Ⅺー6 兄と慕う人
■誰が?
――誰が気づいたのか?
たしかに、アメリアはアカデメイア社交界の華で、知る人ぞ知る女性だった。その住まいは〈青薔薇の館〉と呼ばれ、めずらしい青い薔薇が咲き誇ることでも有名だった。しかし、アメリアの私生活はヴェールに覆われていた。
〈青薔薇の館〉に住んでいたのは四人だ。アメリアと中年夫婦、そして、夫婦の養女となったライアである。
館の管理人の妻は、アメリアの食事や身の回りの世話をし、夫は庭仕事をはじめとする雑用を行った。二人ともアメリアの素性は知らない。アメリアが〈青薔薇の館〉を出たあとも、管理人夫婦は、黙々と仕事を続けた。女主人はしばらく不在と言われたからだ。アメリアの不在を隠すためでもあった。数年後、館の持ち主がラウ伯爵に移ったあとも夫婦は薔薇を育て続け、アカデメイアを卒業したライアは夫婦に感謝の言葉を捧げて、カトマールに帰国した。
アメリアが最後に消息を絶った時の連絡には、ルーティンの連絡にあらかじめ決めていたことと違うアルファベットが記載されていた。
――Z。
これは不測の事態が起こったため、ルートを随時変えて進むということを意味する。最終的な隠れ家に行くまで相当の時間がかかるという合図だ。
その後、アメリアからの連絡は途絶えた。最初の護衛からの連絡は数日で途絶え、新しく護衛につけた者からの連絡もない。おそらく何らかの追っ手がいたのだろう、パドアへの連絡手段も把握されているとアメリアは察知したに違いない。
パドアは自分の身辺を密かに慎重に調べた。いちばん危ないのがスマホやPCだ。通信の傍聴がありうることは当初から想定していた。〈梟〉か、〈蝙蝠〉かもしれぬ。だが、ここまで極秘の行動を立て続けに二度も察知するとは、とてつもなく優秀な密偵がからんでいる怖れが高い――まさか、〈天明会〉の〈闇〉?
アメリアがリリアということまではバレていないとしても、アメリアがカトマール反政府活動に加担していることが察知されたかもしれぬ。アメリアが危ない。だが、パドアが下手に動くと、疑惑を確定的にする。パドアを通じて支援してくれた人たちにまで迷惑が及ぶ。
アメリアを信じるしかなかろう。
聡明な彼女であれば、何らかの方法で最終的な隠れ家にたどり着くだろう。パドアは日々を祈るような気持ちで過ごしていた。
■隠れ家
最終的な隠れ家の情報は、ネット通信・紙・会話のいずれも使わず、それらのどれにも残していない。二人が初めて会ったあの森――その森にある無人の館だった。ラウ伯爵家の直轄領地だ。
――ある者をかくまいたい。
パドアの密かな願いをラウはすぐに承知した。詳細は聞かなかった。何かあったときにはすべてパドア一人で責任を引き受けるつもりだということをラウは十分理解していた。おそらく、カトマール抵抗運動の関係者なのだろう。
予定より半年も遅く、一年近くたってようやくその家に若い男性が入ったとの連絡がラウに入った。ラウはそれ以上調べなかった。パドアに聞くこともなかった。
アメリアは「トム」という平凡な名の男性として、その館で過ごした。名目上は、領地の管理人だった。この領地はラウ伯爵領の飛び地で、半島ミン国の北西部に位置する。ミン国の中心部からはかなり離れた辺境で、冬は雪に閉ざされた。その意味ではあまり顧みられない土地柄であり、人口は少なく、よそ者はすぐに見分けられた。
だが、ラウ伯爵領の住人は詮索されなかった。かつて、弟レオンとその母がそこに住んだときのように。ラウ伯爵家が絶大な尊敬を得ていたことの証だった。ラウ伯爵家の直轄領であることは村人の誇りであり、山と森と河が保全され、猟や農業を生業とする村人にとっては自然資源を育む宝庫となっていたのである。
伯爵領の管理人はしばしば入れ替わったが、それについて村人は気にとめなかった。領地の管理人やその家族が領地から村に出ることはほとんどなく、たまに都から物資が届けられるのが村人の目に触れる程度だったからだ。
このため、新しい管理人にも村人はまったく関心を持たなかった。三年後、管理人が替わったらしいという噂を村人たちは耳にした。ただ、それだけだった。
■再会
再会したときのレンの告白はストレートだった。
「あなたのそばにいさせてほしい」
レンらしい求愛だった。アメリアはレンの求愛に応えた。ただし、条件を付けた。レンはすべてを呑んだ。アメリアのそばにいられるなら、他には何も望まないと言い切った。
カトマールの民主化後、アメリアはアユとしてレンの妻となった。パドアは新政権樹立まではアカデメイアにとどまったが、のちに、アユと名を変えたアメリアを支えるため、カトマールに渡った。レンは世話になったパドアを実母のように大切に敬ったが、アメリアとパドアとの関係については知らされなかった。
レンは、アメリアに多くの秘密があることを十分承知した上で、約束を守り、決して詮索しなかった。
アメリアにとっても、レンのそばは居心地がよかった。レンはアメリアだけを愛し、アメリアを最優先したが、アメリアの才能を独り占めできないこともよく理解しており、政治的パートナーとしてのアメリアの意見や知識にしばしば耳を傾けた。アメリアを自立した一人の人間として尊重したのは、レンだけだったのである。
