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月下の神殿――銀麗月と聖香華  作者: 藍 游
第十一章 澄み渡る月光
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Ⅺー5 月下の逃避行

■貧しさ

 もう七十年近くも前になるだろうか。木漏れ日があたるデッキの椅子に腰掛け、ク・ヘジンは幼い頃を思い出していた。


 貧しかった。

 旅一座の主だった父は客のケンカに巻き込まれて亡くなり、母は働きすぎて病気になったとたん、ポイとものを捨てるように解雇された。幼い妹は飢えてひどい病気になった。何でもいい。食べ物が欲しかった。妹と母に食べさせるものが欲しかった。

 ヘジンのような浮浪児は珍しくなかった。ひどい不況で、だれもが貧しく、多くが飢えていた時代だった。


 目の前の屋台からよい匂いがした。

 思わずヘジンはそれをつかんで走り去った。男たちが追いかけてきた。手にした食べ物を取り上げられ、見せしめにと滅多打ちされた。たかだか八歳の女の子が、だ。でも、だれも助けてくれなかった。みんな同じように痛めつけられていたからだ。


 口の中が切れ、血の味がした。額からも血が流れていた。腕も足も殴られ、蹴られ、アザだらけになっていた。

 がんばったのにダメだった。母と妹に食べさせるものは何もない。フラフラと道に倒れ込んだらしい。あとは覚えていない。


 気がつくと、清潔なベッドに寝かされていた。傷も手当てされている。あわてて起き上がると、やさしそうな女性が言った。

「もう少し寝ていないとダメよ。ずいぶんケガしてたから」

 それでもヘジンは動こうとした。


「母ちゃんと妹のところに戻らなくちゃ」

「ムリよ。足を折っているのよ、あなた」

「でも、母ちゃんと妹が死んじゃう!」


 ヘジンは大声で泣きながら、ドアに向かって走ろうとした。だが、つまづいて動けない。ヘジンは泣きながら、包帯を引きちぎり、狂ったように暴れた。

 彼女が言った。

「わかったわ。あなたを連れて行ってあげるから、どこか教えてちょうだい」


 大男におぶわれたヘジンは小さな指であちこちを指さしながら、道案内した。

 女性は驚いた。この子は、一度見たものを正確に覚えているようだ。ほどなく、むしろに囲まれた掘っ立て小屋についた。中には痩せこけた女性が寝ており、そばに小さな女の子がゆらゆら揺れていた。ヘジンが悲鳴を上げた。女性は、付き添ってきた男たちに女性と女の子を保護するよう命じた。


 すんでのところだった。妹は肺炎を起こしていた。ヘジンの母と妹は命を取り留めた。ヘジンは女性に深く感謝した。女性は三人の家族に温かい食べ物と清潔な衣服を与えた。だが、ここを追い出したら、またこの母子は路頭に迷うだろう。

 女性は提案した。

――この屋敷で働かないか?


 女性は、ミン国のアン男爵家の女主人だった。ヘジンは喜んだが断った。

 あの橋の下には、多くの仲間がいる。旅一座の連中だ。みな貧しいが、貧しいなりに助け合ってきた仲間たち。彼らが貧しい理由は、貴族に農地と家を奪われて、村を追い出されたからだ。ヘジンの父が一座に招き、なんとか食べられるようにした。

 土地と希望を奪った「貴族」身分に属するアン男爵家に自分たちだけ世話になって良い思いをするのは、仲間への、そして、亡くなった父への裏切り行為に思えた。


 ヘジンの言い分に女性はじっくりと耳を傾けた。そして三日間猶予をくれと言った。


 三日後、ヘジン母子は、ある農場へ案内された。そこには、橋の下の仲間たちが集まっていた。

 女性が姿を現してこう告げた。

「この農場はあまり良い土地とは言えない。ゆえに長く放置してきた。これをおまえたちに貸し与えよう。管理人はこの母子とする」

 そう言って、ヘジン親子を指さした。


「農場をどう利用するかは、おまえたち自身で考えよ。三年間は年貢は不要。準備金として一定額を村の基金として与えよう。これは支配ではなく、おまえたちへの投資だ。おまえたちが知恵を絞り、利益を生み出せば、わたしにとっても利益になる。カネは動くもの。回ってこそ意味がある。動かぬ土地はそのための舞台だ」

