Ⅺー3 姉と弟
■森の少年
ミン国は、大陸から飛び出した半島にある国だ。蓬莱本島とはフェリーが運航している。
――三十年前のこと。
天月に弟を託した少女は、フェリーに乗った。せっかくここまで逃げてきて大陸に戻るなど狂気の沙汰だろう。だが、弟の安全を確保した今、確かめねばならないことがある。とても、とても大切なことだ。
天月では女性天月士によくしてもらった。にもかかわらず、黙って天月を出た。食べ物と衣服のほかに、金目のものもいくつか失敬した。道中の旅費にするためだ。売ってもたいした金額にはならなかったが、ミン国中部に向かう船には乗れた。
かつて、金など持ったことはなかったし、船やバスになど乗ったこともなかった。だが、逃避行で鍛えられた。今なら何でもできる気がする。
だが、甘かった。船に乗る前に金目のものを売った相手につけ狙われた。ミン国では路線バスに乗ったが、途中で無理やりバスから降ろされ、森に引き釣り込まれた。必死で逃げ出した。なんとか追っ手をまくことができたが、まったく知らない場所に迷い込んでしまった。
早く逃げねば、もっと遠くへ、はるか遠くへ。
そう思う少女の目の前で小さな男の子が切り株につまずいて転んだ。弟と同じ年頃。思わず、その子を助け起こした。黒い髪、黒い目の愛らしい子は弟を思わせた。
ケガをした膝を手当てしてやっていると、小雨が降ってきた。向こうから、別の少年が駆けてきた。あわてて逃げようとしたが、幼い子が涙目のまま、服をつかんで離さない。少年は上着を脱ぎ、少女と幼児の上にかざした。少女と少年の目があった。そのとたん、少女はすぐさま身をひるがえし、森の奥に消えた。
だが、その後、追っ手の男に見つかった。
再び逃げ惑ううち、とらえられ、殴られた。その時、一台の車が通りかかった。車から屈強な男たちが出てくるのを見て、追っ手の男は逃げて行った。少女は気を失いかけていたが、なんとか意識を保った。ぼんやりとさきほどの少年の姿が見え、身体が震えた。
その後ろにいた年配女性があわてて駆け付けた。その女性に抱きかかえられると、フッとなつかしい香りがした。そのまま意識を失ったのだろう。気が付くと、その女性の家のベッドに寝かされていた。
少女が目覚めたのに気づいた女性は、やさしげな笑みを浮かべて、温かい飲み物を勧めた。
「安心して。ここはわたしの家。わたし以外だれもいないわ。さあ、これを飲んでもう一度ゆっくり休みなさい」
女性の声は穏やかで、少女はホッとしたまま、ふたたび眠りについた。
次に目覚めたとき、朝の光が差し込んでいた。
「あら、お目覚め? 朝ごはんを用意したの。一緒に食べましょうか?」
ベッドから降りようとして、少女は顔をしかめた。右足首が痛い。
「気をつけて。あなたはひどい捻挫をしていたの。お医者さんに診てもらって、湿布をしているから、動くときはそっと、そうっとね」
少女は頷いた。小さな食卓には、焼き立てのパンと温かいスープが置かれていた。部屋の中はシンプルだったが、あちこちに植物の鉢が置かれ、居心地が良い。
一匹のネコが入ってきた。
「あれあれ、ソラもお目覚めかい? ほら、ご飯はこっちだよ」
ネコはふにゃあと鳴いて、食事場所で一心不乱にご飯を食べた。少女はその光景を見ていた。かつて彼女もネコを飼っていた。その子も行方はわからない。ほろりと涙が出そうになって、思わず顔をそむけた。
パドアと名乗った女性は、少女に風呂を勧め、着替えを渡した。天月でも女性天月士が細やかに世話をしてくれた。だから、弟を託した。このつつましい家とのんびりしたネコの主人であるやさしそうなこの女性も信頼できるかもしれない。所詮、痛めたこの足ではすぐに動くことはできまい。だが、美しい少女は自分の名を名乗らなかった。この親切な女性に害が及んではならない。
パドアの家に来て一週間ほどたった。足の腫れは引き、歩くのにほぼ支障はない。少女は切り出した。
「これまでお世話になりました」
「ここを出ていこうとしているの?」
パドアが穏やかな声で尋ねた。
「はい。わたしにはやるべきことがあるのです」
「行く当てはあるの? 家族がいるとか、親戚や友達がいるとか?」
