Ⅻー2 救出
■学徒の憧れ
「風子、でかした!」
管理人屋敷に戻ると、リトが満面の笑みで風子を迎えた。会話はスマホで逐一リトへ中継されていた。
アイリは内心で眉をひそめる。
(あれだけ風子に言われておいて、自分のことだと気づいてないのか、この男……)
リトが得た情報を整理し始めた。
――ホン・スヒョンは地元では名の知れた音楽の秀才。しかし、家が貧しく、正式な教育は受けられなかった。そこで教会で基礎を学び、牧師の紹介で学費免除の音楽学校へ進んだ。その教会は天志教団の系列。スヒョンはそこで英才教育を受けた。
だが、学費免除の代償は重く、スヒョンは教団の活動に協力させられるようになった。本来の彼は、イヌや家族を大切にする優しい性格だったのだろう。
転機は一年前。国立音楽大学への推薦が決まったときだ。推薦の条件として、スヒョンは女性に姿を変え、アカデメイアの特別入試を受けた。実力があるので、合格は容易い。
アカデメイアでの生活は楽しかったようだ。存分に力を発揮できた。だが、真の目的は九鬼彪吾に関する情報収集。そして拉致。
スヒョンは彪吾を尊敬していた。その尊敬は本物で、葛藤も深かったはず。だが、教団の命令には逆らえなかった――。
みんなが息を呑んでリトを見た。アイリは少しだけ感心した。
(風子とジミンのあのたわいない会話から、ここまで読み取る?)
カイが口を開いた。
「九鬼教授を拉致した目的は、おそらく彼の〈曲〉。九鬼教授の曲は人の心を大きく動かします。その力は宗教団体にとっても魅力的でしょう。しかも、本人に弾かせるならば、効果は最大になるはずです」
レオンが問う。
「ならば、彪吾に彪吾の曲を弾かせるために……?」
「そう考えられます。だから、命の危険はないはず。しばらくすれば解放されるでしょう」
「ムリやり弾かされて、九鬼彪吾ともあろうものが黙っているはずがなかろう!」
サキが怒鳴った。
「ですが、意思をコントロールする薬を使われていたら?」
「まさか……擬薬か!」
「ええ。擬薬を使えば、命じられるままに弾き、解放後には記憶を失うでしょう」
「ううむ……」
サキは低く唸った。
レオンは状況が飲み込めず尋ねた。
「その擬薬とは?」
「雲龍九孤族に伝わる秘薬だ。春の空港連絡橋事故は覚えているだろう? あの事故を起こしたのが、〈蓮華〉教員のファン・マイ――わたしの同僚だった」
レオンもその事件は知っている。
「原因は飲酒運転とされた。だが、マイは酒を飲めない体質だった。遺体から大量のアルコールが検出されたのは、酒精擬薬を盛られたからだろう。しかも、本物ではない。数十年前に盗まれた秘薬の複製だ。威力は弱いが副作用が強い。無味無臭で身体に害はないが、一時的に酔ったような状態になり、指示に従ってしまう。自白や機密情報の奪取に使われた。だが、利き方が中途半端だと、かえって危険だ」
「……酒ですか……」
レオンが深刻な表情になった。
「どうした?」
レオンの沈痛な声が響く。
「彪吾は体質的に酒を受け付けません。ほんの一杯で理性を失うほど酔ってしまうのです」
キュロスは、舎村帰りの車の中での「抱擁事件」を思い出した。
――そういうことか……!
「まずい……非常にまずい」
サキが眉根を寄せた。
「薬が効きすぎる。急性アルコール中毒のような症状が出れば命に関わる」
レオンが蒼白になった。
サキが怒号をあげる。
「待ってはおれん! 彪吾を探し出すぞ!」
「おおっ!」
威勢のいい声を上げた後、みんなが顔を見合わせた。
――だが、どうやって?
■嗅覚
「クロが役立つよ!」
リトがデッキで寝そべるクロを指さした。
「レオンさん、九鬼先生の身の回り品を嗅がせてください」
レオンは、彪吾のスマホとハンカチを取り出した。拉致されたとき、彪吾は荷物を研究室に置いたままだった。
クロが匂いを嗅ぐ。カイが発信器付きの首輪をつけ、リトが茹でチキンを与える。キキとモモも慌てて駆け寄り、おこぼれにあずかった。
「この匂いを辿れ! クロ、頼んだぞ!」
クロはニャゴと鳴き、闇へに消えた。
丸一昼夜。クロは休まず走り続け、ある場所で止まった。カムイが金ゴキを首にぶら下げて飛んでいった。アイリのパソコンに金ゴキから映像データが送られてきた。
そこは、スヒョンの恩師エルムの家だった――愛人用の別宅だった。調べてもわからなかったはずだ。
室内にはスヒョン。
彪吾はピアノの前に座り、虚ろな表情で鍵盤を見ている。意識を操られながらも、必死に抵抗しているのがわかる。
年配の男が苛立ち、スヒョンが宥めていた。スヒョンは彪吾をベッドに寝かし、世話をしている。年配の男は部屋を出て行った。
――彪吾は生きている。
みんなが安堵した。
だが次の瞬間、レオンの表情が凍り付く。
スヒョンが意識のない彪吾に口づけしたのだ。
彪吾への憧れと恋心――ルルの情報は正しかった。
教団の命令とは別に、スヒョンは彪吾を独占できると期待したのかもしれない。彪吾の顔をなぞり、手をとり、うっとりと見つめ続ける。
バキッ。
レオンの右手から何かが砕け落ちた。
椅子の背が握り潰されていた。
――レオンの嫉妬は怖い……あれでねじ伏せられたら即お陀仏だ。
■救出
翌早朝。
目的の家を見据え、数人が張り込んだ。
――どうする? どうやって彪吾を救い出す?
「あたしがやる!」
ルルが名乗り出た。時間を止めるつもりだ。
だが、華奢なルル一人で背の高い彪吾を運べるのか? 金
間取りはゴキの情報で把握済み。彪吾のそばには、監視役を兼ねてスヒョンが張り付いている。懲りもせず、意識のない彪吾をなで回している。
レオンは限界寸前で、今にも飛び入りそうだ。キュロスが羽交い締めにして必死で止めている。
二階の部屋。バルコニーまで運び出せば、カイとリトが飛び上がって回収できる。
ルルが踏み込み、彪吾に飲ませていた薬をポケットへ。去り際、固まったままのスヒョンに二発強烈な蹴りを叩き込んだ。自分の分とレオンの分。
監視カメラは金ゴキが止め、外の護衛たちはキュロスが一瞬でのして回った。
救出は完璧だった。
ルルはリトに抱きかかえられて夢見心地。レオンの腕に運び込まれた彪吾はうっすら目を開け、「レオン……」と呟き、再び気を失った。
レオンは彪吾を強く抱きしめ、その唇を指でなぞる。
リトは思った。
――あのときと一緒だ。
櫻館でリトがうっかり彪吾の腕に触れたとき、レオンは同じように「他人の痕跡」を消そうとした。
――淡泊に見えて、レオンって実はとんでもなく粘着質……。