アユがアメリアであり、皇女リリアンヌであることは、ラウには知られたくなかった。レンも、妻が皇女であることは知らないままだ。
「もと第一皇位継承者」という立場は、レンの地位を強くする反面、危うくもする。皇女を政治利用する勢力は必ず存在する。リリアが望まずとも、リリアを祭り上げようとする者が出てくるだろう。
すでに、念願のカトマール民主政権の樹立には成功した。だが、今後はもっと苛酷な使命が待ち受けている。
カトマール帝国をつぶし、両親を処刑した黒幕、天明会の撲滅だ。これにレンを巻き込むと、カトマール政権自体がもたない。いつかはレンとも別れねばならないだろう。だが、それまではレンのそばにいたい。
■兄と慕う人
「レン兄さま」
シャオ・レンは振り返った。文化大臣ライアが、焼き菓子をもって入り口に立っていた。
「久しぶりに菓子を焼いてみたので、おすそ分けです」
レンは、顔をほころばせた。いつもレンのそばにいる妻アユは、いまはアカデメイア――盟友ラウ伯爵に会いに行った。ラウは、驚くだろう。アユがまさかアメリアだとは、いままで思ったこともなかったはずだ。
おそらく、二人は、二十数年前の思い出を互いに呼び起こしていることだろう。あのとき、アメリアはラウのそばにいて、レンの手には届かなかった。夜、月を見上げ、アメリアを想って何度も泣いた。
そんなとき、五歳下のライアはいつも菓子を持ってきてくれた。習いたての焼き菓子は、形はいびつだったが、しっとりと甘かった。
ライアは、カトマール内戦孤児の一人――レンと同じ境遇だ。香華族だが〈並香華〉――異能はもたない。父は、裕福な地方貴族で、蓄財にたけ、野心家であった。中央とつながりたくて、〈本香華〉の貴族たちに取り入っていたのが災いした。内戦時に処刑され、財産も没収された。だが、〈並香華〉であったため、妻子は処刑を免れた。
ライアの母は、ミン国新興財閥の一つリン家の出身であった。母は、娘ライアの手を引いて、着の身着のまま、リン家当主たる弟を頼った。だが、ほとんど門前払い同然の仕打ちを受けた。もはや、経済的にも政治的にも価値を失った三十代半ばの姉は、厄介者でしかなかったからだ。たまたま彼女の美貌に目をつけた老人が、後妻に迎えたいと望んだ。拒否できなかった。
母は娘を連れていくことができなかった。当主がライアを引き取ると申し出たからだ。ライアは抵抗した。母と同じように、政略結婚に利用されるだけだ。
わずか十歳ながら、賢いライアは、密かに叔父の家を出て、自立できる道を探した。
一つ、可能性があった。カトマール内戦孤児の保護プロジェクトだ。親を失った者、親に育ててもらえなくなった者が対象となる。
ライアは、プロジェクトの支援者の一人であるパドアの許を訪ねた。事情を聞いたパドアは、すぐに動いてくれた。ライアは叔父の手を離れ、アカデメイアに移ることになった。
アカデメイアでは、ク・ヘジンが世話をしてくれた。ライア自身は処刑対象ではなく、亡命者狩りの対象でもない。レンのように徹底的に隠す必要はなかった。ヘジンは、ライアを〈青薔薇の館〉の夫婦に預けた。ライアは、〈蓮華〉の生徒となった。
十三になったばかりの頃、〈青薔薇の館〉に一人の女人がやってきた。そのあまりの美しさに、ライアは思わず見とれた。
「ライアさんね? わたしはアメリカよ。これからこの館に住むことになったの。どうぞよろしくね」
うっとりするほど良い声だった。
ほぼ同じ頃、ライアは、もう一人の人物に出会った。シャオ・レンだ。カトマールの亡命者狩りが終わり、アカデメイアに復学したのだ。
ライアは胸を躍らせた。レンの知的で落ち着いたたたずまいに魅了された。すべてを失ったがゆえに、レンの横顔には深い悲しみと諦めが漂っていた。だが同時に、すべてを失ったにもかかわらず、レンの目は輝きと希望に満ちていた。このギャップが、ライアの心を捉えた。
カトマール抵抗軍に入ったライアは、レンの信頼を勝ち得た。そして、レンとアメリアの再会をお膳立てした。敬愛する二人の再会は、ライアが待ち望んだことでもあった。
だが、なぜかライアの胸がうずく。ライアには決して見せない愛しそうなまなざしをレンがアメリアに向けるとき、ライアの胸がざわついてならない。
カトマール民主化とともに、ライアは新政府の幹部となった。カトマールで政治家になったレンの信任篤い部下として、いま、ライアは文化大臣を務める。
ライアは、母校〈蓮華〉の訪問後、〈青薔薇の館〉を訪ねた。老いた養父母に心からの感謝を捧げ、養父母はライアを抱きしめた。
館の持ち主がいまはラウ伯爵であることを知ったライアは、改めて館の中を見渡した。
すべて、昔のままだった。アメリアと三人の若者が語らったサロンも当時のまま、時を止めている。
――ラウ伯爵……。
ライアはひそかに唇を噛んだ。
再婚のため家を出る前夜、母はライアにある重大な秘密を明かした。
――おまえの実父はラウ伯爵の父……伯爵はおまえの異母兄なの。




