは愛しそうに彪吾を見つめた。
「かまわない……。そう言ったでしょ? わたしをレオンと思ってもかまわないって」
「でも……」
フレイアはためらう彪吾の頬にきれいな唇をそっと寄せた。
「あなたにとって、わたしがレオンであったほうがいい」
「どうして……?」
「ただ一人愛してきた人なんでしょ? その人の面影にわたしがかぶさるほうがいい。そうしたら、あなたがレオンを愛してきた時間をわたしも共有できる気がする。わたしも同じ時間、あなたを愛してきたように思える……」
フレイアはにっこりした。たまらず抱きしめると、フレイアも強く抱きしめてくる。そのままどれほど時間がたったろう。
指をからめながら、彪吾はフレイアに尋ねた。
「キミはこの島から出られないの?」
「うん。監視が厳重で、だれも逃げ出せない。でも、いつかきっと、あなたを逃がしてあげる」
「イヤだ。キミと一緒でなきゃ、ボクはここを出ない!」
森でフレイアを胸に抱き、銀狼や多くの動物たちとともに過ごす時間は、夢のように幸せだった。
だが、幸せは脆い。
――彪吾の記憶はそこで途切れる。
レオンと彪吾のはじめての出会い(十歳)については、以下をご覧ください。
「銀月の島と緋月の村――異なる月がかかる二つの世界」第四章 月下の少年 Ⅳー1 櫻館
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