Ⅺー4 香りに賭けた再生
■香り
パドアは居住まいを正して、少女を真正面から見た。言葉使いも変わった。
「いまから、とても大事なことを申し上げます」
「大事なこと?」
「はい。お嬢さまは、ひょっとしてカトマールに戻ろうとしておられるのではないですか?」
少女の顔が青ざめ、形の良い唇がかすかに震えた。
「やはりそうでしたか。ならば、絶対に引き留めねばなりません。いま、カトマールに戻ってはなりません。わたしのように、時機を待つ必要があります」
「時機を待つ?」
「はい。カトマールの政情は不安定です。軍事政権を支援するグループが国内外におり、治安が極端に悪くなっています。皇室の関係者や貴族たち、そして軍事政権に反対する市民までもが虐殺されています」
少女の黒く大きな目が見開かれた。長いまつげに覆われた漆黒の瞳は、光を受けると濃い紫色だ。見る者のこころを吸い込むように深い紫だ。
「皇帝陛下も夫君殿下も処刑されました。軍事政権反対のクーデターに加担したという理由です」
「処刑……」
やはりそうか。……噂は事実だったのか。少女は唇を噛んだ。
「単刀直入にお伺いします。あなたさまは皇室ゆかりのお方――皇女リリアンヌさまではございませんか?」
少女は蒼白になった。
「じつは、皇女さまが幼い時になんどかお姿を拝見したことがございます」
少女はふるえながら、パドアを見た。
「なぜ、わたしがわかったのか、不思議でいらっしゃることでしょうね。まだあなたさまはご存知ないのかもしれませんが、皇帝陛下には香華族の血が流れておられます。これゆえ、そのお身体からは、いとも高貴な香りが立ち上っておられました。あなたさまからも同じ香りがいたします。
この香りは香華族同士でなければ気づきません。そうです。わたしも香華族なのです。カトマールでは伯爵家に育ちましたので、あなたさまに比べると香りはずっと劣ります。ただ、あなたさまをお助けしたとき、あなたさまもわたしの香りに安心なさったご様子でした。そのときに気づいたのです」
「……では、最初からわかっていたと?」
パドアは頷き、少女に跪いた。
「皇女さま。わたしはあなたさまに忠誠を誓います。カトマール復興の願いにも協力いたします。ですが、いまは思いとどまってくださいませ。無駄死にになります。あなたさまと皇子さまを命がけでお救いした女官長や侍従たちの思いを無碍にしてはなりません」
皇女リリアンヌは、幼い時から自分の身の周りの世話をしてくれた女官長や乳母、その子どもたちを思い浮かべた。この女性は、女官長に少し似ている。
「まさか?」
「はい。皇帝陛下にお仕えし、ともに処刑された女官長は、わたしの一番上の姉でございます。女官長と乳母の子どもたちが皇女さまと皇子さまの身代わりになったと思われます。皇室や皇室ゆかりの貴族は一族もろともすべて処刑されました。せめて、お二人の身代わりになれて、親も子どもたちもさぞ本望だったと思います。わたしは、こうして国外にいたおかげで命拾いをいたしました」
リリアンヌはパドアの手を取った。とめどなく涙があふれてくる。二人は抱き合って泣いた。
■アメリアとラウ
リリアンヌは、父母が自分を呼んでいた懐かしい呼び名――リリアと呼ぶよう、パドアに求めた。
その後三年間をかけて、パドアはリリアにみっちり政治情勢と社交界の情報を教え込んだ。香華族や「月の一族」に関する神話や異能の伝説も教えた。護身術も仕込んだ。
もともとパドアの生家は古くから皇帝家に仕える一族で、パドア自身も幼い時からさまざまな知識を教え込まれて育った。年が離れた長姉は優秀な末妹パドアに期待しており、結婚でカトマールを離れなければ、次の女官長はパドアとも言われていた。
カトマール宮廷も政府も、政治から女性を排除しなかった。百年ほど前から皇帝位は第一子主義に変わり、次の皇帝位はリリアが継承するはずであった。このため、リリアもまた、幼少期から帝王教育を受けていた。その素地の上で、リリアはパドアの指導をすべて受け入れた。二人はまるで皇帝と女官長のように支え合った。
三年たち、カトマール軍事政権が国外に逃れた残党狩りを終えた頃、パドアはリリアを連れて、アカデメイアに移った。ラウ伯爵に呼び戻されたのである。リリアをミン国の田舎で埋もれさせるつもりなどなかったパドアは、リリアを連れてアカデメイアに戻った。
しかし、パドアはリリアとの関係をラウには秘密にした。事が露見したときに、ラウ伯爵家に累が及ばないようにするためである。
リリアはアメリアと名乗り、金髪碧眼に姿を変えた。カトマール皇帝家は「黒い髪、黒い目」を特徴とする。アメリアとカトマール皇室との関わりに気づく者はいないはずだ。
パドアには旧カトマール帝国とミン国時代に培った人脈があった。中でも最も有力な協力者が、イ・ジェシンの祖母ク・ヘジンであった。
ヘジンは、ミン国の貧民出身であったが、抜群の頭脳と商才を活かして不動産業を大規模に展開していた。幼い頃に病身の母と妹をパドアの亡夫の伯母に救ってもらったことから、深い恩義を感じており、パドアの協力者になったのである。