 女主人のこの言葉が、ヘジンの将来を決めた。


 三年後、不毛の土地は見事に再生した。穀物ではなく、やせた土地でも実るイモ類や野菜、果実を中心に植え付け、それを加工して販売し、村の名産品を作り出したのだ。「生産(一次産業)×加工(二次産業)×販売(三次産業)」の「六次産業」は、生産者がもっとも利益を得ることができる方法の一つだ。ヘジンの発想であり、ヘジンの母がそれを実現した。


 女主人は喜んだ。土地を生き返らせてくれたお礼だと言って、村人に土地を無償で贈与した。その方が土地はさらに喜ぶだろうし、豊かになった農民たちが町で買い物をすれば、それは税として国を潤し、国から恩賞を受けている自分たち貴族のもとにめぐってくる。それが女主人の言葉だった。ヘジンは深く感銘を受けた。


 男爵夫人は、飛び抜けて優秀なヘジンに提案した。アカデメイアで学んではどうか? かの地には名門の女子大学がある。ヘジンは特別奨学生の権利を獲得して、女子大学で経済学を学んだ。

 その女子大学こそ、〈蓮華〉の前身だ。ヘジンは、いまも〈蓮華〉の大口寄付者として名を連ねている。


 ヘジンが尊敬する女主人はすでに夫を亡くし、子はいなかった。

 女主人のただ一人の甥は、爵位を持たず、留学先のカトマールで一人の女性と出会い、彼女を妻に迎えた。パドアという名だった。伯母である男爵夫人の援助を断り、夫婦は質素な家に新居を構え、夫は政府に財務官僚として出仕し、妻は高校教師として生計を立てた。


 すでにミン国で財をなしていたヘジンは、男爵夫人の紹介でパドアに出会った。十歳下のパドアは、カトマール皇帝家に近い由緒ある伯爵家の末娘であったが、自立心が強く、身分や財産による偏見がない女性であった。


 二人は意気投合した。だが、パドアの幸せは長くは続かなかった。夫と生まれたばかりの娘を不慮の事故で亡くしたからだ。

 悲しみに暮れるパドアを、夫の伯母である男爵夫人はラウ伯爵家に送り出した。やがてヘジンはアカデメイアに移り、二人の女性の関係はいったん切れた。


■見えない追跡者

 内戦が大量処刑で幕を閉じて十年。


 その間、カトマール軍事政権は、不安定な政情を高圧的に封じ込めた。反対勢力をことごとく逮捕・監禁した。拷問にあって死んだ者も数知れない。

 恐怖政治に多くの国民は嫌気がさしていたが、表立った抵抗はなくなってしまう。自分が殺されるだけではない。家族もろとも道連れになるからだ。

 近隣諸国も積極的な介入を控えた。カトマール軍事政権の背後に超大国バルジャがいることは公然の秘密だった。カトマールへの介入は自国への侵略の口実にされる。


 軍事独裁政権に対して、民主主義はしばしば無力だ。

 選挙介入、情報統制、法律制定等により、形式的には「合法的」に政権が維持されるからだ。


 だが、軍事政権の維持には無理が伴う。抑え込まれた国民の不満はエネルギーとなって蓄積される。そのエネルギーを放出する糸口になるのもまた民主主義だ。


 十年間のうちに、カトマールでも密かな抵抗の芽があちこちで芽吹き始めた。国内ではこれらの抵抗をまとめる地下抵抗組織を作り、国外では政権転覆の正当性を承認してもらわねばならない。

 他国の協力を求めるには、軍事政権の脅威を語るだけでは十分ではない。虐殺などの犯罪、他国侵略の危険性、核兵器利用の恐れなど、政権継続を否定するに足る強力な説得材料が必要だ。