「……いいえ」
「ならば、もうしばらくここにいてはどう?」
「でも、ご迷惑がかかります」
「いいのよ。ちっとも迷惑なんかじゃない。あなたがやりたいことを止める権利はわたしにはないけれど、あなたはまだ若すぎる。一人では無理よ。また危険な目に遭うに違いないわ」
「……はい、自分の未熟さは十分わかっているつもりです」
東に向いた窓から清々しい朝の光が差し込み、窓辺に置かれた数鉢の植物を照らした。
「さあ、そこに座って。わたしのことを少し話してもいいかしら?」
「はい」
■乳母の来歴
パドアは話し始めた。
「わたしは、じつはカトマールの出身なの」
「え……?」
少女は驚いた。なぜカトマールのことを話すのだろう。いぶかしむ気が沸き上がって、おもわず手を握り締めた。パドアはその手をやさしく包んだ。
「カトマールでは内戦が起こってたいへんなことになっていて、わたしの親戚もほぼすべてが殺されてしまった。でも、戻りたくても戻れない。戻るとわたしもつかまって殺されるのがわかっているから。だから、いまここでできることをやろうとしている。そのために、わたしは仕事をやめてここに戻ってきたのよ」
「仕事をやめて?」
「ええ。わたしはラウ伯爵家の乳母をしていたの。あなたを助けたあの少年が、わたしがお育てした伯爵家の若君よ」
「ラウ伯爵家……世界一の財閥を率いているというあのラウ伯爵家ですか?」
「そう。ラウ伯爵家は名門貴族で、若君のお母上は侯爵令嬢。けれども、若君はあまりお幸せではなかったわ。わたしは、若君がお気の毒で、長くおそばを離れなかったけれど、カトマールで内戦が起こったことで、わたしの人生も大きく変わったのよ」
少女はパドアを見上げた。ソラという名のネコがパドアの膝の上に飛び乗って丸くなった。その柔らかな毛を撫でながら、パドアは遠い目をした。
「わたしが若い頃のカトマール帝国は文化が花開く美しい国でね。皇室御一家は国民に敬愛されていたわ。開明派の皇帝陛下は、国民のために、古い因習を打ち破る改革を次々と行っていらしたからね。でも、それは貴族の特権の制限につながるから、反発する貴族もいたの。きっとそうした貴族が軍部や外国勢力と手を結んだんでしょう」
「……」
「カトマール帝国大学はいまのアカデメイア以上に、世界の学術の中心だった。わたしの夫はミン国の者で、カトマール帝国大学に留学していたの。わたしは夫と出会って恋に落ち、ミン国にやってきたのよ。こちらでは高校教師をして幸せだったわ。娘も生まれてね。このネコは、夫が拾ってきたネコの孫ネコなのよ」
「そうだったのですか……」
「でも、幸せって続かないものなのね。夫と娘が事故で亡くなったの。わたしは泣きわめいたわ。腕に抱く娘はもういないのに、乳は出るのよ。そんなとき、ラウ伯爵家からお声がかかったの。夫は若君のお父上と幼馴染だったから。若君を腕に抱いたときから、わたしは、この子のためにできるだけのことをしようとそう決意したわ。若君もわたしによくなついてくれた」
少女は頷いた。
「若君はかわいそうな子だった。家柄・財力・才能・美貌のすべてに恵まれながら、若君がいちばん望んだ愛をご両親から得られなかったんだもの。あなたが森で助けた幼い子は、若君ゆかりの方。その子は豊かとはいえない環境で育ったけれども、あふれるような愛情をご両親から受けてこられた。若君はそれをとても……とても羨んでおられた。でも、口に出されたことはない。一度も……」
「心が強い方なのですね」
「ええ、よくおわかりね。でも、本当の若君は寂しがり屋で、愛に飢えている。お父上がいろいろな人に騙されたから、他人を信用しないの。お友だちもいないわ。いつも一人で強がっておられる。いつか、だれか本当に信頼できる人に出会えたら、若君の人生も素晴らしいものになるでしょうけれど、若君ご自身が心を閉ざしておられるの」
まるで、いまの自分と同じだ。
「あなたにもごきょうだいがいるのかしら?」
「弟がいます。……故あって別れましたが」
「やっぱりね。あの幼い子に対するあなたの気配りから察して、きっとそうだと思ったわ」
パドアは微笑んだ。