もっとも、パドアはヘジンに対してすら、アメリアの素性を隠した。ヘジンもそれ以上は詮索しなかった。「知らない」で通すほうが、ヘジンにとっても安全だったからである。
ク・ヘジンは、アメリアの後ろ盾となり、アメリアに瀟洒な館を与え、アメリアを社交界にデビューさせた。貴族身分をもたないヘジンは、社交界では「成り上がり者」と蔑まれており、アメリアの素性もいぶかしまれた。
アメリアをク・ヘジンが利用する高級売春婦と陰口をたたく者も多かった。そのような陰口は、むしろアメリアの素性を隠すための絶好の盾になった。カトマール皇室と最もゆかりが深かったはずのミン国女侯爵――ラウの母――までもが、公然とアメリアを嫌った。アメリアとカトマール皇室の関係を疑う者など皆無であった。
アメリアを高級売春婦と謗る者ですら、彼女の輝くばかりの美貌と生来の気品と優雅さ、幼い時から鍛えられてきた高い教養には一目置かざるをえなかった。それはあらゆる者を魅了した。
社交界で有名になったアメリアは〈青薔薇の館〉と呼ばれた自邸でサロンを開き、多くの者が集った。ヘジンがアメリアに提供したその館の裏の姿は、カトマール軍政を覆すための情報や資金を集めるための組織づくりの拠点であった。
やがて、アメリアが開いたサロンには、アカデメイアで学ぶ多くの若者も集うようになった。その筆頭がラウ伯爵であった。アメリアはすぐにあのとき森で出会った少年だと気づいた。しかし、ラウはアメリアが森で出会った少女だとはまったく気づかないままだった。
ラウは、盟友レンと乳母パドアのためにカトマール民主化に備えた資金援助を惜しまなかった。ただ、それが表沙汰になると、ラウの身が危険になるだけでなく、レンやパドアにも危険が及ぶ。すべては秘密裏に行われた。
ラウはアメリアにすぐ心を奪われた。パドアによると、ラウが他人に関心を持ったのは彼の人生で初めてだという。ラウの恋心をパドアはとても喜んだ。わたしがお育てした若君はさすがにお目が高いと言って喜んだ。
カトマール皇室では、皇室の女性に「女性の貞節」を強要する価値観はない。皇子は香華族から妻を迎えたが、皇女も女帝も優れた男と自由に配偶し、子をなすことが認められた。女系で伝わる香華族の力を残しつつ、他の優れた血を入れるためだ。
ただ、外戚の影響を排除するため、香華族以外を夫に迎えた場合には、子とその父との関係は断ち切られた。子の父は、もともと能力が高い者ゆえ、しばしば相応の地位を得たが、子の父としてのふるまいは許されなかった。子はあくまで「カトマール皇室の子」として大切に育てられたのである。
その開明さゆえに内戦の犠牲になった最後の皇帝アリアも、母が皇帝であったが、父は聡明さと優れた人格で知られた平民出身の美貌の青年だった。
アメリア(リリア)にとって祖母にあたる皇帝ファウンは娘アリアに帝位を譲位したあと、しばらくして亡くなった。リリアの記憶に残るのは、肖像画の中の祖母だ。非常に美しく、香華族の中でも抜きんでた力を持つ女性だったという。祖母ファウンが選んだ男性はただ一人で、アリアが三歳になった頃、祖父の行方はわからなくなったらしい。
ラウは、孤独の影を忍ばせながら、人生を半分あきらめた様子の美青年だった。かつて森で初めて出会った少年のときの暗い面影をなお残していた。ただ、意見は論理的で明快。独特の美学を持っているようだったが、本質は純粋な若者だった。
そんなラウは、いかにも屈折したラウらしく、とても分かりにくい方法でアメリアに求愛した。彼は本気になればなるほど、本心を隠してわかりにくくなる。パドアの助言がなければ、アメリアにはとうてい理解できなかっただろう。そんなラウの求愛にアメリアが応じたのは、森で出会った少年だったからだ。しかし、ラウは最後までそれに気づかず、いまに至っても気づいていない。
■アメリアをめぐる男たち
レンはパドアの親友の息子だった。
将来の首相候補とみなされた英才レンは、早くから留学生としてアカデメイアに送られていたために、難を逃れたのだ。レンは一時期、アカデメイアからも身を隠したが、カトマール軍事政権が反体制派の虐殺に割く予算と人員がなくなって亡命者狩りを断念したことから、アカデメイアに復帰した。
しかし、実家の者がすべて虐殺され、財産も没収されて、レンは無一文の苦学生となった。このレンをパドアとアメリアがそれぞれに庇護した。自制的なレンはアメリアへの恋心を隠し続けた。
かつて、ラウは「わたしのものになってくれないか」と求愛した。アメリアはラウの求愛に応えたが、「わたしは誰のものにもならない」と言って、ラウと一緒になることは拒否した。「あなたは一人でも生きていける」――アメリアの言葉は、その後のラウを支えた。
シャンラ王太子ロアンは、叶わぬ願いと知ったうえで、アメリアにすがって泣いた。失った弟の面影をロアンに重ねたのかもしれない。ただ確かに、アメリアはロアンのことも愛していた。しかし、ロアンも失った。
レンは、長く思いを秘め続けた。祖国を失った青年は、祖国を復興させようとする熱意に満ちていた。アメリアはレンの思いを知っていた。だが、アメリアからは何も語らず、レンもまたアメリアに思いを告げることはなかった。ただひたすら耐え、ただひとすじにアメリアを愛した。