 アメリアは、ク・ヘジンが提供した〈青薔薇の館〉を拠点にして、パドアとともに軍事政権を覆すために利用できる情報を集めていた。

 二つのルートが役だった。


 一つは、不屈の女性ジャーナリストとして名を馳せたジヨンからの情報だった。ジヨンはペンネームだ。彼女は、カトマール軍事政権の闇をさまざまに告発して、インターネットで発信していた。極秘にパドアにも情報を提供してくれていた。パドアは十分な報酬を与え、ジヨンの活動を陰ながら支えた。

 だが、どこから情報が漏れたのか。居処を秘密にして、本名も顔も隠していたにもかかわらず、ジヨンはスーパーでの買い物の後、自宅に戻ったところを射殺された。幼い娘とイヌが残された。犯人は捕らえられたが、刑罰は「流刑」。「流刑」は、政府支持者にとっては流刑地での収監者虐待の権限を与えられるに等しく、反政府側の者にとっては死刑宣告に等しかった。

 ジヨン殺害の黒幕は、依然として明らかになっていない。パドアは手を尽くしてジヨンの娘とイヌを探したが、その所在はいまだに不明だ。


 もう一つが、カトマール皇室に仕える特殊集団の一つ――諜報・密偵活動を行う〈(ふくろう)〉と呼ばれる組織であった。〈梟〉は、政府情報局の特殊秘密部隊であったが、香華族でもあった。メンバーは明らかにされていないが、要員は幼少時から訓練される。帝国崩壊とともに情報局も再編された。パドアはこの組織を使った。何人かがカトマール軍事政権と軍本体に入り込み、情報を集めた。


 〈青薔薇の館〉でサロンを開いて数年後、目的は達せられた。

 潮時だった。アメリアは計画通り、アカデメイアを引き払い、隠れ家に移り住むことを決めた。だが、なぜか、追っ手がかかった。


 アメリアが持っていたのは、カトマール軍政を倒すために活動資金と軍政が行ってきた犯罪行為の証拠だ。アカデメイアで築いた財産は、口座の秘密を保持することで知られるスイスの銀行に預けていた。個人のための財産ではない。カトマール軍政を倒すための資金だ。この口座からアメリアにたどり着くのはほぼ不可能なはずだ。

 では、軍政の犯罪行為の証拠ファイルからか。これは、〈梟〉の協力を得て手に入れたものだ。パドアが忠実な〈梟〉を選んでいるはずだった。だが、軍事政権に懐柔されたり、脅されたりして、〈梟〉の裏切りは十分にあり得た。

 あるいは、カトマール政府の保護者であるバルジャの国家諜報部、通称〈蝙蝠(こうもり)〉が財産蓄積か、犯罪ファイルに気づいて動いた可能性もあった。

 敵は姿が見えなかった。〈梟〉にしろ、〈蝙蝠〉にしろ、情報と人脈を張り巡らせている高度なプロ集団だ。素人のパドアやアメリアに太刀打ちできるはずはなかった。


 アカデメイアを出て数日後、護衛とともに乗っていた車が山道で襲撃された。パドアに仕込まれた護身術が役立った。護衛は身を盾にしてアメリアを守り、アメリアは山に消えた。

 その後、アメリアは執拗な追っ手の追撃をかわすため、獣道を進み、見知らぬ村の農道を歩いて、安宿を泊まり歩いた。男装し、髪を短くした。それでも美貌が目立つため、昼間は移動を避けた。あるとき泊まった宿で部屋が物色された。他の部屋も物色されており、金目のもの目当ての犯行で、宿の主人は客に平謝りして、警察がやってきた。警察に関わりたくないアメリアは姿を消した。


 一度パドアに連絡し、新しい護衛がやってきたが、それによりかえって行く先々で狙われる結果となった。

――計画と行動が読まれている。


 そう気づいたアメリアは逃避のルートを変え、護衛とも別れ、いっさいの連絡を絶ち、目的地を変えた。追われることはなくなった。月明かりを頼りに夜も歩き続けた。


 やはりどこかから情報が漏れていたに違いない。 落ち着くまではパドアに連絡をとるのも控えた方が良いだろう。

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